【個人戦術の前に】 −“日本独自の”技術の整理−
序章
「個人戦術が足りない」
「判断が遅い」
「欧州との差が埋まらない」
日本のサッカーでは、長い間こうした言葉が繰り返されてきました。
そしてその多くは、戦術や意識、あるいはフィジカルの問題として語られてきたように思います。
しかし本当に、そこが出発点なのでしょうか。
私はプロサッカー選手への技術指導を続ける中で、そして最近、プロ野球の投手たちと接点を持つ中で、ある共通点に気づかされました。
それは、技術がどれだけ「整理されているか」という点です。
プロ野球の投手たちは、球種を語ります。
ストレート、スライダー、フォーク、カット。
自分が何を投げているのか、なぜそれを投げるのかを、きわめて具体的に理解しています。
一方で、サッカーの技術はどうでしょうか。
インサイドキック、インステップキック、トラップ、ドリブル。
言葉はあります。
しかし、それらがどの局面で、何を減らし、何を生むのかまで、整理されて語られることは多くありません。
結果として、「知らないを知らない」という状態が生まれます。
存在を知らなければ、選択肢にならない。
選択肢にならなければ、磨かれることもない。
これは才能の問題ではありません。
努力の量の問題でもありません。
前提の問題です。
日本のサッカーは、決して怠けてきたわけではありません。
むしろ逆です。
真面目に、丁寧に、技術を教えてきました。
しかしその過程で、教えすぎたがゆえに、型に落としすぎたがゆえに、失われてきたものもあります。
今回の記事で扱うのは、新しい戦術論でも、欧州の最新トレンドでもありません。
個人戦術の前に、一度立ち止まって整理すべき「日本独自の技術」についてです。
それは否定のための整理ではありません。
進化を止めるための話でもありません。
むしろ、これまで積み重ねてきたものを正しく見直し、選手が再び「選べる状態」に戻るための整理です。
技術は、自由であるべきです。
そして個人戦術とは、その自由が成立した先に、初めて現れるものだと、私は考えています。
この文章が、日本のサッカーを否定するためではなく、もう一段、前に進むための思考の足場になれば幸いです。
第1章|日本は、技術を教えすぎる
日本のサッカーは、決して技術軽視の文化ではありません。
むしろその逆で、技術をとても大切にしてきた国だと思います。
止める。
蹴る。
運ぶ。
これらを丁寧に分解し、言語化し、反復させる。
育成年代から、非常に真面目に取り組んできました。
しかし、その誠実さが、ある地点を越えたとき、「教えすぎる」という別の問題に変わっていったように感じています。
■ 教えすぎとは、量の問題ではありません
まず誤解を避けるために確認しておきます。
私が言う「教えすぎる」とは、単に指導量が多いという意味ではありません。
問題なのは、
技術を「型」として固定すること(ピタ止め、パター式インサイド…etc)
その型を「正解」として刷り込むこと(アウトサイドはチャラいと怒られる…etc)
局面や選択肢よりも、再現性を優先すること
この3点が同時に起きていることです。
結果として、選手の中には「なぜその技術を使うのか」よりも、「そう教わったから使う」という回路が出来上がっていきます。
■ 集団指導が生んだ“揃った技術”
日本の育成は、長く集団指導を前提として発展してきました。
多くの選手を同時に見る。
同じメニューを行う。
同じ基準で評価する。
この環境では、
揃えやすい
見分けやすい
ミスが減る
技術が重宝されます。
その結果、「誰がやっても同じ形になる技術」が洗練されていきました。
これは決して間違いではありません。
短期的には、安定したパフォーマンスを生みます。
しかし同時に、技術が“手段”ではなく“目的”になっていくという副作用も生みました。
■ 技術が「考えなくていいもの」になる
技術が型として完成すると、それは「考えなくていいもの」になります。
ここではこの蹴り方
この距離ならこのタッチ
この向きではこうする
判断が要らなくなる一方で、選択肢が減っていく。
選択肢が減るということは、相手にとっては「読みやすくなる」ということでもあります。
本人は丁寧に、正確にプレーしているつもりでも、局面が進まず、相手が動かない。
こうした違和感が、「判断が遅い」「創造性がない」という言葉に置き換えられていきます。
■ 欧州との違いは、熱量ではなく前提にあります
ここでよく持ち出されるのが、「欧州はもっと自由だ」という言説です。
しかし、欧州が自由なのは、努力をしていないからでも、教えていないからでもありません。
教えなくても成立する前提があるというだけです。
利き足で蹴り、必要であれば逆足。
空いていれば運び、相手を引きつける。
無理なら逃がして、やり直す。
この大枠だけが共有され、細部は選手の體と感覚に委ねられます。
日本は逆でした。
細部まで丁寧に教えることで、前提そのものを作ろうとした。
その結果、前提が“固定された型”として残ってしまった。
■ 教えすぎは、悪意ではなく成功体験から生まれます
重要なのは、この問題が善意と成功体験の積み重ねから生まれている点です。
うまくいった
ミスが減った
チームが機能した
だから、その方法が正解として残った。
しかしサッカーは、相手が変われば、環境が変われば、同じ正解が通用しなくなります。
そのとき、型しか持っていない選手は、立ち止まってしまう。
■ 技術を減らすために、整理が必要になる
ここでようやく、本稿のテーマにつながります。
私が言う「技術の整理」とは、新しい技術を足すことではありません。
余計に固定されたものを解くことです。
なぜそれを使うのか
使わない選択肢はあるのか
別の方法は存在しないのか
これを、選手自身が理解できる状態に戻す。
個人戦術とは、この「選べる状態」の上にしか成立しません。
だからこそ、個人戦術の前に、技術の概念と整理が必要なのです。
第2章|1軸キックという「日本独自の」技術進化
日本のサッカーには、世界的に見ると少し特異な技術があります。
それが、軸足を固定した1軸キックです。
これは一部の例外的な話ではありません。
育成年代から、非常に広く、深く浸透してきた技術です。
私が指導している多くのJリーガーも最初は1軸です…
■ パター式インサイドキックという完成度の高い「型」
日本で一般的に教えられているインサイドキックは、
軸足をしっかり固定する
上体を安定させる
股関節を外旋させる
蹴り足を振り子のように振る
膝下の振りの強弱
というパター式です。
この蹴り方は、
正確
再現性が高い
教えやすい
という利点があります。
実際、日本の選手はこの蹴り方によって、高いパス精度を身につけてきました。
問題は、この蹴り方が「一つの選択肢」ではなく「前提」になってしまったことです。
■ 「止めて、蹴る」が1軸化を加速させた
日本では長く、「止めて、蹴る」が重要視されてきました。
この考え方自体は間違いではないでしょう。
しかし現場で多く見られたのは、
止めるときに軸足を固定する
蹴るときも同じ軸足で立つ
体重移動を極力させない
足元でつまり判断が遅れる
という実装でした。
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サッカー個人戦術
欧州を基準としたグローバルスタンダードな個人戦術を体系的に解説。ポジショナルプレーを前提に、技術と判断を“戦術化”する思考を養います。1対…
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