採点者のいない朝
母親のいない帰省で、早朝に目が覚めた。隣で小学二年の末の子が寝息を立てている。私はスマホを片手に、こんな文章を打っている。
このところ考えていることがある。子どもは、親に見守ってほしいと感じている。一緒になって遊ぶ必要はない。そこにいてくれること。それだけで何かの安心があるらしい。安全な場所なら親が見えなくても構わないはずだ、と大人は思うのだが、子どもにすれば、いてくれるだけで違うのだ。
そして親のほうも、一緒にいるからといって終始子を凝視していなくても構わないのだろう。スマホを眺めていてもいい。そこにいて、時々目をやる。呼ばれたら顔を上げる。それで足りている。
この感覚を確かめる機会が増えたのは、皮肉なことに、上の子たちが「一緒にいて」と言わなくなったからだ。中学生と高学年の子は、もう私を呼ばない。一緒にいても長く何かをするわけではないし、正直、親のほうが楽しめるわけでもない。末の子と二人で過ごす時間だけが、あの独特の質感——それぞれ好きに過ごしながら、呼べば返る、という間合い——を残している。
呼ばれるということ
見守りの中身は、注視ではない。回線が開いていることだ。子どもはときどき、こちらを振り返る。意味のない報告をしに来る。あれは会話というより疎通確認で、返答の中身より、返ってきたという事実のほうが情報なのだと思う。
そして子が親を呼ぶのは、親が無力だからではなく、親に力があるからだ。呼べば事態が変わる相手だから呼ぶ。無力な相手は呼ばれない。親子の間には歴然とした力の差があって、それでも子が親の傍らで安心して遊べるのは、力が消えているからではなく、力がむやみに発動しないと予測できているからだろう。呼ばなければ介入してこない。呼べば返る。監視と見守りを分けるのは、視線の量ではなく、この予測のしやすさなのだと思う。
だとすれば、上の子たちが呼ばなくなったのは、愛情の減衰ではない。中学生の悩みの中心は友人関係や自意識で、そこでは親はもう事態を変えられない。呼びかけは、親の力が届く範囲を正確になぞる。呼ばれなくなることは、管轄が狭まったという報告なのだ。頭ではそう整理できる。整理できることと、寂しくないことは、別の話だが。
応じることと、応じてやること
呼べば返る、と書いてきたが、返事の中身が「はい」である必要はない。無理なときは無理だと返す。それも応答である。むしろ無視や生返事、気まぐれな翻意のほうが、回線の死に近い。子どもが必要としているのは願いの充足率ではなく、呼びかけが真剣に受信され、理由のある返事が返ってくるという確かさなのだと思う。おねだりへの「ダメ」は、あなたの要求は届いた、検討した、そして通らない——という三つの応答を圧縮したものだ。
それに、毎回応じてやることは、たぶん親自身を蝕む。無理を重ねた承諾は、見えない負債として積み上がり、あるとき些細な引き金で一括請求される。文脈と不釣り合いな激怒。「あんなにしてあげたのに」。子から見ればそれは予測のつかない力の暴発で、日々の百の承諾が築いたものを一度で焼き払う。毎回の小さな「無理」は、この負債を都度決済する仕組みなのだろう。ほどほどは妥協ではなく、規律なのだ。
——と、ここまでは言える。問題はその先だ。
採点者がいない
ほどほどが難しいのは、それが文脈に依存するからだ。同じ「今日は無理」でも、子の疲れ具合、直前の出来事、きょうだいへの対応との釣り合い、親自身の余力によって、正解にも失敗にもなる。規則には書き下せない。そして規則にできないものは、外から採点できない。審判とはルールブックの執行者だから、ルールブックが原理的に書けない競技には、審判が立てられない。
しかも結果が出るのが遅すぎる。個々の判断の当否は、その場では分からず、十年二十年後の子の姿に混ざり込んで現れる。その頃には、どの判断が効いたのか、遡って確かめるすべがない。子育てとは、打った瞬間に結果が出ないうえに、結果が出た頃には打席の記録が消えている競技なのだ。唯一の判決らしきものは、成人した子の回想だが、あれは判定というより二次創作に近い。
もっとも、採点者がいない、と言い切るのは正確でない。正解を知る審判がいない、のだ。そして正解を知る審判がいないからこそ、審判を名乗る者が増殖する。この採点不能の空白を、放っておいてくれる者はいない。育児書が、発達指標が、専門家が、SNSに流れてくる他所の家の記録が、疑似のスコアを売りに来る。愛着、自己肯定感、非認知能力。判定できないものに物差しをあてがい、不安を可視化することで不安を再生産する。そして最も過酷な採点者は外部にはいない。規範を呑み込んだ親自身の内なる採点者が、実在のどの審判よりも厳しく、常時営業で赤ペンを握っている。
けれど、逆から見ればどうか。採点者がいないからこそ、見守りは見守りでいられるのではないか。もし共在の質が計測され評価されるなら、親の応答はその瞬間にパフォーマンスへ変わり、視線は子ではなく採点表に向かう。あの穏やかな時間は、誰にも見られていない、証明を要求されない、という条件の下でしか生じない種類のものなのだと思う。
親に与えられているのは、点数ではない。子がまだ呼んでいる、という事実だけだ。スコアではなく、脈拍。呼びかけが続いている限り、回線は生きている。ほどほどの実践とは、採点表を捨てて、脈を聴く構えに移ることなのかもしれない。
何をやっているのだろうか
——と、書いてきて、ふと手が止まる。
私はいま、呼びかけだの応答だの回線だのと、本来なら意識にのぼらないはずのものを、片端から言葉にしている。見守りとは長らく、名前を持たない実践だった。囲炉裏端で、縁側で、親は手仕事をし、子は傍らで勝手に遊んだ。誰もそれを「応答可能性の維持」などと呼ばなかった。呼ぶ必要がなかったからだ。
それを私は、こうして対象化している。採点者はいないと書いたそばから、自分の書くこの文章が、新しい採点基準の下書きになりかねないことに気づく。「ほどほどでいい」は、油断すればそのまま「ほどほどにできているか」という新しい設問に化ける。採点表を捨てろと書く行為が、採点表を一枚増やしている。この倒錯から、書き手である私は逃れられない。
しかも私がこれに気づいたのは、母親のいない帰省先でだった。ふだんの家では、呼びかけの多くは母親に向かう。子どもは転んだとき、夜中に目覚めたとき、無意識に宛先を選んでいて、私は第二回線だ。回線が一本に落ちて初めて、私は呼びかけの全量を受信し、その重さに気づいた。つまり、穏やかに共在するとか、スマホを見ていてもいいとか、そういうことを考える余裕そのものが、ふだん誰かが背後で回線を維持してくれているから成り立っていたのかもしれない。この文章は、免除されてきた者の、例外状態での気づきにすぎないのかもしれない。
では書かなければよかったのか。そうも思えない。名前のない実践は、名前がないまま静かに続くこともあれば、名前がないまま静かに失われることもある。quality timeという規範——共働き化で親子の時間が希少になった一九七〇年代以降のアメリカで広まった、「短くても濃密な関わりこそが子育ての質を決める」という考え方——が「濃密に関われ」と迫ってくる時代に、希薄な共在の価値は、一度は言葉にされなければ守れない気もする。言葉にすれば歪む。言葉にしなければ流される。この間で、私はどちらつかずのまま書いている。
隣で、子がまだ寝息を立てている。呼びかけがゼロの共在。それでも見守りは続いている。寝息とは、子が意図せず発し続けている生存の信号で、私はいま、文字どおり脈を聴いているのだった。この時間に点数はつかない。つかないままでいい、と書くこの一行にすら、うっすらと自己弁護の匂いがする。それも含めて、判定のないまま、続けるほかないのだろう。
夜が明けてきた。子が起きたら、たぶん何か言ってくる。何と返すかは、そのとき考える。
