小野田紀美氏に見る「個人崇拝政治」の危険
いまSNSで拡散されている「スパイ防止法に反対する人ってスパイなんですか?」という言葉。これは、小学生がよく言う「バカって言う奴がバカ」と同じ構造の、きわめて稚拙な論理だ。
本来、議論すべきは法律の必要性や定義の妥当性、運用の歯止め(※)の有無であって、反対意見を“スパイ扱い”することではない。
民主主義の根幹は「異論の存在を許すこと」にある。
賛成・反対の双方が、事実と理性に基づいて意見を交わすことこそが、健全な国家の安全保障を支える。
しかし、そんな幼稚な理屈を振りかざし、SNS上で喝采を浴びている政治家がいる。それが高市内閣で初入閣を果たした小野田紀美氏だ。
彼女は経済安全保障担当大臣のほか、「外国人との秩序ある共生社会推進担当」という新設ポストも兼務している。
とりわけ後者の担当は注目に値する。
小野田氏はかねてより「違法外国人」に厳しい立場を取ってきただけに、この分野でどのような政策を展開するのか、注視の必要を感じる。
※歯止めなんて必要ないよ!って方は「大川原化工機事件」でググってみてください。
自己責任と「努力」の政治化
小野田氏は、2018年にX(当時Twitter)でこう投稿している。
「憲法で定められた国民の義務は『勤労・納税・子女に教育を受けさせること』。義務を果たしていれば権利を主張して良いと思う」
この発言は、憲法が保障する「基本的人権の無条件性」に反するとの大きな批判を受けた。さらに、小野田氏は自身が母子家庭に育った経験から、「国が1人親家庭を支援することは、子育てから逃げた人の穴埋めに税金を使うようなものだ」との見解も示している。
確かに彼女は、米国人の父親に捨てられ、母子家庭で苦労しながら政治家になり、大臣の地位までに上り詰めた人物であり、その努力は立派だ。
だが、その個人的経験を根拠に「貧困は努力不足の結果」「支援は不要」と結論づけるような態度を示すのであれば、社会政策を担う者としてきわめて危うい。
個人の努力を否定するわけではない。
だが、努力の機会そのものが不平等である現実を無視すれば、政治は弱者を切り捨てる方向に傾く。
教育格差、非正規雇用、ジェンダーによる賃金格差―
こうした構造的な問題を「努力不足」で片づけてしまえば、社会の連帯は失われていく。
政治家が語るべきは「努力すれば報われる社会をどう作るか」であり、「努力できない人を見捨てる理由」ではない。
もし自己責任の思想が政権の主流になれば、日本社会は「競争に負けた者を切り捨てる修羅の国」と化すだろう。
「愛国」にすり替わるアイデンティティ
小野田氏の経歴にはもう一つの側面がある。
それは、米国人の父に捨てられたという出自と、それによるアイデンティティの揺らぎだ。彼女の強い「愛国」姿勢は、その不安定さを補うための自己同一化の手段として機能しているようにも見える。
もしそうであるならば、その“愛国”は普遍的な価値への共感ではなく、個人的な喪失を埋めるための、イデオロギー化された忠誠に傾く危険がある。
それが「国家への忠誠を証明する」手段として暴走すれば、かつてのFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァー(※)のように、「異質な存在」を監視・排除する方向へ過剰に傾くリスクをはらむ。
※ジョン・エドガー・フーヴァー(1895–1972)はFBI初代長官として48年間君臨し、共産主義者や市民運動家を“国家の脅威”と見なし、違法な盗聴や監視を繰り返した人物。彼の行動は「国家の安全保障」を名目に個人の自由を抑圧する権力の危険性を象徴している。
排除の論理と政権の冷徹さ
このような人物を要職に起用した高市首相の判断にも冷徹さを感じる。合理的な政策遂行よりも、「排除の論理」を政治的支持の結束に利用しているのではないか。「国を守るための愛国」が、「社会の多様性を損なう排外主義」へと変質してしまわないか。
その危うさは、個人の資質にとどまらず、政権の方向性そのものに影を落とす。国家安全保障の名のもとに、多様な声を排除し、異論を“敵”とみなす社会になってはならない。健全な民主主義を守るためにこそ、私たちは「異論を許す勇気」を手放してはならない。
結語
スパイ防止法をはじめとする安全保障政策の議論は、「誰を排除するか」ではなく、「どのように守るか」を中心に行われるべきである。
感情的な愛国ではなく、理性と共感に支えられた政治こそ、この国が多様性を持ったまま強くなる唯一の道だ。
そしていま、早くも彼女のルックスやオタク趣味を理由に持ち上げるポピュリスティックなネットの反応が広がっている。
その光景に、私は「個人崇拝政治」の危険を感じざるを得ない。政治参加とは“推し”ではなく“責任”である。今後、彼女がどのような言動を示すのか、冷静に注視していきたい。
