「大長編 タローマン 万博大爆発(感想)“爆発”と“秩序”のあいだに立つタローマン】
私は元々ウルトラマンのファンだったので、正直いうと最初にタローマンを知ったときは、ウルトラマンを茶化したパロディ作品のように見えて、あまり良い印象を持ちませんでした。そういう経緯もあってテレビ版も観ておらず、関心を寄せることもなかったのです。
ところが今回、長編映画化を機に『大長編 タローマン 万博大爆発』を鑑賞してみると、その印象は一変しました。
「ウルトラマンのパロディ」という先入観が吹き飛ぶほど、この映画には驚くほどの“真剣さ”がありました。画面から伝わるのは、異常なまでのアナログ特撮への偏愛です。
その熱量はCG映像の洗練を超えて、創意工夫と手仕事の多幸感に満ちあふれている。私はいつのまにかニコニコしながらスクリーンを見つめていました。それは『シン・ウルトラマン』からは整えられることで失われていた、あの“野蛮で過剰なエネルギー”の爆発がこの作品にはあったからです。
思い返せば、子どもの頃の私は、ダダやゼットンといったウルトラ怪獣と同じカテゴリーで、太陽の塔を「奇妙だけれど親しみのある存在」として見ていました。本作を観ているうちに、その感覚が鮮やかに蘇りました。
「きっとこの作品の制作者たちも、私と同じ感覚を共有していたのではないか」――そんな共感が胸に広がり、タローマンを観る体験は懐古ではなく“再会”のような感覚として心に刻まれました。
ただ、観終えたあとに気づいたこともあります。この作品の“昭和感”がどこか脱臭されていたのです。昭和特撮に漂っていたエロやバイオレンスの匂いが巧みに取り除かれ、洗練されていた印象が残ります。近年、公園の裸婦像が撤去されるなど、かつては「良きこと」とされた表現が価値観の変化によって“公共の場から取り除かれていく”現象が現代の日本社会では進んでいます。
『タローマン』もまた、そうした現代的なフィルターを通して再構築された「安全な昭和」と言えるでしょう。けれど、それは単なる丸くなった懐古ではなく、“今の観客に届く形に昇華された昭和”でもあります。
タローマンの背景には、二人の芸術家―岡本太郎と成田亨―の存在が重なります。岡本は「芸術は爆発だ!」と叫び、野蛮で混沌としたエネルギーを肯定した芸術家。
一方でウルトラマンをデザインした成田は、造形を「美しく整える」ことで秩序と洗練を追求した現代美術家でした。
タローマンは、この“爆発”と“秩序”という相反する二つのエネルギーのはざまから生まれた存在です。
作品全体を貫く「でたらめ(混沌)」と「秩序(コスモス)」のせめぎ合いは、まさに岡本の爆発的生命力と成田の構築的造形美、その緊張関係をそのまま映し出しています。だからこそ『タローマン』は、懐古的なおふざけ映画にとどまらず、「人間とは何か」という普遍的なテーマに真正面から挑む映画になり得たのだと思います。
『シン・ウルトラマン』が最新のCG技術で成田の「真実と美と正義の化身」を再構築したのに対し、『タローマン』は手触りを伴った“でたらめな野蛮さ”を取り戻しました。しかもそれを、現代の価値観の中で再解釈してみせた。そこに私は、この映画の思想的な立ち位置―岡本太郎の爆発と成田亨の秩序、その「あいだ」に立ち、なお人間の本質を問いかける姿―を見ました。
『大長編 タローマン 万博大爆発』は、ただの懐古映画ではありません。
かつて太陽の塔を見上げて「なんだか怖いけど、好き」と感じたあの記憶との再会であり、同時に、「今という時代にもう一度“爆発”を取り戻すための映画」でもあるのです。
タローマンは、昭和を懐かしむだけのヒーローではなく、“爆発”と“秩序”という二つのエネルギーのはざまで、私たちに「生きるとは何か」を問いかけてきます。だからこそこの映画は、懐古でもパロディでもなく、再会と再生の物語として、日本人がいま観るべき一本だと思います!必見!
