考察『ズートピア2』の希望はどこにあるのか
日曜日に10歳の娘と一緒に映画を観に行きました。
娘は既に3回観た『羅小黒戦記2』の4回目を観たがっていたのですが、上映スケジュールの都合で断念せざるを得ず、「じゃあズートピア2でもいい?」という形で親子鑑賞が始まりました。
娘は「シャオヘイチャーム欲しかった…」と落ち込んでいましたが、私は前作『ズートピア』を「ディズニーアニメ10年に一度の傑作」と評するほど、深い思い入れがありました。
ディズニー作品の中で突出した映像表現と、表面の甘い砂糖菓子のようなカラフルなビジュアルの下に潜んだ鋭利な社会批評。
それは“子ども向けアニメ”の枠を超え、強烈なメッセージとして胸に刺さりました。
当時、私はブログでこんな感想を書きました。
安倍総理が4/26、保育士の給与水準を「女性の全産業平均」と比較して(引き上げの)基準にしたという話を聞きました。
「ふーん、そうなのか」
その言葉に疑問を持たない人も多いでしょう。
しかし、なぜ保育士の給与基準が「女性の」平均給与を基準に論じられなくてはならないのでしょうか?
なぜ、男女全ての業種の平均を元にそれが論じられないのでしょうか?
そこには厳然と「保育士は女の仕事」という「決めつけ」が存在するのだと思います。
国のトップがこういう感覚で政治を行い、多くの国民(多数派の人々)がそれに疑問を持たない。
「昔からそういうものだった」
そんな多数派による悪意無きステレオタイプの「思い込み」が
人を型にはめ
人の生き方を既定し
人の自由を奪う
それこそが
「最も恐ろしい罪」なのだという事をこの映画は告発していると思います。
人の自由は圧政や暴力によって奪われるのではない
善良な多数派の人達の無意識な思い込みによって略奪されるのだ。
甘い甘い砂糖菓子でコーティングされているけれど
そんな無意識の略奪者である私達の胸にグサリと突き刺さるナイフを忍ばせている… そんな恐ろしい映画です
必見。
その視点は、いま振り返っても本質的だったと思います。
ただ、あれから9年。世界はあの頃よりも混沌とし、より深刻な問題を抱えています。
本稿では、そうした時代の変化を踏まえつつ、『ズートピア2』がどのような挑戦を行ったのか、そして何を語ろうとしたのかを、私なりに読み解いていきたいと思います。
■1.9年のあいだに世界で何が起きたのか
――「分断」が物語づくりを難しくする時代
『ズートピア』が公開された2016年──
アメリカではトランプ政権が誕生し、世界は大きく揺れ始めました。その後、
社会の分断の加速
SNSによる憎悪と言説の極端化
MeToo運動の台頭
陰謀論の拡散と政治のハッキング化
民主主義への信頼の低下
といった現象が次々に起こり、私たちの社会はかつてないほど“対話の難しい”世界になりつつあります。
とくに深刻なのは、陰謀論が民主主義政治をハッキングし、右派と左派が互いを“理解すべき他者”ではなく“憎むべき敵”として扱い始めてしまったことです。
「話し合えば分かり合える」という希望は、もはや現実にそぐわなくなりました。
こうした背景の中で、
「子どもたちに夢と希望を語る役目を担うディズニーが、いったい何を語ればいいのか?」
という問いを抱えながら作品づくりをしている製作者の苦悩が、本作を観ながらひしひしと伝わってきました。
■2.前作の核心は「善良な多数派」の危険性だった
――偏見は悪意からではなく“無意識の思い込み”から生まれる
改めて前作『ズートピア』を振り返れば、そのテーマはとても鋭いものでした。
善良であるはずの多数派の無意識の偏見が、人の生き方を奪い、社会全体を不自由な方向へ導いてしまう。
これは日本社会にも通じる構造であり、私は当時、
「保育士の給料を“女性の平均給与”を基準に語る政治」
を例に挙げて、『ズートピア』が描く批判性をブログに書きました。
そこには、「保育士は女性の仕事」という無意識の決めつけがあります。
国のトップがそれを疑わず、多くの国民もまた疑わない。
そうした“悪意なき偏見”こそが、人の自由を奪い、搾取を不可視化していく。
前作はその「恐ろしい優しさ」を告発する作品でした。
(その意味でジュディを苦しめる一番のモンスターは両親でした)
しかし9年後の続編が、同じスタイルで社会批評を行うことは、もはや難しくなっています。
それは世界が、すでに「偏見」という言葉だけでは語りきれない段階まで深く傷ついてしまったからです。
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■3.『ズートピア2』は“関係性”を描く物語へ
――社会の改善ではなく、“個人の連帯”へ舵を切った理由
『ズートピア2』の大きな特徴は、前作のように社会構造を物語の中心に据えるのではなく、ジュディとニックの「関係のすれ違いと再生」という個人的な物語を縦軸に置いている点です。
ジュディは正義に献身し、世界の歪みを正したい。
ニックは過去の傷から人を疑い、歪んだ世界で“なんとか生き延びたい”。
互いを大切に思うがゆえに、互いの価値観がぶつかり、最強の相棒だった二人の間に、どうしようもない齟齬が生まれてしまいます。
これは、前作の“希望の結末”をあえて一度壊し、その破片から再び関係を築き上げる過程を描く物語です。 本作を観ながら私はこう感じました。
ジュディは、善意ゆえに暴走してしまう「行き過ぎたリベラル」。
ニックは、現実への諦念を抱えた「冷笑的な保守」。
ジュディは正義の名のもとに、
「変わらなければいけない」と相手に強く求めてしまう瞬間があります。
それは現代アメリカの“急進的リベラル”を想起させる描き方でもあります。
一方でニックは、
「世界はそんな簡単には変わらない」と冷めた視線で物事を見る。
理想を掲げる人々の言葉をどこか信用せず、
傷を負った分だけ現実主義に傾いてしまった。
これは“冷笑的な保守主義”に近い姿です。
本来であれば最も対立しやすい価値観を持つ2人。しかし、本作は彼らが “考え方の違いを超えて相棒であり続ける” 姿を描きます。
それこそが、『ズートピア2』が現代に提示する希望なのだと思います。
なぜディズニーは、この「個人同士の連帯」を中心に据えたのでしょうか。その答えは、もはや社会全体に向けて「正しさ」を語ることが、解決につながらない時代になってしまったからだと思います。
世界のあまりの分断と混沌を前に、社会を丸ごと変えようとする物語は、現実味や説得力を失いつつあります。
だからこそ本作は、
「理解し合えなくても、誰かとつながることはできる」という、小さくても確かな「個人間の関係性」に希望を見出し、そこに光を当てたのではないでしょうか。
■4.“怒りを語りきれない”爬虫類区画の問題
――アメリカ先住民族の影を背負うモチーフの扱い方
本作で新たに提示される社会テーマが、
爬虫類たちの居住区が抱える歴史的な排除と周縁化の問題です。
都市から隔離された居住区、
発展から取り残される環境、
文化的アイデンティティの喪失、
「危険だから隔離するべき」という決めつけ──。
その構造は、アメリカ先住民族の居留地問題を強く連想させます。
しかし、ここでもディズニーは大胆な批判には踏み込んでいません。
爬虫類代表のゲイリーは驚くほど温厚で、本来であれば怒りを爆発させてもいい立場の人物が、優しさを失わないまま描かれています。
それは、ディズニーが抱える“表現の限界”でもあると感じました。
現実の痛みをそのまま描けば、子どもたちが受け止めきれないほど深刻になってしまう。物語のバランスも壊れてしまう。
ディズニーは、「怒りと憎しみの歴史」を語りきれないという限界と誠実に向き合った結果、ゲイリーのような優しいキャラクター像が生まれたのだと感じます。
■5.陰謀論ポッドキャスト配信者・ニブルズの扱いが示す現実の困難
今回の物語で驚かされたのは、事件解決の鍵を握るのが“陰謀論好きのビーバー・ニブルズ”であることです。
現実のアメリカでは、
SNSによる陰謀論の拡散
Qアノン的な思想の広まり
科学より「信じたい物語」への傾倒
が深刻化し、選挙結果を左右することも珍しくありません。
本来であれば、陰謀論キャラは“デマを撒き散らす危険人物”として描くべきとも言えます。しかし本作では、ニブルズは“有能な情報源”であり、物語の核心を次々と見抜く重要人物として描かれています。
私はこの描写に、ディズニーの葛藤を感じました。
危険な言説が社会を動かしてしまう時代に、生半可な否定は意味をなさない。かといって肯定することもできない。
だからこそ、“善良な陰謀論者”として描くという中庸的な解決を選ぶしかなかったのではないか──。
この処理の難しさそのものが、現代社会が抱える問題の深さを象徴しているように思えました。(※陰謀論キャラが真実を突いていたという展開は、『ゴジラxコング 新たなる帝国』にもありましたね…)
■6.リンクスリー一家という“トランプ的存在”
――フィクションの優しさと限界
さらに本作には、明確にドナルド・トランプを思わせるキャラクターが登場します。それが、自らの縄張りを広げるためには手段を選ばないヤマネコ一家のボス、ミルトン・リンクスリーです。
彼の
パーティ好きな成金的ライフスタイル
他者を攻撃する言葉遣い
家族を引き連れて動く“ファミリー”感
しかし役に立たない者は家族であっても容赦なく切り捨てる非情さ
といった要素は、ドナルド・トランプを想起させる描写だと言っていいでしょう。
しかし本作では、彼らは“コミカルな悪役”にとどまります。その危険性は笑いへと転換され、深刻な政治批判へは向かいません。
現実では、ミルトン・リンクスリー的な虚言が多くの支持者を獲得し、排外主義に“民衆が力を与えて”しまっている。それを子ども向けアニメで扱う限界がここにはあります。
この「問題の深刻さ」と「作品の優しさ」のギャップは、本作の無力さでもあり、しかし同時に、それでも現実の問題を語ろうとするクリエイターたちの執念を感じさせる部分でもありました。
■7.ズートピア2の希望はどこにあるのか
――社会を変える物語から、「共に生きる物語」へ
前作が掲げたのは、
「偏見を認識し、乗り越える」という、ある種の“社会改革の物語”でした。
しかし『ズートピア2』が提示する希望はもっと静かで、もっと個人的です。
それは、
理解し合えなくても、相手を大切にし続けることはできる
ということ。
リベラルと保守の象徴として描かれたジュディとニックは、考え方の違いや対立を抱えながらも、
“相棒であり続ける”ことを選びます。
これは社会全体の分断を一気に解消する魔法ではありません。
しかし、
「民主主義の最小単位は、隣にいる誰かとの関係である」
という視点を示しているように思えます。
社会は変えられないかもしれない。
けれど、あなたとわたしの関係なら変えられる。
この小さな希望こそが、本作の核なのではないでしょうか。
それは決して逃げではなく、むしろ現実に対する、いまのディズニーが出せる精一杯の誠実な回答だったように思います。
■8.結語
――「もっとできただろう」と思いながら、それでも応援したくなる作品
『ズートピア2』を観終えたあと、私は二つの相反する感情を抱きました。
ひとつは、
「もっと踏み込めただろう」という物足りなさです。
社会問題の扱い方は穏当ですし、現実の混沌はもっと深刻です。ドラマとしても、前作ほどの鋭さはありません。
しかしもうひとつは、
「それでも、作り続けてくれてありがとう」という感謝と共感でした。
社会が壊れ始め、
陰謀論が政治を動かし、
分断が深まり、
偏見が憎悪に変わり、
対話の糸が切れてしまった時代において、
子どもたちに希望を語ることがどれほど難しいか。
その困難と向き合いながら、
“希望を諦めない物語”を必死に紡ごうとしてくれたことが、
私はうれしく思ったのです。
『ズートピア2』は完璧な作品ではありません。
しかし、
「壊れゆく世界で子供たちに何を語るべきか」
という問いに、これほど誠実に挑んだ作品はそう多くありません。
そして、鑑賞後に娘が「面白かったね!」と笑ってくれたことが、私にとっては何よりの救いであり、幸せでした。
是非、親子で観て語りあって欲しい作品です!
