ポップスと浄土真宗的視点から見た『般若心経』現代日本語訳 お経は暗くてつまらないか? 仏教ポップスへのいざない 10
「般若心経現代語訳」で検索したところ、
「36万4000件」も当たってしまいました! (2025年3月31日午前0時05分)。
こういう中で、僧侶でも学者でもジャーナリストでもない私の現代語訳に何がしかの意義があるとするなら、それは、
「独自性」というものでしかありません。
そして、その独自性とは、私の場合、
「浄土真宗」と「ポップス」です。
浄土真宗門徒[もんと](檀家、信者)としてありがちなことに、私も長らく『般若心経』を読んだことがありませんでした。
そんな私が『般若心経』と出会ったのは、シンガポールの門前町で出会った仏教ポップスCDに入っていた、
王菲(フェイ・ウオン)と張智霖(ジュリアン・チョン)の
『般若心経』デユエット
でした。
それ以来、『般若心経』の勉強はしましたが、その分かりにくいことは、『讃仏偈』『阿弥陀経』など他の経典が遠く及ばないことです。
何篇もの解説文や何冊もの本を読んだものの、分かりませんでした。
特に分かりにくいのは、後半に出てくる呪文の部分です。
結論から先に言うと、こんがらがったこんな私の頭を解きほぐしてくれたのは、浄土真宗の「他力の念仏」「御恩報尽の念仏」という概念でした。
つまり、「仏さまが我々人間に何かよいをことを齎[もたら]してくださることを当てにして、対価として聖句を唱える」のではなく、
「仏さまは我々人間に救われる道を明らかにしてくださったので、それへの謝意として我々は聖句を唱える」
というものです。
さて、こうしてさんざん苦労してようやく産み出されたのが、以下の現代語日本語訳『般若心経』です。
『般若波羅蜜多心経』
觀自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
< 観自在菩薩は、深き般若波羅蜜多[はんにゃはらみった]を行ないし時、>
釈迦如来の意を受けた観音菩薩は、「深い般若波羅蜜多[はんにゃはらみった]」に総括される「六波羅蜜」、すなわち「布施(差し上げる)・持戒(決まりを守る)・忍辱(耐え忍ぶ)・精進(努める)・禅定(心を落ち着かせる)・智慧(真実を知る)」という六つの徳目を成し遂げた結果、
照見五蘊皆空 度一切苦厄
< 「五蘊[ごうん]はみな空なり」と照見して、一切の苦厄を度[わた]れり。>
世の中の全ての物質や精神は、みな、色々な要素・条件「五蘊[ごうん]」が重なって、そういう状態になっているだけであって、それら自身が具体的な実体というわけではなく、全体の真相は「空[くう]」に過ぎない、ということを発見した。
それによって、無いはずの実体を追い求めて、見つからず、苦悩していた自らや他の人たちの心を解放した。
舍利子 色不異空 空不異色
< 舎利子よ、色[しき]は空に異[こと]ならず、空は色に異ならず。>
舎利弗[しゃりほつ]よ、物や事すなわち「色[しき]」は実体の無い空[くう]にほかならず、そういう「空」がいろいろな状態を見せて「色」になっているにほかならない。
色即是空 空即是色
< 色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり。>
要するに、「色」がそのまま「空」であり、「空」がそのまま「色」なのである。
受想行識 亦復如是
< 受・想・行・識[じゅ・そう・ぎょう・しき]もまた、是[かく]のごとし。>
精神作用を説明する「受・想・行・識[じゅ・そう・ぎょう・しき]」もまた「色[しき]」と同様、単なる用語に過ぎず、それらを合わせた五つの概念「五蘊[ごうん]」に実体があるわけではない。
舍利子 是諸法空相
< 舎利子よ、この諸法は空[くう]の相にて、>
舎利弗よ、このように世の中の諸々の事物はみな、実相として「空」なので、
不生不滅 不垢不淨 不增不減
< 生ぜず滅せず、垢[あか]つかず浄[きよ]からず、増えず減らず。>
それらが生まれるとか滅びるとか、汚れるとか浄[きよ]らかになるとか、増えるとか減るとかいうことは、そもそもあり得ない。
是故 空中無色 無受想行識
< この故[ゆえ]に空[くう]の中には、色[しき]無く、受・想・行・識[じゅ・そう・ぎょう・しき]無し。>
これゆえ、無限なる「空」という真実の中で、色[しき]だの「受・想・行・識[じゅ・そう・ぎょう・しき]」だのといった人間が作った分類にこだわっても、意味は無い。
無眼耳鼻舌身意
< 眼・耳・鼻・舌・身・意[げん・に・び・ぜつ・しん・い]無し。>
「眼・耳・鼻・舌・身・意[げん・に・び・ぜつ・しん・い]」という「六根[ろっこん]」も物事を説明するための概念に過ぎない。
無色聲香味觸法
< 色・声・香・味・触・法[しき・しょう・こう・み・そく・ほう]無し。>
「色・声・香・味・触・法[しき・しょう・こう・み・そく・ほう]」という「六境[ろっきょう]」にも同様に、実体は無い。
無眼界 乃至無意識界
< 眼界[げんかい]無く、ないし意識界も無し。>
「眼界[げんかい]」から「耳界・鼻界・舌界・身界」も含めた「意識界」までの「六界」にも実体は無い。
無無明 亦無無明盡
< 無明[むみょう]無く、また無明が尽[つ]くることも無し。
人間の愚かさをいう「無明[むみょう]」も概念に過ぎないから、そういう用語にとらわれる必要は無い。
ただ、人間にかかわる事実として愚かさそのものが無くなるわけではない。
乃至無老死 亦無老死盡
< ないし老死も無く、また老死が尽くることも無し。>
「老死」も概念に過ぎないから、そういう用語にとらわれることはない。
ただ、人間にかかわる事実として、老いや死が無くなるわけではない。
要するに、「無明」から「行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生」を経て「老死」にいたる「十二因縁(十二支縁起)」も物事を説明するための方便に過ぎず、そういう単語に振り回されることはない。
無苦集滅道
< 苦・集・滅・道[く・じゅう・めつ・どう]も無し。>
「苦・集・滅・道[く・じゅう・めつ・どう]」という「四諦[したい]」も、その中の一つ「道」から派生した「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」という「八正道」も、用語に過ぎず、それらにとらわれることはない。
無智亦無得
< 智なく、また得るところも無し。>
こういう「五蘊」とか、「六根」「六境」とか、それを合わせた「十二処」とか、更に「六識」を加えた「十八界」とか、「十二因縁」とか、「四諦」「八正道」とかは、みな概念に過ぎず、実体は無いのだから、こういう形而上学をいくら知ったところで、真実のさとりは得られない。
以無所得故
< 得るところ無きを以[もつ]ての故に、>
以上のような方法でさとりは得られないのだから、
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
< 菩提薩埵[ぼたいさった]は、般若波羅蜜多によるが故に、>
菩提薩埵[ぼたいさった]=略称・菩薩[ぼさつ]は、「五蘊皆空」「色即是空」等にまとめられる真実の理法「般若波羅蜜多」を拠り所とした。その結果、
心無罣礙 無罣礙故
< 心に圭礙[けいげ]無く、圭礙[けいげ]無きが故に、>
心に差しさわりや妨げが無くなり、差しさわりや妨げが無くなったゆえ、
無有恐怖
< 恐怖[くふ]の有ることも無く、>
恐怖も無くなり、
遠離(一切)顛倒夢想
<(一切の)顛倒夢想[てんどうむそう]を遠く離れて、>
教条が人間を支配するような(一切の)転倒した妄想を遠く離れ、
究竟涅槃
<涅槃[ねはん]を究竟[くきょう]す。>
さとりを究めた。
三世諸佛 依般若波羅蜜多故
< 三世諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に、>
過去・現在・未来の全ての仏も、「般若波羅蜜多」を拠り所としたために、
得阿耨多羅三藐三菩提
< 阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]を得たり。>
最上のさとり「阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]」を得ることができた。
故知 般若波羅蜜多
< 故に知るべし、 般若波羅蜜多は、>
これ故、分かったことは、「般若波羅蜜多」を讃える祝詞[のりと]は、
是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
< これ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり。>
不可思議な力を持つ祝詞であり、大いなる智慧の祝詞であり、この上ない祝詞であり、比べるものの無い祝詞だということである。
能除一切苦 真實不虛
< 能[よ]く一切の苦を除き、真実にして虚ならず。>
「般若波羅蜜多」は一切の苦悩を取り除く真実であって、虚無ではない。
故說 般若波羅蜜多咒
< 故に般若波羅蜜多の咒[しゅう]を説かん。>
それゆえ、「般若波羅蜜多」を讃える祝詞を説こう。
即說咒曰
< 即ち咒を説きて曰く、>
その祝詞とは以下のものである。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
< ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー>
行こう、行こう、真実の世界へ行こう、真実の世界へ共に行こう!
菩提 娑婆訶。
< ボディ スワーハー!>
さとりよ、幸[さち]あれ!
(令和7=2025年3月31日 白井千彰 訳)
〇 『般若心経』ポップスはこれまでいくつか事例を紹介いたしました。
仏教ポップスへのいざない
で
検索していただければ、いくつか当たると思われますので、ここでは一つだけURLを紹介させていただきます。
↓
仏教と芸能の香港 ジャッキー・チェンも歌う『般若心経』。 お経は暗くてつまらないか? 仏教ポップスへのいざない 4|白井千彰
