授業は「思いのキャッチボール」の場である――社会科授業と知的好奇心についての一考察
はじめに
本稿では、私が社会科の授業について考えてきたことを整理して述べたいと思います。きっかけは、「授業は活発なのにテストの成績が上がらない」という議論でしたが、そこから私は、「学びの方法論」の前に、もっと根本的な問題があるのではないかと感じてきました。
1 学びの出発点は「知的好奇心」である
私が何よりも大切だと考えているのは、子どもの知的好奇心です。
「これは面白いな」「なぜだろう」という感情が立ち上がらない限り、本当の意味で自分から考えることは始まらないと思います。
学び方の技術や方略もたしかに必要ですが、それは本来、この好奇心のあとからついてくるものです。
最初にあるべきなのは、「目を輝かせて、これは面白いと思える瞬間」であり、その出発点が抜け落ちている議論は、どこか本質からずれているように感じます。
そして、この好奇心を呼び起こすためには、教える側自身が「これは面白くてしょうがない」と心から思っていることが不可欠だと考えます。教師が義務感から子どもに「考えなさい」と求め、その義務感を受け取った子どもが「言われたから考える」のでは、そこには生命のある思考は生まれません。
2 「考えてみなさい」と言われても人は考えない
「考えてみなさい」と指示されて、本気で考え始める子どもは、実はそれほど多くないのではないかと思います。
考えるという行為は、本来、自分の内側から湧きあがるものであって、外側からの命令だけで動かせるものではありません。
だからこそ、教師はできるだけ「子どもにさせる」のではなく、「子どもが自分から考えたくなる」状況を用意する必要があります。
そのためには、まず教材そのものが面白いこと、そして子どもが何かを言ったときに、その拙い意見の中から光る部分を拾い上げて、そこを認めて伸ばしていく姿勢が重要だと思います。
もちろん、あまりにひどい言い方や、事実とかけ離れた乱暴な意見に対しては、きちんと批判をすることも必要です。相手が子どもであっても、そこはごまかさずに向き合うべきだと考えます。
しかしその批判も、頭ごなしに否定するのではなく、なぜそう考えたのかを一緒に問い直す方向で行うべきでしょう。
このように、子どもの自発的な好奇心を土台にしながら、それを適切に方向づけしていく役割こそが、いま求められている「新しい教師」の姿ではないかと私は考えます。教師は知識の押し付け役ではなく、ファシリテーターとして、子どもの思考のプロセスに寄り添い、支えていく存在であるべきだと思います。
3 教師自身が好奇心を失っているという決定的な問題
ここで、最大にしておそらく唯一と言ってよいほどの決定的な問題があります。
それは、教える側がすでにそうした好奇心を失ってしまっているという現状です。
私は在職中、何人もの同僚に同じ言葉を聞いてショックを受けてきました。
曰く「授業がおもしろいわけないよ」
自分が担当している教科の授業について、教師自身が実は面白がっていない。
この状況こそが、今日の学校現場の根底にある深刻な問題だと感じます。
教師が面白がっていない内容を、子どもだけが面白がることは、基本的にはありえません。
授業の場に立つ人間のまなざしや声の調子、選ぶ例や問いかけの一つひとつに、その教科への本気の興味がにじみ出ているかどうかは、子どもにすぐに見抜かれてしまいます。
私は、授業の「技術」以前に、この点を直視する必要があると思います。
どれほど優れた学習方略を導入し、どれほど丁寧な指導案を組み立てても、教える側に「これは面白い」という実感がなければ、それはどこか空虚なものにならざるをえません。
4 授業は「技術」だけでなく、思いを交わす場である
人と話していて感じることですが、その人が独善的ではなく、本心から面白いと思って話していることは、相手にも不思議と伝わるものです。
言葉の内容以上に、「この人は本当にこれが好きなんだな」「本気で考えているんだな」という気配が、会話の雰囲気として伝播していきます。
授業もまったく同じだと思います。
授業とは、単にテクニックを用いて効率的に知識を伝える場ではなく、教師と生徒がお互いの気持ちや思いを投げ合う場なのではないでしょうか。
そう考えると、授業の本質は、表面的なスキルではなく、「思いのキャッチボール」にあります。
教師が「これは面白い」「ここは本当に考える価値のあるポイントだ」と感じて投げたボールを、子どもが受け取り、「自分はこう感じる」「自分はこう思う」と投げ返してくる。
この往復が生まれたとき、初めて授業は、単なる説明の場から、真の学びの場へと変わるのだと思います。
5 社会科という教科のポテンシャル
私は社会科を担当していましたが、とくに政治経済や現代社会という科目は、本来きわめて有利な条件をもった教科だと考えています。
なぜなら、そこで扱う問題の多くが、生徒自身のごく身近な問題そのものだからです。
税金、選挙、福祉、年金、労働、消費、メディア、環境…。
こうしたテーマは、決して遠い世界の話ではなく、今ここで生きている自分自身の生活や人生と直結しています。
その接点さえきちんと示すことができれば、ほとんどの子どもは「自分ごと」としてまともに考えようとします。
これは社会科に限らず、他の教科にも同じことが言えると思います。
重要なのは、「自分との接点をどこまで感じられるか」です。
いくら立派な内容でも、「自分には関係ない」と感じている限り、人は本気で考えようとはしません。
逆に言えば、どれだけ「考えなさい」と言葉を重ねても、それはあくまで「一言」にすぎず、自発的に考えるところまでは届きません。
自分の生活や将来、自分の価値観と結びついたときに初めて、その言葉は「自分の問題」として響き始めるのだと思います。
6 私が行ってきた社会科授業の工夫
私自身の社会科授業では、教科書の記述を「正解」や「当たり前」として子どもに覚えさせるような扱い方は、できるだけ避けてきました。
むしろ、教科書に出てくる一つの用語や一つの記述を、「本当にこれは正しいのか」「別の見方はないのか」という問題提起として提示することを大切にしてきました。
具体的には、ある用語やテーマについて、ニュースやドキュメンタリーや映画の一部を見せたり、新聞記事や統計資料、歴史的な資料など、さまざまなものを並べて提示します。
そして私自身は、そこで「結論」を語らず、「問いかけ」だけをします。
「あなたはこれをどう感じますか」「あなたはどう思いますか」――それだけを、真正面から投げかけます。
これだけで、子どもは自発的に考え始めます。
もちろん、最初から全員が深い意見を語れるわけではありませんし、拙く、まとまりのない発言も多くあります。
しかし、それでも「自分の言葉で何かを言おうとする」ことが始まれば、そこから少しずつ思考は鍛えられていくと感じてきました。
7 社会科が「暗記科目」になってしまう理由
にもかかわらず、現実の社会科は、「暗記科目」「つまらない科目」の代表のように扱われてしまっています。
私は、この状況の背景には二つの要因があると考えています。
ひとつは、教科書のあり方です。
社会科や歴史の教科書は、多くの場合、「国家が承認した公式の物語」として出来事や用語が並んでおり、「なぜそう書かれているのか」「他の見方はないのか」といった問いを挟みにくい構造をもっています。
もうひとつは、その教科書を「自ら問い直そうとしない教師自身のあり方」です。
教科書に書かれていることを、そのまま「教えるべき正解」とみなし、それを効率よく暗記させることが社会科の役割だと考えてしまえば、授業は必然的に「覚えて再生する訓練」になってしまいます。
私は、問題は社会科という教科そのものにあるのではなく、この二つの構造――教科書の権威性と、それを疑わず受け入れてしまう教師のあり方――にこそあると感じています。
おわりに
ここまで述べてきたように、私が社会科授業を通じて大切にしてきたのは、
知的好奇心を出発点にすること
教師自身が心から面白がっていること
授業を「技術」ではなく「思いのキャッチボール」の場としてとらえること
社会科を生徒自身の生活や人生に直結した問題として扱うこと
教科書を「正解」ではなく「問いの材料」として提示すること
でした。
もし教育の現場が、「学習方略」や「主体的・対話的で深い学び」といったスローガンだけでなく、こうした根っこの部分――好奇心、面白さ、自分ごととしての切実さ、そして教師自身のあり方――にもう一度立ち返ることができれば、社会科は決して「暗記科目」ではなく、むしろもっとも豊かな学びの場になりうると、今でも信じています。
