縮んでいるのは、おまえの脳ミソだろ?――「狭小ニッポン」と呼ぶ大人たちの視野の狭さ
日本経済新聞の記事を読みました。
身長も人間関係も小さくなる 「狭小ニッポン」との向き合い方:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD011HM0R00C26A7000000/?n_cid=dsapp_share_android
記事の趣旨は、こういうことです。
日本人の身長が、かつてのようには伸びなくなっている。 若者の人間関係も、以前より狭くなっている。 けれども、それを単純に悪いこととして否定してよいのだろうか。 大きくなること、広くつながること、拡大することだけが幸福なのだろうか。 小さく、狭く、身の丈に合った暮らしにも、新しい幸福の形があるのではないか。
一見すると、これは優しい見方に見えます。 無理に大きくならなくてもいい。 無理に人間関係を広げなくてもいい。 小さな暮らしを肯定してもいい。 そういう話に見えます。
しかし、私は読みながら、こう言いたくなりました。
縮んでいるのは、おまえの脳ミソだろ?
かなり乱暴な言い方であることは承知しています。 どうかご容赦ください。 しかし、そう言いたくなるほどアタマにきているのです。
これは単に、若者の身長が低くなっているとか、人間関係が狭くなっているとか、そういう話ではありません。 問題は、それを見た大人が、しかもジャーナリストが、さらに編集委員という肩書きまで持つ人間が、そこにある社会の病理を批判するのではなく、「それも幸せではないか」と言ってしまうことです。
それは、ジャーナリズムの堕落そのものではないでしょうか。
「小さくなること」を幸福と呼んでよいのか
小さく、狭く、身の丈に合った暮らしにも、新しい幸福の形があるのではないか。
一見すると、これはやさしい言葉に見えます。 たしかに、個人が自分の意思で小さく生きることは否定されるべきではありません。
過剰消費から降りる。 無理な人間関係を減らす。 大きな家も高級車もいらない。 静かに、簡素に、自分の納得する暮らしをする。 それ自体は、もちろん一つの生き方です。
しかし、そこには決定的な区別があります。
自分で選んだ小ささは、豊かさになりうる。 しかし、選べなくなった小ささは、貧しさである。
この区別をしないまま、「小さくても幸せ」と言ってしまうのは、かなり危うい。
実は、この問題は世界の学問でも、中心的に論じられてきたことです。 経済学者のアマルティア・センは、抑圧された環境に置かれた人々は、欲望そのものを縮めることで主観的な満足を得てしまう、と指摘しました。 だから「本人が幸せだと言っている」ことは、幸福の証明にはならない。 「適応的選好」と呼ばれる問題です。
欲望は、環境に合わせて縮む。 縮んだ欲望が満たされている状態を「幸福」と呼ぶのは、測り方そのものの誤りなのです。
若者が夢も希望も持たないことを、なぜ幸せというのでしょうか。 それは幸せではありません。 幸せを求めていないという、痛々しい姿ではないでしょうか。
夢を持たないのではない。夢を持てなくされている
本来的には、人間は逆境に置かれたときほど、改善意欲も向上心も持たざるを得なくなるものです。 あまりに露骨な飢餓や暴力や抑圧があれば、「抜け出したい」「変えたい」「勝ち上がりたい」という欲望が生まれやすい。 もちろん全員がそうなるわけではありません。 しかし、逆境がはっきりしていれば、敵も原因も目標も見えやすい。
ところが、現代日本の若者が置かれている状況は、それとは違います。
最低限の衣食住は、かろうじて保たれている。 飢えてはいない。 スマホもある。 コンビニもある。 動画も見られる。 ゲームもできる。 SNSで誰かとつながることもできる。 だから、表面的には不幸には見えません。
しかし、家を買える感じはしない。 結婚や子育ては重い。 収入が大きく伸びる気もしない。 努力しても報われる保証がない。 失敗すればやり直しにくい。 政治も社会も変わる感じがしない。 自分が何者かになれる見通しもない。
つまり、最低限の衣食住がギリギリ保たれている一方で、それを打ち破る展望が持てない。 だから、人は最低限に甘んじてしまう。 これは幸福ではありません。 低位安定です。
最低限はある。 しかし、上昇の階段がない。 その結果、人は最低限を「自分の幸福」として受け入れるようになる。
これは、夢を持ちたくないのではありません。
夢を思い描くの人類の本能的な欲求のはずです。その可能性が閉ざされている。
そういうなかで 夢を持つと苦しいから、夢を持たないようにしているのです。
「別に結婚しなくていい」 「別に車はいらない」 「別に出世しなくていい」 「別に海外に行かなくていい」 「別に広い家はいらない」 「別に人と深く関わらなくていい」 「別に何者かにならなくていい」
一つ一つは個人の自由に見えます。 しかし、社会全体でそれが広がるなら、それは自由な選択というより、望むことをやめる訓練です。
「身の丈に合った暮らし」という言葉の危うさ
「身の丈に合った暮らし」と言えば、聞こえは良いです。 しかし、それは資本主義以前の停滞社会と似ているのではないでしょうか。
かつての停滞社会では、身分、家、村、地域、職業がほぼ固定されていました。 農民の子は農民、職人の子は職人、商家の子は商家。 個人がそこを打ち破る可能性は極めて小さかった。 だから「身の丈に合った暮らし」は、ある意味では現実認識でもありました。 望んでも不可能だったからです。
しかし、現代は違います。 現代には、移動の自由があります。 教育があります。 情報があります。 インターネットがあります。 外国にも行けます。 仕事も変えられます。 発信もできます。 個人が階層や地域や人間関係を越えていく手段は、かつてよりはるかに多い。
にもかかわらず、多くの人がその可能性に気づかず、狭い世界の中だけで「これが現実だ」と思い込んでいる。 ここが致命的です。
つまり問題は、単なる貧困や停滞ではありません。 世界認識の狭さです。
本当は、世界はもっと広い。 生き方ももっと多い。 稼ぎ方ももっと多い。 人間関係ももっと作り替えられる。 場所も変えられる。 職業も変えられる。 学び直しもできる. 発信によって自分の居場所を作ることもできる。
ところが、狭い学校、狭い職場、狭い家族、狭いSNS、狭い友人関係、狭い日本語圏の空気だけを見て、それを「世界」だと思ってしまう。 狭いところから見て、これが世界だと思い込んでいるだけなのです。
現代の「身の丈」は、昔の身分制とは違う
昔の「身の丈」は、ほぼ制度によって決められていました。 しかし現代の身の丈は、かなりの部分、自分が世界をどう認識しているかによって決まってしまいます。
本当は突破口があるのに、見えていない。 本当は外に出られるのに、檻の中しか知らない。 本当は選択肢があるのに、「自分にはこれしかない」と思い込んでいる。 これは、開かれた社会の中で、閉じた意識を生きている状態です。
「身の丈に合った暮らし」という言葉は、その閉じた意識を正当化してしまう危険があります。 もちろん、無理な競争や過剰消費に巻き込まれないことは大事です。 しかし、「身の丈」という言葉が、自分の可能性を広げない言い訳になった瞬間、それは成熟ではなく諦めになります。
本来なら、現代人はこう考えるべきです。
いま見えている世界が、世界のすべてではない。 いま属している場所が、自分の限界ではない。 いまの収入、職場、人間関係、地域、言語圏が、自分の運命ではない。
ところが、その認識がない。 だから狭いところから世界を見て、「この程度が自分の人生だ」と納得してしまう。 これは幸福ではありません。 正確に言えば、世界を狭く誤認した結果としての低位安定です。
かつての停滞社会は、制度的に閉じていた。 現代日本の停滞は、制度以上に、認識が閉じている。 ここが本質だと思います。
見えていないのか、見たくないのか
ここで、もう一歩踏み込む必要があります。 なぜ、認識が閉じるのか。
見えていないのか。 それとも、見ようとしていないのか。
私は、後者だと考えています。
イソップ寓話の狐は、届かない葡萄を「どうせ酸っぱい」と決めつけました。 哲学者のヤン・エルスターは、この「酸っぱい葡萄」を、人間が欲望を作り変えてしまう典型として分析しています。
届かないものを、届かないまま欲し続けるのは苦しい。 だから人は、世界の方ではなく、自分の欲望の方を作り変える。 そして、同じことが認識のレベルでも起きています。
広い世界を見てしまえば、いまの自分との落差に向き合わなければならない。 それは痛い。 だから、見ない。 英語圏では「意図的盲目(willful blindness)」と呼ばれ、研究の一領域になっている現象です。
見えないのではありません。 見たくないのです。 つまりこれは、認識能力の欠如ではなく、痛みの回避です。 不都合な現実に向き合う耐性そのものが、この社会では弱くなっている。 夢のレベルで起きていること――夢を持つと苦しいから持たない――と、まったく同じ構造が、世界認識のレベルでも起きているのです。
では、見えているのに、あえて言わない者はいないのか。 いるでしょう。 組織の中で、書けば波風が立つことを知っていて、書かない者。 あるいは、真実を見せれば社会が動揺するとうそぶいて、慰撫を処方する者。
しかし私は、それは一部だと見ています。 大半は、この記者と同じ地点にいる。 つまり、策略ではなく、本気で信じている。 そして、そちらの方が深刻です。
欺瞞には、まだ真実を知る欺瞞者がいる。 だが、信じ込んだ見張り役の社会には、もう真実の在り処を知る者がいない。 いずれにせよ、機能は同じです。 眠った見張りも、寝たふりの見張りも、持ち場が空いていることに変わりはない。
問題は若者ではなく、大人の思考停止である
さらに重大なのは、若者だけでなく、大人たちもそう思い込んでいることです。 しかも、その大人の中に、社会の問題を指摘し、あるべき方向を指し示すはずのジャーナリストまで含まれている。 これが最も深刻です。
若者が「小さく生きるしかない」と感じるのは、まだ理解できます。 彼らはその社会の中に置かれている当事者だからです。 賃金、雇用、住宅、教育費、将来不安、人間関係のコスト。 そういう制約の中で、自分を守るために欲望を小さくすることはありえます。
しかし、ジャーナリストはそこに一緒に沈んではいけない。 本来なら、若者の諦めを見たときに、こう問わなければならないはずです。
なぜ彼らは諦めているのか。 それは本当に選択なのか。 社会が選択肢を奪っているのではないか。 その背後にある政治・経済・教育・雇用の失敗は何か。 この国はなぜ若者に未来を見せられなくなったのか。
ところが、そこで「それも幸せではないか」と言ってしまう。 これは、問いを立てる前に終わっています。 つまり、現象を見ているが、構造を見ていない。 若者の状態を描いているが、そこへ追い込んだ社会を問うていない。 縮小を観察しているが、縮小させた力を見ていない。
...これはジャーナリズムとして、かなり致命的です。
ジャーナリズムの役割は、社会の空気をなぞることではない
本来、ジャーナリズムは社会の空気をなぞるものではありません。 社会の空気に含まれている欺瞞や諦めや圧力を見抜き、それを言葉にするものです。
若者が夢を持てない。 人間関係を広げない。 消費しない。 結婚しない。 将来に期待しない。 大きなことを望まない。
そこで問うべきなのは、なぜそうなったのか、です。 誰がそうさせたのか。 どんな社会構造が若者から展望を奪ったのか。 教育は何をしてきたのか。 政治は何を怠ったのか。 企業は何を押しつけてきたのか。
そう問うのがジャーナリズムの役割のはずです。
ところが、それを問わずに、 「狭くなったけれど、それも幸せかもしれない」 と言ってしまう。
これは社会批判ではありません。 現状追認です。 もっと言えば、衰退の言い換えです。
だから「縮んでいるのは、おまえの脳ミソだろ?」というタイトルは、ただの悪口ではありません。 若者が縮んだのではない。 社会が若者の可能性を縮めた。 そして、その縮小を幸福として語ってしまうジャーナリズムの認識こそが、最も深刻に縮んでいる。 そういうことです。
編集委員までがそう言う国
もうひとつ決定的なのは、こんなことを大人、しかもジャーナリストで編集委員という肩書きまで持つ人間まで言っているということです。
そんな国がありますか?
少なくとも民主主義を標榜する国で、社会の劣化を警戒すべき立場のメディア中枢が、それを幸福として撫でてしまっている国を私は知りません。
実は、似た現象そのものは、隣国にもあります。 中国の「躺平(タンピン)」です。 過酷な競争から降りて、最低限で生きる。 結婚しない。 家を買わない。 消費しない。 頑張らない。 現象としては、日本の若者の縮小とほぼ同型です。
しかし、決定的な違いがあります。 中国では、国家や官製メディアが躺平を「危険な風潮」として警戒し、批判しました。 放置すれば社会の活力が失われることを、体制側が理解していたからです。
日本では逆です。 エリート経済紙の編集委員が、それを「新しい幸福」と撫でている。 若者が縮む国は、他にもある。 しかし、その縮小を見張り役の側が礼賛する国は、ほとんどない。 そこが日本の特異性です。
もちろん、他国にも「小さな暮らし」や「スローライフ」や「ミニマリズム」を肯定する言説はあります。 しかし、それらは多くの場合、過剰消費社会への批判として出てきます。 つまり、選択肢も所得も機会もある程度ある人が、あえて降りる文脈です。
日本の場合は違います。 降りたのではない、上がれなくなっている。 選んだのではない、選択肢が狭まっている。 豊かさへの批判ではなく、停滞への順応になっている。
ここを見分けられないまま、「小ささ」を肯定するのは、非常にまずい。
若者自身がそれを言うなら、まだ防衛反応として理解できます。 しかし編集委員のような立場の大人が言うなら、それは社会の病理です。 その人は社会を広く見るべき側にいるからです。 国内外を比較し、歴史を見て、構造を読み、個人の感覚の背後にある制度的要因を暴くべき立場にいるからです。
その人までが、狭い日本の空気をそのまま追認してしまう。 これは、見張り役まで眠っているということです。
これは日本の大人のかなりの部分に当てはまる
ただし、この問題は記者個人に限らないと思います。 これは日本の大人のかなりの部分に当てはまるのではないでしょうか。
若者が夢を持てないことを見て、本来なら大人はこう問わなければならない。 なぜ夢を持てなくなったのか。 なぜ将来を広く考えられないのか。 なぜ外の世界を見ようとしないのか。 なぜ社会は若者に展望を与えられないのか。
ところが、多くの大人はそう問わない。 むしろ、 「今の若者は堅実だ」 「欲がないのは悪いことではない」 「身の丈を知っている」 「小さな幸せを大事にしている」 「無理しない生き方もいい」 と言ってしまう。
もちろん、これらの言葉が全部間違いというわけではありません。 問題は、その言葉が現状を問わないための言葉になっていることです。
大人自身が、バブル崩壊後の長期停滞の中で、「どうせ変わらない」「上には行けない」「大きなことを考えても仕方ない」という感覚を内面化してしまった。 その内面化した諦めを、若者にも「現実的な生き方」として渡している。
親は「安定した道を選べ」と言う。 学校は「失敗するな、空気を読め」と教える。 職場は「余計なことを言うな、波風を立てるな」と圧力をかける。 メディアは「小さくても幸せ」と言う。 政治は「自己責任」と言う。
こうして、社会全体が若者に対して、広い世界を見せるのではなく、狭い世界にうまく収まることを教えてしまっている。 これは、ジャーナリストの思考停止であると同時に、日本の大人社会全体の思考停止です。
停滞を批判する側から、停滞を加速する側へ
停滞した社会に生きるうちに、その停滞をさらに加速する側に、自ら回ってしまっている。 ここが本当に恐ろしいところです。
停滞した社会に長く生きているうちに、人はその停滞を「おかしい」と感じなくなります。 最初は違和感があったはずなのに、やがて慣れる。 慣れるだけでなく、説明をつけ始める。
「これも時代だ」 「無理に成長しなくていい」 「身の丈でいい」 「小さな幸せでいい」 「若者は堅実になった」
そうやって、停滞を批判するのではなく、停滞に意味を与えてしまう。 すると、その人はもう停滞の被害者であるだけではありません。 停滞を再生産する側に回ってしまう。
長期停滞は、経済だけを縮ませるのではありません。 人間の欲望、想像力、言葉、教育、報道、未来認識まで縮ませる。 縮んだ人間が、次の世代にこう言う。
「そんなに望まなくていい」 「現実を見なさい」 「小さくても幸せでしょう」 「大きな夢なんて古い」
これは一見すると優しさですが、実際には停滞への適応を若者に教え込んでいるわけです。 だから、停滞社会の本当の恐ろしさは、貧しくなることだけではありません。 貧しさや閉塞を、それなりに正しいものとして語る人間を増やしてしまうことです。
停滞する。 展望が失われる。 人々が諦める。 諦めを「成熟」や「身の丈」と呼ぶ。 それを大人が若者に教える。 若者は最初から望まなくなる。 社会はさらに停滞する。
完全な悪循環です。
教育の劣化と「望むな」という圧力
この背景には、バブル崩壊以来の停滞から抜け出せなかった無力感があります。 そうした現状を受け入れさせる社会や、とくに教育の劣化、圧力があるのではないでしょうか。
教育が本来すべきことは、知識を詰め込むことだけではありません。 自分の置かれた状況を相対化する力を与えることです。
自分の見ている世界は、本当に世界全体なのか。 この社会の常識は、歴史的に見て当然なのか。 他国ではどうなのか。 別の時代ではどうだったのか. 自分は本当にこの場所に閉じ込められているのか。
こう考える力を育てるのが、本来の教育です。
ところが、現在の教育はむしろ逆に、子どもたちを狭い枠に適応させる方向に働いているのではないでしょうか。
失敗しないこと。 空気を読むこと。 目立ちすぎないこと。 決められた課題をこなすこと。 内申点を落とさないこと。 先生や組織に逆らわないこと。 無難な進路を選ぶこと。 炎上しないこと。 迷惑をかけないこと。
これでは、世界を広く見る力は育ちません。 むしろ、狭い世界にうまく収まる能力ばかりが育ちます。 そのような教育を受けた若者は、現状を突破するどころか、現状に適応することを「賢さ」だと思うようになる。 さらに大人も、それを「現実的だ」「堅実だ」「身の丈に合っている」と評価する。 ここで縮小が再生産されるのです。
この悪循環を、あらためて整理すればこうなります。
構造が痛みを与える。 人は痛みを避けるために、見ないことを学習する。 見ないことを学習した人間の認識は閉じる。 閉じた認識が、構造をさらに固定する。
構造の問題か、個人の認識の問題か、という二者択一ではありません。 両者は「回避の学習」という蝶番でつながっている。
教育こそが、本来はこの回避を解除する装置であるべきなのに、いまや回避を訓練する装置になってしまっているのです。
日本には、まだ市民革命が来ていない
私は、日本には市民革命がまだ来ていないと見ています。 それは制度や社会の外見とは裏腹に、人々の精神構造そのものが、受動的で主体性に乏しいからです。
日本には制度としては、憲法もあります。 議会制民主主義もあります。 普通選挙もあります。 基本的人権もあります。 言論の自由もあります。 外形だけ見れば、近代市民社会の制度は整っています。
しかし、その制度を使う側の人間の精神構造が、必ずしも「市民」になっていない。 ここが問題です。
つまり、制度としての民主主義はある。 しかし、精神としての市民革命が十分に起きていない。 市民革命というのは、単に王政を倒すとか、憲法を作るとか、選挙制度を整えるということだけではありません。 もっと本質的には、こういう主体意識の成立です。
自分たちが社会を作っている。 自分たちが権力を監視する。 自分たちが公共を担う。 自分たちが現実を変える。
ところが日本では、ここが弱い。
政治は「お上」がやるもの。 学校は「先生」が決めるもの。 会社は「上司」が決めるもの。 地域は「役所」がやるもの。 報道は「偉い人」が解説するもの。 社会は「誰か」が変えてくれるもの。
こういう受動性が根強い。 だから、自分の置かれた状況を「変える対象」として見るより、「適応する対象」として見てしまう。 ここが、今回の「狭小ニッポン」論とも直結しています。
制度は近代的でも、精神は受動的なまま
明治以来の日本の近代化は、下からの市民革命というより、上からの国家主導の近代化でした。 戦後民主主義も、敗戦と占領を通じて外から与えられた面が大きい。
もちろん、それを受け止め、守り、発展させようとした人々はいました。 しかし、社会全体として見ると、「自分たちで勝ち取った民主主義」という感覚は弱かったのではないでしょうか。
だから制度はある。 しかし、それを自分たちのものとして使いこなす主体が弱い。 その結果、社会が停滞しても、怒りが公共的な運動になりにくい。
不満はあるが、政治的意思にならない。 違和感はあるが、言葉にならない。 不幸はあるが、構造批判にならない。 最後には、停滞そのものを「身の丈」や「小さな幸福」として受け入れてしまう。
これは、かなり深い意味での「未市民社会」です。 以前からその疑問はありました。 しかし、ここに来て、それがあまりにも明確に表面化しつつあるのだと思います。
経済が成長していた時代には、その未成熟さが見えにくかった。 豊かになっていれば、主体性が弱くても社会は回っているように見えた。 会社が人生を支え、学校が進路を支え、家族が生活を支え、国家が成長の物語を与えていた。
ところが、成長が止まり、制度の余力がなくなり、会社も家族も地域も弱くなった。 そのとき初めて、個人が本当に主体として立てるのかが問われるようになった。
しかし立てなかった。
そこで露呈してきたのが、今回見えているものです。
自由はあるのに、自由を使えない。 選挙はあるのに、主権者意識が弱い。 情報はあるのに、世界を広く見ない。 発信手段はあるのに、現実を変える言葉にならない。 制度は近代的なのに、精神は受動的なまま。
これが、日本の停滞をここまで深くしている根本ではないでしょうか。
「狭小ニッポン」の本当の意味
「狭小ニッポン」と言うなら、本当に狭小化しているのは、若者の身長でも、人間関係でもありません。 もちろん、身長が小さくなっていること、若者の人間関係が狭くなっていることには、それぞれ背景があるでしょう。
しかし、もっと本質的に縮んでいるものがあります。
それは、大人の想像力です。 社会を語る言葉です。 ジャーナリズムの視野です。 教育の役割です。 そしてそれこそが社会を自分たちで変えられるという市民的精神そのものです。
若者が小さく生きる。 それを大人が「新しい幸福」と呼ぶ。 ジャーナリストがそれを構造批判ではなく、現状肯定として語る。
これは、市民社会的な主体性の欠如です。
本来なら、こう問うべきです。
なぜ若者は大きな夢を持てなくなったのか。 なぜ社会は展望を与えられないのか。 なぜ教育は世界を広げられないのか。 なぜ政治は未来を作れないのか。 なぜメディアはそれを問わないのか。
しかし実際には、
「そういう時代なのだ」 「若者は変わったのだ」 「小さな幸せもあるのだ」 「身の丈に合えばよいのだ」
となる。 これは、現実を変える言葉ではありません。 現実に服従する言葉です。
小さく生きる自由と、小さくしか生きられない社会
私は、小さく生きること自体を否定しているのではありません。
小さく生きる自由はあってよい。 静かに暮らす自由もあってよい。 人間関係を絞る自由もあってよい。 大きな消費をしない自由もあってよい。 身近な生活を大切にする自由もあってよい。
しかし、小さくしか生きられない社会は否定しなければなりません。
大きく生きてもいい。 小さく生きてもいい。 日本にいてもいい。 外に出てもいい。 会社にいてもいい。 自分で仕事を作ってもいい。 結婚してもいい。 しなくてもいい。 人間関係を広げてもいい。 絞ってもいい。
その上で小ささを選ぶなら、それは自由です。 しかし、最初から小ささしか想像できないなら、それは自由ではありません。
ここで、脱成長論との関係にも触れておきます。 私のこの議論は、脱成長論と矛盾しません。むしろ、親和性が高い。 なぜなら、本物の脱成長に行き着くには、視野の広さが不可欠だからです。
地球の限界を認識し、他国と比較し、歴史を見渡した上で、あえて降りる。 それが思想としての脱成長です。 つまり脱成長とは、広い世界を見た者だけが選べる、能動的な選択なのです。
ところが、日本の現状は違います。 視野が閉じたまま、結果として縮んでいる。 これは脱成長ではありません。ただの萎縮です。
世界を見た上で降りるのと、世界を見ないまま沈むのとは、まったく別のことです。 だから、いま日本に足りないのは、成長信仰でも縮小礼賛でもなく、降りるか登るかを自分で選べるだけの、視野の広さなのです。
若者が夢を持たないことは、幸福なのではありません。 夢を持つと傷つく社会に適応してしまった姿です。
それを大人が「幸せ」と呼ぶなら、それは優しさではありません。 責任放棄です。 現状追認です。 停滞社会の自己正当化です。
終わりに
若者が縮んでいるのではありません。 社会が若者を縮めているのです。
さらに深刻なのは、そのことを見抜くべき大人たちの認識が縮んでいることです。
ジャーナリズムは、本来、社会の病理を病理として指摘する営みです。 ところが、病理を病理として見ず、そこに美名を与えてしまうなら、それはジャーナリズムではありません。 停滞社会に順応するための慰撫であり、現状維持のための言葉です。
本来もっとも考えなければならないはずのジャーナリストが、思考停止している。 それは日本の大人のかなりの部分にも当てはまる。
停滞した社会に生きるうちに、その停滞を批判する力を失い、いつの間にか停滞を正当化する側に回ってしまう。 その縮んだ認識が、次の世代に流し込まれている。
だから、いま問うべきなのは、若者の身長でも、人間関係の広さでもありません。 問うべきなのは、この国の大人の想像力です。
ジャーナリズムの劣化です。 教育の役割です。 市民的主体性の欠如です。 そして何より、社会を自分たちで変えられるという感覚を、私たちがどこまで失ってしまったのか、ということです。
「狭小ニッポン」と言うなら、まず見るべきはそこでしょう。
縮んでいるのは若者ではない。 縮んでいるのは、この社会を語る大人たちの脳ミソなのです。
この閉じた認識の檻から脱出する機序は、システムの虚構を見抜き、現実を直視する人が増えていくことです。
それは、ひとりひとりの仕事なのです。
そういう人が増えたとき、社会は確実に変わります。 それは歴史が証明している。
私自身の現役時代は果たせなかったどころか、さらに劣化してしまいました。
あの時代を担ってきた一人としてそれを申し訳なく思っています。
しかし、歴史は必ず反転します。
私はまだそこに期待しています。
そのためにまず必要なのは、現実を慰める言葉ではなく、現実を直視する言葉です。
その一つとして、これを置いておきたいと思います。
