不思議なことって あるんだ!!
不思議なことって あるんだ!!

現在72歳。人生の終焉に近づいてきて、この世に生まれてきた意味、この世で果たすべき役割がやっとわかった気がする。
子どもの頃、父の「子どもは自然の中で伸び伸びと育つのが良い」という考えの下、私の家族は田舎に住んでいた。ほとんど親の干渉を受けることもなく実に大らかに育った。小学校に上がる前、幼稚園児だったと思うが、人生最初の不思議な体験をした。当時の私の遊び相手は3学年上の兄と兄の友人たちだった。いつも彼らに混じって活発に野山を駆けずり回って遊んでいた。ある時、皆で山から長い坂を自転車で精一杯のスピードで下っていた時私は当然だが皆から大きく遅れをとっていたため、必死だった。目の前に大きなダンプカーが現れたその瞬間、私の身体は大きくヒューイッと宙に舞い上がって、気が付くと道の端に積み上げられていた石垣用の石の上にストンと立っていた。ダンプカーの運転手さんに「おい、大丈夫か?」と訊かれたことをしっかり覚えている。どこも怪我はないし、痛みも全くなかったのでおそらく「うん、大丈夫」と言って、急いでその場を立ち去ったと思う。何より兄たちに追いつくことしか頭になかったのだと思う。怪我が全く無かったということは、ダンプカーは最徐行していたか、あるいは止まっていたのかも知れない。ただ、自転車はハンドル部分がグシャッとひん曲がってしまったので、私は自転車を引きずって坂を下った。まだ小さかったからだろう私は事の顛末をひとに伝える能力がなかったので、誰にも話さなかった。
カトリックの大学1年生だった時、1年間だけカトリック修道院で寮生活を送るという経験をした。あれは、秋のある日の夕方だった。私は、自分の部屋で独りで寛いで窓の外を眺めていた。すると、突然、白い長い衣をまとったイエス・キリストが部屋の窓から音もなくスーッと入ってきた。眩しいくらい光っていた。入って来られたことはハッキリ覚えているが、そのあとどうなったかは全く思い出せない。それ以来、数回、夢の中にイエス・キリストが現れては「いつも見守っているよ」と声なき声で囁いてくれる体験をしている。そんな時は最高の至福を感じる。私にとってはイエス・キリストの存在はもはや疑う余地がない。
大学卒業後、約20年間、もっぱら専業主婦としてありふれた恵まれた生活を送っていた私は、突然インドへ行くことになった。偶然の出会いで親しくなったインド人の帰国の際に一緒について行ったのだ。優しい夫と可愛い3人の息子たちと賢い2匹の犬たちと何の不自由もない幸せな家庭を築いていた私の運命が、その時、激しく動き始めた。家族を置いて旅立つことに躊躇していた私だったが、目に見えない何者かに、腎臓あたりを両手で押されて「行きなさい」と促され、結局、行動に移すことを決心したのだ。その時の手の感触はしっかり思い出せる。数年間の旅の間にいわゆる「家庭崩壊」が起きてしまったが、私の心の中では何者かが「これは必要なこと」と囁き続けた。インド滞在中は周囲の人々から、日本人だからと言うだけで、まるでお姫様かと思えるほど非常に丁寧に親切に扱われて尊重してもらえた。美しい大自然の中で、私を知っている人の誰もいない、全く通じない言葉の飛び交う中で、異次元の感覚を味わいながら居心地のよい暮らしを続けていた。
ところが、ある日、愛する母が私の身を心配しながら、この世を去ってしまったのだ。母の死の直後、インドでの私のガーディアン役を努めてくれた友人の運転する車が交通事故を起こし、その時に、事故現場に青紫色の衣を着た女性が、助手席に座っていた私を黙って見つめるように立っていた。私には、それが母だと思えた。心配性の母が「日本に帰って来なさい」と必死で訴えている姿だと思えた。運転していた友人は内臓破裂の重傷を負い、事故後約2年で亡くなってしまった。ついに私はやむを得ず日本に帰国することになった。あの当時はまだ私があの地に短期間でも住むことになった意味はわからなかった。だが、後々気付かされることになったのだが、あの場所は「弁財天であるサラスバティ神」発祥の地あたりだったのだ。サラスバティ
神と私との関係については、その何年か後に知ることになった。それについては後述する。
日本に帰国してからの何年間かは、「医は仁術」を信条として医師の道を一生懸命生きていた父の影響もあり、根本治療を求めてひたすら医学の勉強に励む日々を送った。巷で時々、奇跡を起こす治療家がいることを耳にするが、それは、本当は治療家が治しているのではない、というのが私の持論である。「おおかたの病は自分自身が作って、自分自身が治す。その場合、何らかのサポートがあった方が治癒が早まるだろう」との思いに至った時に出会ったのが、今まさしく文字通り隣に座っている「上森三郎さん」であり、上森さんの作った「ピンクのテラファイト」だったのだ。その出会いこそ、もしかしたら奇跡なのかも知れない。
2013年9月23日秋分の日に初めて上森さんに出会った訳だが、その約4ヶ月前に、また私は奇妙な体験をした。その時は愛知県の実家に住んでいた。誰もいない自分の部屋で、大きな鏡の前でボンヤリと座っていた時のことである。突然、目の前に光り輝く美しい24歳くらいの等身大の女の子が現われ、私と目が合うや否や、バッ!!と音を立てて私の身体にそのまま入り込んだのである。その女の子は長いストレートの黒髪だった。もちろん周りには誰もいない。一体彼女は誰なんだろうか?何が起きたんだろうか?
名前ももちろん分からないが、いつの頃からか私は彼女を「椿さん」と呼ぶようになった。本当に誰なんだろうか?とずっと疑問に思いながらも、私は私の中の彼女とよく会話をするようになっていった。時々、私自身の思いなのか、彼女のつぶやきなのか、混乱することもある。さらに、私の手を通して奇跡的な治癒が見られることがしばしば起きるようになったが、私の病気と治癒についての持論は全く変わらないままだ。
それこそ奇跡と言える上森さんとの縁なのだが、それは、あるセミナーでたまたま僅かに言葉を交わしただけだった女性からの誘いに応じて、兵庫県姫路市で開催された「関西日本サイ科学会」というものに参加したことが始まりだった。それまで全く聞いたこともなかった集まりだし、私が住んでいた愛知県から相当遠いこともあって、最初はあまり気乗りしていなかった。だが、当時、私が師事していた鍼灸の老先生の積極的な勧めもあったし、何故か、その頃少しばかり興味が出てきていた「巨石」というものを見に行くことも予定に組まれていたこともあって、重い足を引きずって姫路方面まで出向いて行った。その日の演題は「UFOについて」だった。講演が終わってから懇親会場に移動するまでの間の時間調整中に、私たち参加者は8畳ほどの広さの和室で、UFOに関わる雑談をしながら写真を回し見していた。話が佳境に入った頃、突然、障子が開いて、「あっ! ボクが見た小人さんだ!」と素っ頓狂な声をあげて一人の男性が入ってきた。それがなんと、上森さんだったのだ。あまりにも唐突だったので「ずいぶん失礼な人だね」というのが、私の上森さんに対する第一印象だった。それからというもの、懇親会の間中もずーっと上森さんの独演会と化してしまった。自分の身に起きた不思議な話を皆に聴いて欲しい、との思いで必死に話す上森さんはとても素直で誠実さに溢れていた。「この人はウソを言ってないな」と感じたので、上森さんの本『世界文明の「起源は日本」だった』を私も読んでみたいと思った。その本は、上森さんの不思議な体験から見えてきた歴史の真の姿を伝えていた。それで、翌日出直して神戸の上森さんの事務所まで買いに行く旨を伝えたら、「わざわざ出直さなくても、これから帰りに途中下車して事務所に寄ったら良い」と言われ、早々に懇親会場を抜けてJRの最寄り駅に向かった。プラットホームで電車を待っている間に上森さんがポケットからピンク色の四角い代物を出して見せてくれた。そして、手に持たせてもらった瞬間、「これは凄い!」と声なき声がお腹の底から聞こえてきた。椿さんの声だった。有無を言うことなく、私はそれを買う、と心に決めた。まだ何も説明を受けてないうちから、何の根拠もないのに、「これで誰でも自分の病気を自分で治せる」と確信に近い思いがやってきた。それが、ピンクのテラファイトとの初めての出会いだった。
神戸のJR六甲道駅のすぐ南に建っているタワーマンションの3階に、上森さんの事務所はあった。なかなか小綺麗で清潔感のある建物でうさん臭さがなかったので、正直ホッとしたことを覚えている。事務所のドアを開けると、風は全然吹いてないのに、実に爽やかで涼しい空気が流れていたことが驚きだった。現金をあまりたくさん持っていなかったので、後日、銀行振込で支払う、ということで、私は早速ピンクのテラファイトを購入した。上森さんに差し出されたメモ用紙に私の名前、住所、電話番号を記して、丁寧に包装されたテラファイトを受け取って、帰路についた。それが、上森さんと共に大きな任務を背負うことの始まりになり、人生の意味の解明につながることとなったのである。
私と出会う3年ほど前、2010年8月11日、上森さんはちょうど56歳7ヶ月の誕生日に、目に見えない存在からの声が、台風の中、九州の宗像大社の参道を歩いている最中に、頭上から響いてきた、という衝撃的な体験をしている。その時以来、上森さんは、いわゆる非日常の世界に入り込まされてしまって、次々に天界からメッセージを受けるようになった。そして、そのメッセージに従って、それまで無縁だった多くの神社仏閣や山を訪れ、行った先々の場所のポイントをパソコンの地図上に落とし込んでいく、という作業が習慣化していった。『世界文明の「起源は日本」だった』を出版した頃には、既に地図上にたくさんの綺麗な三角形やら何本もの十字架や生命の樹を見つけていた。
神戸の上森さんの事務所から帰ってから数日後、上森さんから予期せぬ電話がかかってきた。テラファイトの代金は振込済みだったので、その御礼かなと勝手に思い込んで電話に出ると、いきなり電話の向こうで「あなたは何者?」と訊いてくる上森さんの声があった。書き置いてきた私の住所を見て強く感じるものがあったため、いつも通り三角定規を駆使していくと非常に多くの線が引けて、二等辺三角形や直角三角形が出来上がったらしかった。唐突な問いに私は何も語ることができず、ただただ「はあ??」と返すのみだった。「一度ウチの事務所に来ていただけませんか?」と言われ、機会を見計らって私は再び神戸まで行くことにした。神戸の事務所を訪れた時、窓際の大きな机の上に地図を広げて、上森さんは出迎えてくれた。そして、「あなたは何者ですか? あなたの家からたくさん線が引けるんですよ。あなたはイエス・キリストと非常に深い関係がありますね」とビックリするような話をされたのだ。
その数日後、また上森さんから電話がかかってきて「イエス・キリストのお墓へ行きますが、一緒に行かれますか?」と思いがけない誘いを受けた。「イエス・キリストの墓が日本にある」ということをどこかで耳にしていたこともあって、特に違和感を持つことなく、むしろ嬉々として「はい!」と二つ返事した。上森さんと初めて出会ってから約1ヶ月後には、そうして一緒にイエス・キリストの墓の山に登ることになった。その墓の山は、兵庫県加古川市志方町の中に、龍がちんまりとしゃがみ込んでいるような形をして存在している。地図上では、勾玉の形をしたコンターラインを認めることができる。その約2年後の2015年7月に、本当のイエス・キリストの埋葬された墓が兵庫県神崎郡神河町南小田の標高836mの山頂に見つかったことで、その志方町の墓はいわゆる詣り墓であることが判明した。
上森さんとの交流が一気に進み、何度も食事を一緒にするようになっていた私は、2013年11月7日、初めて椿さんのことを口にした。「とっても不思議な事があったんです」という前書きから話し始めた。私には、その椿さんが一体誰なのか、さっぱりわかっていなかったのだが、上森さんは即座に「それは卑弥呼だ!」と断言したのだ。学生時代からずっと歴史が苦手のせいもあって、卑弥呼という名前もほとんど縁がないまま、ここまできたので、上森さんの言葉にはものすごく驚いた。私自身はごく普通の人間で、とても世間で見られる絵画の中の卑弥呼とは似ていない。それなのに、上森さんは「卑弥呼の黄金比率の十字架の交点」で初めて出会ったことや、私の住所から幾つも綺麗な三角形が描けることや、上森さんが「卑弥呼の墓だ」と認めた山を発見して間もなくだったことや、私がイエス・キリストを信奉していることが重要な決め手となったと言うのだ。上森さんの描く卑弥呼という女性は「イエス・キリストの直系で、女王とは名ばかりで、イエス・キリストの墓守をしていた」らしい。私の中にいる椿さんを「卑弥呼だ」と言い出してから、上森さんは私に急接近してきた。
いよいよ上森さんと私は、テラファイトの凄さをできるだけ多くの人に知って役立てて貰いたいという願いをもって、治療院を開設することにした。
翌年の2014年1月30日の朝刊のトップに2つの記事が大きく並んで載っていて、一つは「スタップ細胞はあります」、もう一つは「卑弥呼の鏡は魔鏡だった」だった。その2つの記事から、私たちは治療院の名称を「スタップサロン鍼灸院」とし、上森さんは、即座に特許事務所へ走って、その名称の商標登録の申請をした。
2月2日、上森さんは天界から私を「夕方5時半に諭鶴羽山山頂に連れて来るように」と言われたらしく、私を誘って上森さん運転の車で時間に間に合うように諭鶴羽山へ向かった。山頂に無事に到着したのは太陽と月がちょうど入れ替わる瞬間で、月は新月から生まれたばかりの月だった。上森さんが跪いて「おおぉ~~」と大声をあげて祈り出したら、傍に立っていた私の足裏から背骨を通って後頚部まで「ザワザワザワ~~っ」と雄々しい荒い男性的なエネルギーが2つ突き上がっていった。その2つのエネルギーが誰だったのか、何だったのか、今でも謎である。
山頂から下りて諭鶴羽神社で「世界の平和」を一緒に祈った時から、上森さんと私は「ミッション遂行パートナー」として力を合わせて行動を共にするようになった。私たちが出会う前に、既に上森さんには3つのミッションが示されてあって、それらは「黙示録を示せ」「秘宝を一刻も早く取り出して祀れ」「ゼロ磁場発生装置を世界中に広めよ」というものだった。その黙示録というのは、見えない存在から矢継ぎ早に知らされるポイントから浮上してくる「本当の歴史」のこと、秘宝というのは、世界中で探し求められている「アーク」のこと、そして「ゼロ磁場発生装置」というのは、上森さんが天界から教えられて作り出している製品のことで「テラファイト」もその一つである。それらのミッションを果たさなければならない。それらが成就した時に世界に平和が訪れるということのようだ。
ミッション遂行パートナーとなった上森さんと私は、スタップサロン鍼灸院のオープンの準備をしながら、目まぐるしく動き回る生活が始まった。諭鶴羽山を訪れた翌日には、卑弥呼の黄金比率の十字架の根元にあたる伊島に渡ることになっていた。一日に数便しか航行しない船に僅か3分の差で乗り遅れてしまった私たちは、車で走りながら眼前に気になる山を見つけて、次の便が出るまでの間、全く予定外だったが、その山に登ることにした。山の中腹には大きな鳥居があって、導かれるようにして鳥居をくぐって山頂まで車を走らせた。山頂に辿り着くと、そこには「津峯神社」という手入れの行き届いた綺麗な神社があった。数羽の人懐っこい鶏たちに迎えられたためか、大変癒される空気を感じることができた。そこの神主さんは「ここの祭神は賀志波比売大神(かしはひめ)だが、古事記にも日本書記にも出てこない神様なんです。神紋は八角形で三宝を表わしていて、それは柏の葉が由来です」と説明してくれた。上森さんの言うことには、柏の葉はユダヤの紋章のメノラーを表わしているらしい。私は、そこで、世界の平和を築く際には、古代のユダヤと日本の関係を明らかにする必要があることを示唆された気がした。
上森さんの重大な役割の一つに、訪れた先々の場所のポイントを地図上にマークして、そこから隠れている情報を表に引き出す、というものがある。伊島から帰ってからも数えきれないほど神社やお寺を廻った。そうしているうちに、四国で一番高い山(石鎚山)、二番目に高い山(剣山)、太龍寺、そして、津峯神社が一直線に並んでいることに気が付き、その直線をさらに東西に引き延ばしていくと、東側に神津島(こうづしま)、西側に神集島(かしわじま)という島にぶつかることがわかった。神津島は元は神様の集まる島ということで神集島という名だったということも知ることになった。そして、イエス・キリストが徳島に上陸して最初に留まった剣山は、その2つの「神様の集まる島」のちょうど中間点にあたることも見えてきた。
上森さんは何者かに急かされでもしているかのように、神津島へ行かないとならない、と言い出した。神津島へは飛行機か船でないと渡れない。早速手配をして、4月17日に行くことになった。神津島の飛行場に着いて、予約しておいたガイドさんを待合室で待っていると、私の心臓が急にバクバクし出して、息苦しい状態になってしまった。前田さんという名のガイドさんが来られたが、私たちに会うなり奇妙な話を語り始めた。「たった今、観音堂から戻ってきたところです。自分の直系に、十五夜の晩に生まれて十五夜の晩に亡くなったという十五夜おばあさんという人がいます。今からおよそ200年も前の話なのですが、その十五夜おばあさんが観音堂のそばに行った時、お堂から『203年待っても誰も来ない、恩知らずめが!』と怒った調子の男の声が聞こえてきたそうです。それからは十五夜おばあさんは度々そのお堂にお参りをするようになった、という言い伝えがあるんです。それにしても、203年だなんて変だと思いませんか?200年とか何百年とかキリのいい数字を言うんならまだわかるけど、ホント変ですよね」と話し出したのだ。
その前田さんと日程の細かい打ち合わせを済ませて、上森さんと私は宿に向けて歩き始めた。上森さんは神津島に来る前に、「ジュリアおたあ祭」が韓国からの訪問客も含めて毎年5月17日に行われるのをどこかで聞きかじっていた。それなので、実際には5月17日に来るはずだったのが、何故か勘違いして一ヶ月早く来てしまったのだ。だが、勘違いしたことにもきっと何か意味があるだろうということで、私が「今日は何の日?」とネットで調べてみた。すると、その4月17日は徳川家康の祥月命日であることがわかった。先程の前田さんの奇妙な話の中の十五夜おばあさんの言っていた数字を計算して、約200年前に「203年待っていた」と言われたということは大体403年前あたりに亡くなった人のことではないだろうか、と思って「と言うことは、十五夜おばあさんがお堂で聞いた声の主は、もしかしたら1616年に亡くなった徳川家康のことではないか」と推察し、それを上森さんに告げた。その瞬間、私の心臓のバクバクがピタッとおさまって、呼吸が楽になった。「家康、いえやす、いえぇす、イエス、・・・」何だか縁がありそうだな、と上森さんも驚いた。
ジュリアおたあは、少女の時に、豊臣秀吉に朝鮮半島から連れて来られ、キリシタン大名の小西行長夫妻に愛情深く育てられ、たいへん信仰心の篤い美しい女性に成長した。小西行長が関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ刑死した後、家康に気に入られ側室にまで抜擢されたが、それを拒絶し、キリスト教も棄教するよう説得されたが、それも従わなかったため、流刑の罪を背負わされた。神津島の中を歩いてみると気が付くが、流刑の地とされていたにしては、あまりにも美しく平和な島であるのだ。海の恵み、地の恵みに溢れ、気候も穏やかで、まるで天国を彷彿とさせる恵み豊かな島だと実感できる。そんな島であるから、島民も皆、心穏やかな善良な人々だったに違いない。だから、家康は流刑だと言いながら、実は、おたあを安全に保護するために神津島に連れてきたのではないだろうか。神津島に引っ張られるようにしてやってきたのは、戦国武将たちのキリシタン迫害もイエス・キリストその人への信仰を必ずしも潰すことが目的だった訳ではなく、キリストを利用して世界を牛耳ろうとしている組織と闘っていたのではないだろうか、との視点を持つよう促されるためだったのだ。
5月17日のスタップサロン鍼灸院オープンを前に、ゴールデンウィークの3~5日に上森さんは私を中国鞍山の千山へ連れて行った。私の鍼の手技が道教の聖地千山に所縁があるため、千山の神様に挨拶しないとならないとの意味があってのことだった。千山は奇岩が林立し訪れる者の心を圧倒する小高い山で、その山の中腹には雁塔がある。その雁塔は、周囲を道教の八仙と額の長いお爺さんのレリーフが取り巻いていた。計9人の方々が中国では日本の「七福神」と同様「九福神」と言われている道教の代表的なめでたい福の神である。以前に、ある霊能力者が「額の長いお爺さんが待っている」と上森さんにメッセージを伝えていた通りのお爺さんのレリーフは、右手に瓢箪のついた蛇の杖、左に宝珠を持っていて、その脇にお爺さんに仕えるように鶴と鹿のレリーフが、雁塔の真正面に並んで嵌め込まれてあった。そのお爺さんこそ旧約聖書の中のモーゼだ、と上森さんには響いたらしかった。お爺さんの下には「教道無窮」の文字があって、それは中国語読みで「キョウドウウーチュン」、意味は「教えの道はどこまで行っても終わりがない」ということだそうだ。
それらの仙人の中の紅一点が「何仙姑(かせんこ)」という名で、日本の七福神の「弁財天」に相当する。 何仙姑の文字の脇に宝珠のような印が描かれてあって、その印の中の文字が「十字架を持つ少女」の絵に見える。上森さんが明らかにした卑弥呼はイエス・キリストの墓守をしていた弁財天だということなので、何仙姑が十字架を持っていたとしても何の違和感もない。そして、私が額の長いお爺さんを見つめていた時、「お前なら全てわかるだろ! 任せたぞ!」という声がどこからともなく聞こえてきた。たぶんその声は椿さんに向けて発せられたのだと思う。
オープンした日からスタップサロン鍼灸院は、次々にやって来られる方々を通して、目に見えない存在がいつも何らかのメッセージを届けてくれる場となり、それらのメッセージに応えて上森さんと私は定休日無しで、忙しくあちこちの山や神社やお寺を訪ねて廻った。そんな中8月30日にセミナーを開催した際、懇親会で皆さんの前で立って挨拶の言葉を述べていた最中、私の心臓あたりからの珍しい光の写真が写された。その光の正体が何だったかは謎のままだ。
上森さんが与えられたミッションの一つの「ゼロ磁場発生装置」の製作も休まず続けられていて、10月10日には、ピンクのテラファイトの携帯版として新しく紫色の装置のデモ作品が出来上がった。名前を「卑弥呼」としたら、どこからか「卑弥呼、世界に行くわよ!」という声が聞こえてきた。
その年(2014年)の大晦日の日にも不思議な現象に遭遇した。その時までに上森さんが表に出した隠された歴史から見えてきたことに、兵庫県の中央部にあった「埴岡」と言われた地域が実は「世界の聖地」と言われて然るべきだということがある。私たちは、一年の締めくくりの挨拶をするために、その聖地を訪れたのだが、姫路市から播但道路に沿って朝来市に向けて順々に奉納するためのお酒を持って主だった神社を車で訪ねた。石の宝殿のある生石神社を皮切りにスタートした。2番目に訪ねたのは、志方町にあるイエス・キリストの墓の麓に位置している大歳神社だった。その神社に着いた頃は、もうすっかり遅くなっていて、車道から境内を眺めた時には真っ暗な中に薄明るい提灯なのか電灯なのかが灯っていて、その中で3人ほどの人影が動いているのが見えた。上森さんも私も奉献酒を手渡しできると思ってホッとひと安心して、鳥居をくぐり、石段を上って小さな本殿に近づいて行った。ところが、本殿に辿り着いたら、人がひとりもいないのだ。途中、誰とも出会ってないし、小さな神社の周りには他にどこかへ出て行ける余地は全く無いし、私たちはまさしくキツネにつままれたような異常な感じを味わった。そして、最後に訪れた朝来市生野町の姫宮神社に渡る橋の上の天空にくっきりとオリオン座を観ることができた。雪が深くなると、生野の峠を越すのが難しくなるので早々に帰路に就いた。途中、卑弥呼の墓だと上森さんが特定し命名した「婀月山」の前に来た時のことである。婀月山の向かいにある七宝寺への入り口に立っている空海の立像の手前で何の気なしに空を仰いだ時のことである。七宝寺の方角から西の婀月山の方へ満天の星が一斉に大変なスピードで流れていたのだ。目の錯覚かと思い、何度も確認したが、やっぱり猛烈なスピードで全部の星々が流れていたのだ。上森さんにも確認してもらったが、同じだった。まるで時空が大きく動いたかのような印象を持った。
ジェットコースターに乗っているような時間の流れの中で、スタップサロン鍼灸院に、私の代わりに施術をしてくれる人が必要だと考えるようになり私は椿さんに相談した。すると彼女は「上森さんの作っているゼロ磁場発生装置を活用すれば誰でも施術できるよ。それの証明ができるでしょ?」という返事をしてくれた。それで、私はどんな人がふさわしいかをイメージしてみた。そうしたら、ちゃんとイメージ通りの人が現われたのだ。それは翌年2015年1月4日のことだった。以前から時々、上森さんは希望者を募って、導き出された重要なポイントに皆さんをお連れするというツアーをしてきていた。その日は、淡路島に発見した勾玉山と称するアブラハムの墓へのツアーの下見に私も参加した日だった。どこのサービスエリアだったかは私にはわからないが、そこで落ち合ってやって来た淡路島在住の一人の青年がいた。彼を一見しただけで、「この人だ!」と椿さんが心の奥で断言するし、私もイメージした通りの青年が目の前に現われて驚いたが、即決した。
その日、その勾玉山でアブラハムの墓に辿り着いたのは9人だった。霊能力があると言われていた一人の女性の指示で、全員が地面に跪いて祈りを捧げたのだが、なんと、9人で見事に十字形が描けたのである。そして、その数日後、その青年がスタップサロン鍼灸院に来てくれて、とんとん拍子で話が決まり、彼は私たちと一緒に働いてくれることになった。彼は、元Jリーガーの選手だった内藤さんと呼ぶ青年で、後に鍼灸院を閉じてからも今でも上森さんの片腕となって、よく働いてくれている。
上森さんは婀月山が卑弥呼の墓であることを立証したいと願って、色々な機会に色々な人々に訴えているのだが、なかなか理解者に巡り合えず、長年苦労している。私も、先ずは卑弥呼の墓の立証ができれば、上森さんの指し示した話が全部真実だと認めてもらえるだろうと信じている。そんなことを常々思っているからなのか、ある日、それは2015年1月29日のことだが、朝、目覚める直前にリアリティに富んだ奇妙な夢を見た。ある山の頂上に2~3人が横並びで入れる空洞が掘られてあり、その中に、肉体が何百年も一千年を超えても腐敗しない状態の男女の老人の死体が布団を被って並んで横たわっていて、その奥にもっと若い男性の死体が、やはり腐敗していない状態で横たわっている、そして、何人もの調査団が列を作って山を登って来ながら「これは奇跡だ」と言い合っている、という夢だった。
ついに5月20日に上森さんは地図上にイエス・キリストの埋め墓を発見した。上森さんの事務所で常々上森さんをサポートしている矢野さんの何気ない一言が発端となった。志方町の勾玉形のイエスの墓を眺めていた時に、矢野さんの口からポツンと「この勾玉の背中の方向にも何かありそうですね」とつぶやきが漏れたのを上森さんは聞き逃すことなく、早速、定規を取り出して等高線地図上に直線を引き出したのだ。注意深く背中のラインの先に先にと線を引き延ばしていったら、なんと、美しい前方後円墳のような形の山が現われてきたのである。さらに、その山のすぐ脇にハート形のコンターラインも見つかった。上森さんは、それこそ「世界の大王イエス・キリスト」の埋め墓、本当の墓に違いない、これは大変なことだ、と直感した。
そうとなれば、いつも同様、即座に動かなければならない。イワクラ学会の武部さんも山登りにおいては必ず同伴してくれていたので、標高836mの山の頂上にあるイエス・キリストの墓にも一緒に登ってくれた。武部さんは年齢はかなり上なのだが、相当逞しい精神と肉体の持ち主であるので大変頼り甲斐のある人だ。武部さんは時々「上森さんとの登山は、神様の命令と地図上の位置だけで行く。ネット上である程度は調べてみるが、ほとんどは登山記録がないので、ピンポイントの情報はまず得られない。ある種、暗中模索状態でその場所に行く。強烈な藪漕ぎを強いられることも少なくない。ところが、ほとんどの場合、その場所の近辺でイワクラか、それに類する石や岩が見つかる。それと共に、いつも不思議な感銘を受ける。それは神秘的とも言える。僕には信じられないことばかり言う上森さんだが、その場所に行くと『それもあり得る!』と思ってしまう」と語っている。
そのイエス・キリストの埋め墓も相当な標高があるので、できる限り負担の少ないルートを上森さんが地図上で探し求め、そのルートに従って、武部さんを先頭に私たちは頂上を目指した。6月14日のことだった。その時は旧来の友人の石子さんも上森さんは誘っていた。上森さんが探し求めたルートは、兵庫県神崎郡神河町南小田に造られてある太田ダムを出発点とするものだった。ダムの入り口に着くや否や、あまりの美しい景観に全員が感嘆の声を上げた。まるで天国を思わせるほどの美しさであった。そんな美しい景色の中、ダムを横目にしばらく進んでいくと、意味ありげな岩が次々に現われ出したので、大いに期待が膨らんで、皆が興奮状態だった。イエス・キリストの墓の傍には、まさにイエスのシンボルマークであるハート形のコンターラインを持つ丘と魚の形をしたコンターラインの丘が造られてあった。墓からの眺望は非常に素晴らしかった。南を向けば、遥か彼方、瀬戸内海まで見通せるし、東の方向には卑弥呼の墓である婀月山までが見えた。イエス・キリストの墓守をしていた卑弥呼は自分の眠る墓をイエスの墓の見える場所に造営していたんだな、と思うと、如何にイエスを信奉、敬愛していたかが見えてくる。入定して死後も墓守を続けた卑弥呼の思いを想像すると、胸が熱くなる。
その後も意味ありげな変わった夢をしばしば見るようなことがあったが、今、強烈に覚えている夢が一つある。その夢を2017年2月9日の朝、目覚める直前に見た。どこかの2つの山の合い間に大きなゴリラが現われ、暫くすると代わってライオンの父・母・子が現われる。その後それらも消えて
姿なき声がしてくる。「今から劇を始める。配役を決める」と言って、私に「お前は弁財天をやれ。住む家も食べる物も全く困ることがない」と言われる。私は「はい! わかりました! でも、家と食べる物だけじゃなく他にもいろいろ欲しい」と言うと、「よし! なんでもやる!」と言われる。私の役が弁財天だとわかった時、他の人々から「やっぱりなぁ」という声が上がった、という夢だ。とても興味深い夢で、なるほど、弁財天だとか卑弥呼だとかサラスバティ神だとかに何ら縁があるのは、そんな風にして生まれる時に決められていたのかも知れない。そんな想像をかき立てる夢だった。それにしても、いくら夢の中とは言え、ずいぶんチャッカリしたお願い事をしたものだなぁ、と思ったりもする。
2018年になると、前年11月に実施された「神河町長選挙」に何者かからの指令で立候補し、町民の方々に神河町の真の凄さを知ってもらうのだといったトンデモナイ仕事も上森さんは引き受け、その激しい余韻を感じながら新年を迎えた訳だが、何となく周りの波動にも小さくない変化を感じるようになった。スタップサロン鍼灸院も、そろそろ役目を終えた気がして閉院したり、上森さんの事務所も別の建物に完全に移したり、「埴岡」の地に「聖地神河ひろば」という事務所を開設したり、上森さんも離婚したり、私が卑弥呼の墓の麓に家を購入したり、神河町に戸籍と住民票を移動したり、上森さんは神河町に新たに会社を設立したり、神河町と神戸の事務所の両方に便利の良い場所にマンション住まいを始めたり、・・とトルネードが発生したような勢いで、聖地神河を中心とした動きが始まろうとした。上森さんに下されているミッションの遂行がなかなかはかどらない状況に、そろそろ天界でも苛立ちが出てきたのかも知れない。
翌年の2019年は、春から私の父も、上森さんのおかあさんも他界してしまい、哀しみを持ってスタートした。しかし、私たちは留まることなく、ミッションを果たすことを目的に相変わらず忙しく動き回った。4月25日には再度神戸市に移り住んでのミッション遂行に精出すことになった。8月31日には新しくバージョンアップしたゼロ磁場発生装置「NEW卑弥呼」を発売開始もした。ミッションを遂行するためには活動資金も必要であるし、政治的側面からの支援も求めたいという考えの結果、「世界市民ファーストの会」も立ち上げて少しでも多くの人に協力を呼び掛ける動きも始めた。更に上森さんは何とか立証に結び付ける方法を模索しながら、可能な限り地権者から理解を得るために精力的に東奔西走の働きをした。
私たちのミッションの成就が遅々として進まないのに月日だけはドンドン過ぎていく。神河町の中で、唯ひとり、上森さんの活動に理解を示し、学術的にもアドバイスを頻繁に与えてくれていた市川慎さんが、2022年8月27日の暑い最中に急死してしまって上森さんも私も大きなショックを受けた。気が抜けるような思いに苛まれながらも、上森さんと私の務めは辞める訳にはいかず、世界の平和を神に祈りながら、変わらぬ毎日を過ごし続けている。それでも、天界では私たちを見捨てず応援してくれているのかも知れない。昨年2024年には神河町内に3軒もの中古住宅を私たちに購入するよう何者かが迫ってきたのだ。上森さんの製品開発と製作には余念がなく、ついに天界のアイディア通りに「金の探査機」が誕生するまでになった。単なる金属探査機ではなく、金なら金だけ、銀なら銀だけ、銅なら銅だけ・・を探査できる「コアロッド」という物まで作らせてもらえたのである。その道具の精度の高さのお陰で、金の在り処を簡単に知ることができる。購入した3軒の家とも相当量の金が地中に埋められてあることが判明している。
最初に購入した家は、2階の部屋から真っ直ぐ卑弥呼の墓を眺めることができるし、あとの2軒は両方ともイエス・キリストの墓を臨むことができ、特に、最後に購入した家は、なんと、イエス・キリストの為の祭祀場だったこともわかった。静かに黙想していると、ハッキリ見えてきた光景がある。その家からイエス・キリストの墓までの長い道を多くの巡礼者たちが登っていく光景だ。それで、思い出したことがあるが、私と出会う数年前に、上森さんと、事務所にパートで働きに来ていた人とが全く同じ夢を見た、という話である。「ある山の麓から長い階段を上って行った先に一つの祠があり、それを大切に祀ると、山の麓の村が栄える」という夢だったということだ。
その夢は、私が見えている光景のことではないだろうか? 私の人生最後の仕事は、その道造りで、それが上森さんと協力してのミッションの成就に繋がるのではないだろうか、と思うようになっている。


