見えない父が、娘の「どうじょ」に導かれて。
娘の「どうじょ」を、私は聞いていない。
「どうじょ」
私は、その声を直接聞いていない。
記憶ではない。
たぶん、想像に近い。
それなのに、今でもこの一言を思い出すと涙が出る。
まだうまく発音できない小さな口で、娘が言った「どうぞ」。
食べられない娘が、誰かに向けて差し出した言葉だった。
私は目が見えない。
だから、娘の成長を目で追ってきたわけではない。
寝返りを打つ瞬間も、表情が変わる瞬間も、見えている父親とは違う受け取り方をしてきたと思う。
音で覚える。
息づかいで分かる。
抱き上げたときの重さで、昨日より少し大きくなったことを知る。
私の記憶は、だいたい手と耳に残っている。
娘は、二千数百グラムの小さな体で生まれた。
まだお腹の中にいた頃、エコーを見ていた先生の声が少し変わった。
「娘さん、足が曲がっていますね」
私には画面は見えない。
でも、声の温度が変わったことは分かった。
生まれてすぐ、娘はNICUに入った。
面会に行くと、小さな機械の音がしていた。
一定の間隔で鳴る音。
看護師さんの足音。
声を大きく出してはいけないような空気。
その中に、娘がいた。
目が見えない私にとって、確かめることは触れることだ。
許される範囲で、そっと手を伸ばした。
小さな足に、指先を置いた。
ああ、本当に曲がっている。
そう思った。
大きくC字状に曲がった骨の形が、指先からそのまま入ってきた。
この子は歩けるようになるのだろうか。
父親になったばかりの私は、その問いを抱えたまま立っていた。
次の日も、その次の日も、娘に会いに行った。
三角の帽子をかぶせてもらって、小さな揺れる椅子に寝ている日もあった。
その揺れだけが、病室の緊張を少しほどいてくれた。
内臓に大きな異常がなかったのは救いだった。
ただ、足の曲がりは残っていた。
医師からは、成長に合わせて方向を調整していけると聞いた。
説明としては分かる。
でも、説明を聞いたからといって、不安がきれいに消えるわけではない。
私は医師ではない。
治療はできない。
何が正解かも分からない。
それでも、何かしたかった。
退院して娘が家に来てから、私は毎日、娘の足をなでた。
なでて。
なでて。
なでまくった。
科学的な根拠なんてない。
それで骨がまっすぐになると本気で信じていたわけでもない。
でも、手を止められなかった。
まっすぐになれ。
まっすぐになれ。
心の中で、何度も言った。
娘のためにやっているつもりだった。
けれど今思うと、あれは私自身が娘から離れないための行為でもあったのだと思う。
何もできない父親が、せめて手だけは離さないようにしていた。
しばらくすると、足の曲がりは少しずつ改善されていった。
そのたびに、私はやっと息を吐けた。
でも、ほっとした時間は長く続かなかった。
数か月たった頃、娘の便に血が混じった。
検査で、高度のアレルギー体質だと分かった。
詳しく調べるため、娘は一日、絶食することになった。
まだ言葉も多くない。
小さな手には点滴。
お腹がすいても、痛くても、うまく言えない。
そんな娘が、病院のベッドにいた。
その日、私はそばにいられなかった。
当時の私は、パラスポーツの活動で雪を追いかけていた。
遠征や挑戦の中にいた。
家族のために進んでいるつもりだったし、自分にできることを形にしようと必死だった。
でも、肝心な日に娘のそばにいなかった。
理屈を並べれば説明はできる。
けれど、説明できることと、納得できることは違う。
あとから、家族にその日の話を聞いた。
昼食の時間だった。
病室のどこかから、食器の音が聞こえていたという。
スプーンが器に当たる音。
椅子を動かす音。
子どもたちの声。
娘の前には、食事がなかった。
手には点滴がついていた。
そのとき、娘が言った。
「どうじょ」
どうぞ。
食べていいよ。
本当にそこまで分かって言ったのかは分からない。
たまたま覚えた言葉を口にしただけだったのかもしれない。
幼い子どもの言葉に、大人が意味を重ねすぎているのかもしれない。
それでも私は、その話を聞いたとき、言葉が出なかった。
自分は食べられない。
でも、誰かに「どうぞ」と言った。
その場にいなかった私には、娘の声を思い出すことはできない。
だから、想像するしかない。
小さな口。
少し舌足らずな響き。
食器の音がする病室。
自分の前には何もないのに、誰かへ置かれた一言。
その「どうじょ」は、私の中でただの思い出ではなくなった。
ずっと、問いのように残った。
この子が自分の坂を登っているなら、私はどうするのか。
娘は、娘の体で生きている。
痛いことも、我慢することも、本人の体に起きている。
父親の私は、代わってやれない。
だったら私は、私の場所で逃げないしかない。
そう思った。
私は、見えないことでできないことを何度も経験してきた。
落とした小銭を拾えなかったことがある。
人前で手探りをして、情けなくなったこともある。
何でもない段差に、心まで折られそうになった日もある。
それでも、そのたびに別の方法を探してきた。
見えないなら、見えないまま進む方法を探す。
できないなら、できないまま終わらせない。
娘が不自由さを抱えて生きているのに、私がそれを逃げる理由にしてはいけない。
それから私は、何度も雪の坂に向かった。
雪の上に立つと、音が少し遠くなる。
風の向き。
板の沈み方。
足裏から伝わる斜面の角度。
見えない私にとって、コースは景色ではない。
足の裏と、手のひらと、転んだ体の痛みで覚えるものだ。
何度も転んだ。
転ぶたびに板を脱いで、コースの斜度を自分の足で歩いた。
雪を手でなぞった。
手は冷たくなる。
感覚も鈍る。
それでも、確かめないと進めなかった。
うまくいかない日もあった。
悔しい日もあった。
こんなことをして何になるんだと思った日も、正直ある。
でも、家に帰ったとき、娘に言える自分でいたかった。
お父さんも、途中でやめなかったよ。
それだけでよかった。
三歳頃だったと思う。
膝から下は、ある程度まっすぐになってきた。
でも、膝と股関節の間には、まだ曲がりが残っていた。
幼稚園の頃、手術をすることになった。
骨の一端にプレートを入れ、成長の方向を調整しながら形を整えていく手術だと説明を受けた。
知らせを受けて、私は帰国し、娘のもとへ向かった。
普段あまり泣かない娘が、プレートを入れたあと、麻酔が切れてから激しく泣き叫んだと聞いた。
痛みは外から測れない。
まして私は、娘の顔を見ることができない。
涙の量も、表情も、目で確かめることはできない。
でも、声は想像してしまう。
娘の痛みを、私が代わることはできない。
泣き声を止めることもできない。
父親なのに、何もできない。
何度もそう思った。
それでも、何もできないまま終わるわけにはいかなかった。
娘の未来を、私が勝手に小さく決めないこと。
できないことばかり数えないこと。
進める場所を探し続けること。
手術は無事に終わり、骨の曲がりは少しずつ整っていった。
同じ頃、私は大きな舞台に立つことになった。
娘をそこへ連れていき、自分の姿を見せることができた。
娘は、自分の足で立って、私のところへ駆け寄ってきた。
大きな声を出しながら。
その足で。
自分の足で。
私は、たぶんそのとき初めて、少し分かったのだと思う。
私が娘を支えてきたのではない。
支えられていたのは、私のほうでもあった。
今でも、「どうじょ」を思い出す。
直接聞いていない声。
それなのに、私の中で何度も鳴る声。
私は娘の足の形を、指先で覚えた。
娘の優しさは、耳で覚えた。
人は、できないことだけで決まらない。
そう言い切るには、今でも少し怖さがある。
できないことは、やっぱり苦しい。
悔しいし、痛いし、どうにもならない日もある。
でも、できないことのそばには、まだ残っているものがある。
手。
声。
誰かに差し出せる一言。
そこから動き出せる日がある。
「どうじょ」
あの言葉を思い出すたびに、私は泣く。
泣いたままでもいいから、一歩出す。
今日も、登る。
