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「連れ去られた男」第九話

あらすじ 見知らぬ宇宙人によって異星に連れ去られた地球人男性。
体力、若さ、記憶を奪われ施設に隔離されるも何とか抵抗や脱出を試みる。だがうまくいかず、ない記憶から自分とは何者なのかを自問自答する。その結果は…。

 その通りだった。宙で止まったままの車椅子はゆっくりと浴槽を目掛け下降した。足、脛、膝、椅子の座部と少しづつ湯の中に入っていった。更に腹、胸、肩がブクブクという音を立てながら湯に埋もれていった。

 正直、気持ちがいい。「はー」とため息をついた。温度は暑くもなく温くもなくちょうどいい。湯を全身に纏っているようだ。極楽。極楽。全身が解れていく。こんな感覚になるのは久しぶりだ。思い出してみようとしたが、記憶が抜かれ思い出せない。そんなことがどうでもいいと思えるほど最高の気分だ。

 しかしそんな満ち足りた時間は長くは続かない。程なく車椅子は上昇した。車椅子の隙間から湯が四方八方に吹き出した。出し切ったところで停止したら、宇宙人が俺の体を拭き始めた。尻の水滴を拭おうとするのだが、うまく出来ずに湿ったままだ。入浴中の極楽気分はどこかに吹き飛んだ。でも空中に止まっていることはとても怖い。俺は子供のように「下ろしてくれ。助けてくれ」と叫び散らし哀願した。すぐに下降し始めた。だが止まっていた時間は僅かなはずなのにビビったためか、肛門辺りから異物を感じた。そう脱糞してしまった。それだけでなく失禁もだ。腑甲斐ない。茶色く染まった風呂桶を車椅子越しに見下ろしたら、己の愚行を再度恥じた。悪臭も漂う。床も茶色い斑点が散在する。

 浴槽の水は抜かれ宇宙人が掃除を始めた。床もデッキブラシで磨かれた。新たな風呂用の車椅子に俺は移され、宇宙人が俺の体を再び洗った。本来なら感謝を表すところだが、恥じらいの方が大きかった。こんなに俺はダメな人間だったのか。記憶がない今、何も判断材料がない。それが情けないし悲しい。

 体を洗い終えた後に脱衣場に戻った。大鏡が置かれていた。素っ裸の男の姿がそこにあった。老いさらばえ貧弱な体だった。これが俺なのか。愕然とした。裸体から肋がはっきりと認識でき、鎖骨も浮き上がっている。過去俺はどんな体だったのか分からない。でもこの体型からこの男が健康とは到底言えない。死期が迫っているといっても誰も疑わないだろう。

 入浴時の極楽気分をほとんど忘却してしまった。重い気分だ。脱衣場に女のような宇宙人が満面の笑みで俺を迎えた。それで俺の何かがプツンと切れた。その女が近付いてきたのを確認し、けつを触ったそして「おいそこの女、やらせろ。ちんこを舐めろ」と狂人じみた発言を恥ずかしめもなく叫んだ。顔に血が昇ってきたのを自覚したが、恥ずかしさではない。怒りだ。誰に対して何に対してなのかは理解できていない。施設なのか、宇宙人なのか、自分の境遇なのか。それ以降も言葉にならない言葉を吐き続けた。せめてもの抵抗なのかも知れない。当初は引き攣りながらも笑みを浮かべていた女は、途中から只事ではないと悟ったらしく近くにいた者どもに支援を求めた。

 俺は一人にあやされている間にもう一人が衣服を着せた。どんな感情になっても長くは続かない。ここに来てからの俺のことだ。それが良いものであれ、悪いものであれ。それとも地球人全員はそういうものなのか。比較したいが、ここにいる他の地球人とは話が通じない。言語能力も奴らが取っていったのかも知れない。俺のここでの生活を話したいし、他の人がどういう暮らしぶりなのかも聞いてみたい。それも叶わないのか。そんな思いが出ては消えなりしていく最中、俺を乗せた車椅子は元の部屋に入っていった。

 それからどれ位の月日が経ったのか全く実感がない。その間、俺は毎食ゼリーを食し、日中は食堂兼大広間で幼稚園児のようなダンスや運動をし、数日に一回入浴するという生活を送っている。会話はない。コミュニケーションは、宇宙人が身の回りの世話を俺にする時くらいだ。それもごく簡単なジェスチャーでの意思疎通だ。いや向こうの意思確認といっていい。ここに誘拐された当初のような負の感情が湧くことは明らかに少なくなった。皆無といっていい。毎日毎秒がただ流れ過ぎていくだけに感じる。思い出に残らない時間をここで潰しているのだ。死ぬのをここで待っているかのようだ。生きている感覚がない。感じたい。これまで俺はどのように生きていたのか不明だが、こんな風にしてこなかったことを願いたい。

#創作大賞2024  #ファンタジー小説部門 #小説

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