結果が全て
月曜日、会社でめちゃめちゃ怒られた。
私は上司にかなり悪く思われていることが分かったのが最大のショックだった。いくら頑張っても、どれだけ悩んでも、こんなにも伝わらないものなのかと。
努力が伝わらなければ「頑張っていない」(あまつさえ「手を抜いている」)という評価になり、
思考や悩みが伝わらなければ「考えが甘い」「危機感が足りない」という評価になる。
あろうことか、上司の怒りは最終段階まで来てしまったのだ。
メンタルは限界に到達し、久しぶりに『教えて!goo』に質問を投稿した。
自分では一生懸命頑張っているつもりなのに
成果が出ないどころか努力さえも伝わらない。
(以下略)
8件もの回答をいただいたが、うち6人が「結果が全て」「仕事は結果でしか評価されない」という旨の回答だった。
中には「会社ではいくら努力をしても結果が出なければ何もしていないのと同じ」とまで厳しく言い切る方も。
――結果が全て――
この世には、私より何十倍、何百倍も厳しい世界で仕事をしている人が多いことに気付く。
そりゃそうだ。むしろFラン大卒で底辺職を転々とし、現在もブラックに片足を突っ込んでいる仕事をしている私の方が少数派なのかもしれない。
そもそも私の仕事も「結果が全て」なのではないか。
結果が出ないから「努力が足りない」と言われる。
結果が出ないから「考えが甘い」と言われる。
結果が出ないから「危機感が足りない」と言われる。
結果という視点で見ると、ずっと不本意だと思っていた上司の言葉の数々が妙にしっくりくる。
逆に「何故あんな考えの甘い奴が評価されているのか」と他人を妬む気持ちも、「その人は結果が出ているから評価されている」という答えを導き出すことで納得できる。
簡単な話だったのだ。
結果が全てであって、努力は「良い結果を出す為の手段」に過ぎない。
努力が無駄とまでは言わないが、努力にばかりこだわっていると「手段の目的化」という最大の過ちに陥ってしまうのだ。
何故こんな簡単なことに37年間も気付かなかったのか。
否、違う。「結果が全て」だと私に直接、あるいはテレビや書籍、ネットなどを通して伝えてきた人は何十人と居たはず。ただ私が受け入れたくなかっただけなのだ。受け入れてしまったら、それはあまりにも無慈悲すぎる世界で、生きづらさに拍車がかかってしまうから。その一方で「貴方は頑張っている」と褒めてくれる人も多少は存在したから、生きづらさを紛らわす為にそちらの言葉だけを信じてしまったのだ。まさに正常性バイアスである。
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振り返ると、仕事に限らず人生の全てが結果主義だったことに気付かされる。
中学で学年15位まで上り詰めたのも、高校(高専)をトップ合格したのも、その後専門科目で0点を取るまで落ちぶれ、あまつさえ中退までしてしまったのも、大検を合格したのも、大学受験に失敗したのも「結果が全て」だったのだ。どの事例も勉強を「頑張った」という点では共通しているのかもしれないが、その良し悪しはいつも「結果」に左右されてきた。
では何故、あの頃の私は「結果」よりも「努力」を、曖昧で論理性に欠ける概念を信仰し続けてきたのか。これも簡単な話で、勉強においては「努力」と「結果」が比例するからである。
水谷雫「勉強は楽しかった。スルスルと問題が解けていくのは面白かったし、頑張った分だけ返って来るから。勉強していると、充たされた」
努力をした分だけ結果が返って来る「勉強」に対し、「仕事」は必ずしも努力が報われるとは限らない。学生から社会人に切り替わった時、その違いに気付くのが遅かったとはいえ、少なくとも数年前には気付いていた。2年前の時点で私はnoteにこんな文章を投稿していたのだ。
「努力は報われる」と良く言うが、確かに勉強やスポーツには当てはまるかもしれない。だが仕事は「努力の内容」が重要になり、報われるのは「正しい努力」「求められている努力」をした者のみである。どうでも良いことや必要とされていないことをいくら頑張っても報われることは無い。
しかし、当時私の思考はここで止まっており、「結果が全て」というシンプルかつ最も重要な答えには辿り着けていなかった。故に、2年が経過しても私はポンコツのままである。
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「結果が全て」に気付いた(というか受け入れた)ことで、仕事に対するあらゆる考え方は180度と言って良いくらい大きく変化した。これからは努力をするのではなく、「良い結果を出す為の行動」をしていかねばならない。
大袈裟に書いているが、平社員の私に求められている結果など大きなものでは無い。「ミスをしない」とか「時間内に作業を完遂する」とか、まずはその程度のものなはずだ。売上や利益はその次である。出来ないことは無いと信じたい。
ようやく私はスタートラインに立ったのかもしれない。否、スタートは流石に残酷すぎる。せめて半分は解決したと思いたい。

