小さな擦り傷が、夫の日常を奪った。

2026年4月1日、夫が大怪我をした。
朝、通勤にマンションから自転車を漕ぎながら出ていく夫が、自分の斜めがけバッグに新聞を仕舞おうとしていた時にそれは起こった。
止まってではなく漕ぎながらしまおうとしたのだった。
15年以上経った使い古されたロートル自転車。
サドルは破れ、弾力を失ったスポンジクッションは全部出て行ってしまっての補修には、100円ショップで手に入れた食器洗いスポンジ3個とその上からは、これまた100円ショップで買ったブルーサドルカバーを被せている。
前カゴもネジは外れ、金属がちぎれ、もう壊滅寸前の状態。
そんな高齢の自転車だからこそ労わって乗るべきところをカゴがクルリと180度回ってしまったことでバランスを崩し、ハンドル操作を誤り、夫は右側全身と顔面をコンクリートに思いっきり打ちつけてしまった。
現場の目撃者?が『こりゃ大変だ救急車を呼びます』と親切に声をかけてくれたのに立ち上がれる状態だった夫は何度も頭を下げてそのまま会社へと向かったのだった。
それは私が通勤途中の既に電車に乗っていた頃の出来事だった。そして私の会社の最寄り駅に着いた時に電話でこの惨事を告げられたのだ。
私は夫のその姿、状態が全くわからないまま心配しながら半日を過ごし、夜、夫が帰宅。
打った顔と腕は赤くひどく腫れあがっていた。
動くことは動く手足、骨折はしていないようだが、夫は頚椎症性筋萎縮症、別名キーガン型麻痺を患っていたのだ。ちなみにこの頚椎症性筋萎縮症になったのは、ジムでチェストプレスのマシンの重量設定をこれまでより苛烈した上で持ちあげ、もともと尖ってた頚椎が神経に触ってしまったとのこと。もともと無理を押し通すどうしようもない性格。笑える、いや笑えない。これはMRI検査で発覚した。
こちらは手術をすれば戻るといわれホッとしていたが、この自損事故によって私はある病気を予知していた。
それは、、、

蜂窩織炎。

夫がズボンや靴下を脱いだ時の足の状態をみた。
3箇所以上の広範囲の擦り傷。しかもどれもかなり根が深そうだ。これは深手を負っているといった方がよさそうだ。
そのうえコンクリートに足を打った時にできた膝の皿には大きなアザとなっていた。痛々しい光景を目の当たりにしたが、夫はたいして気にしていない。
楽観すぎなんだよ、ったく( ノД`)シクシク…

夫はこれまで2回蜂窩織炎を患っている。
どちらも傷口を放置していたことが原因だった。
1回目は、向う脛の傷口をガードせず、チームラボに行って水の中に足をつけた時に菌が入ってしまった。足首が腫れ始め整形外科の病院へ行っても蜂窩織炎という診断は下されないまま、鍼灸院で鍼でも打てば治るという恐ろしい考えを実行に移して撃沈して帰ってきた。
結局もともと予定していた夫がその痛みでどうしようもなくなって大阪の実家に帰省したとき、地元の徳洲会の総合病院の夜間診察で診断が下ったのだった。

2回目は39度以上の高熱にうなされ続けたのが始まりだった。今では記憶はもう曖昧だが、高熱だけでは原因がわからなかった。そうして発熱患者として病院に行ったときに蜂窩織炎と診断されたのだ。その時は確か手の指を怪我していて放置していたことで足首の腫れにつながったようだ。
そんな悲惨な熱いエピソードを経験した夫を見てきたからこそ私は先が見えていた。

そして今回、、、
初日は足に痛みはないみたいだが、私は『翌日か明後日頃から腫れて痛くなると思うから覚悟しておくんだよ』と告げた。

2日目の金曜日の朝。予感は的中した。
傷口のある右足首に違和感、昨日より腫れはかなりひどくなり原型をとどめておらず、足を引きながら職場へと向かう夫の姿へと変わっていた。
私はかかりつけの皮膚科の病院(蜂窩織炎は皮膚科なのだ)に帰りに立ち寄るように言い聞かせ、それを素直に実行しようとする夫にさらなるアクシデントが待っていた。
そこは19時30分まで受付している。
夫の会社からは45分ぐらいで着く本当に行きやすく便利なところ。

なのに歩くスピードが普段よりも数倍遅くなっていて変わり果ててしまった夫が余裕持って18時の定時に出て乗った電車が15分ほど進んで止まったのだ。
鉄道の人身事故。こんなときに・・・
夫は停車している間にまだやっている皮膚科をスマートフォンで検索。
そうして私が電話した頃にはその病院に向かっていた。
しかし、夫はパニックになっていた。
日中は鎧を纏っておとなしくしている足の痛みや重みは夜が更ければ更けるほどその本性を露わす。足が言うことをきかなくなる。激痛に変わるようだ。
そのうえ夫のいるそこは繁華街だった。
無尽蔵に人の多い無秩序な街。
容赦なく夫にぶつかってくる人たちに鬱憤を撒き散らしている怒声が電話越しに飛び込んできた。その街は2人で何度もきている馴染みの場所なのに。駅から5分以内で着くクリニックなのに。
シンプルな道なのに・・・。
にもかかわらず身体の自由がきかなくなればこんなになってしまうものなのか。
人が変わっている。恐怖すら感じた。
私はとりあえず夫を落ち着かせようと鎮静策に出た。そうして冷静にナビゲーションはしたが、夫は脳内パニックを起こしていて何度も同じ道を行ったり来たりして30分以上かかっても着いていない。受付が終わるのは20時。すでに19時45分になっていたが夫から告げられる位置はどんどん目的地から遠ざかってしまっているようだ。
これでは受付時間には到底間に合わないと思い、私は病院に発信。すると、、、
『ただいまのお時間は受付しておりません。なお火曜日と金曜日は休診日となっております〜』というアナウンス。
まさか、と思い、ホームページを見て金曜日は休診日だと知った。
『行っても無駄だよ。金曜日休みだって。もうしっかりしてよぉ』と電話で夫に叫んだ。
パニックに侵されていた夫はここでやっと冷静を取り戻したようで『悪かった、貴重な時間を無駄にしてしまったね、、わかった』と。
ほんと、どうしちゃったのよ、夫。
その途端、私は、翌土曜日は排水溝の点検で業者がくることを思い出し、帰って掃除が残っているという焦り、焦燥が募っていく。そして、どうにも納得いかない自分が心の中で叫んでいる。
パニックが止んだ夫だったがまだ安心できず『とにかく次は帰ること、家に向かうことだけに集中して落ち着いて帰ってくるんだよ。迎えにいきたくても物理的に行けない状態で申し訳ないけど頑張って帰ってきてね』と言葉を残し、私は電車のホームのベンチから立ち上がった。

そう、私は自宅の最寄駅まで来ていたものの改札から出れば自転車に乗って帰るまでの15分は電話ができない。夫の状況を考えて自宅の最寄り駅のホームのベンチで電話をしながら約1時間夫と向き合っていたのだった。

早速自転車に乗って家へと急ぐ私はさっきの電話で心の叫びが口から出てしまっていて少し後悔していた。
夫は仕事でのお客様対応は評価されるほど口が回るのに、なぜ自分のこととなると会社を休むことを説得させるほどのフレーズが浮かばないのか、、、倒れても自分の命は自分で守らなければいけない。それはそうなのだが、、、夫の職場の従業員のひとりは蜂窩織炎で倒れている。救急車で運ばれて3日間入院となるほど人によっては威力のある病気。わかっている、3度もなってその威力はわかっているはずなのに。知名度はないみたいだが、蜂窩織炎という病気がどれほどのものか広まってほしい気持ちが募っていた。
そんな心の叫びとともに自宅に到着して早速掃除を始めた。
夫が帰ってきたのは夜10時頃。
かかりつけの病院は土日も17時までやっているため、明日に行くようにといい含めた。やはり熱は時間と共に上がっていった。雑菌で悪化させるのは危険とみてシャワーは浴びさせない。氷をビニール袋いっぱいに詰め込んでゴムで閉めた氷袋を患部に当てがった。夫の足側には何回も折り畳んだ布団を置き、患部が心臓より上になるように膝から下を載せさせた。そして過去に処方された解熱鎮痛剤カロナールを服用させた。そんな私たちの願いをあざ笑うかのように夫の身体を鎮静化には至らなかった。患部から発する熱で氷はあっという間に水へと融解。冷蔵庫の製氷器一つでは需要と供給が追いつかない。冷えピタシートはどうかをネットで検索。それでは身体の深部まで冷やす力がないという結論。この威力はただモノではない。冷却方法はただひとつ。氷でしかないと判明。手製の氷嚢を作り患部に当て長めのタオルで縛って固定。だが寝返りをうつたびにズレ落ちた。次に腰紐を試す。それでもダメ肌に優しいテープへと転換。時に摩擦でやわい氷嚢は破れ布団が水浸しになることも多々。解けては変え、破れてはまた新たに氷嚢を作ることの繰り返し。

だが、そんなことより、、、、
なんといっても立ち上がるのが至難の業だった。
匍匐前進では床に足首があたり、激痛が走る。
だから、寝ていた状態から上体を持ち上げて四つん這いになり、そこから小さな子どもが座るサイズの椅子にお尻を乗せてドアノブを持ってぐっと腕を引き、それに縋るようにして立ち上がるのだ。こんな何段階もの工程を踏まないと立てないほど厄介モノ。

手洗いにいくまで、夫にとってどれほどその道のりは長く、常に漏らすかどうかを競う状態。
こうしてほとんど眠れぬ2人の第1日目が締め括られた。

翌朝、排水溝清掃の業者を迎え、それが終わったあと私は夫と一緒にかかりつけ病院へと向かった。
歩きは小さい子どもほどの歩幅、足を引きずりながらゆっくり歩みを進める。
身体のほんの一部でも不自由になれば、今まで当たり前にできていたことがこんなにも困難になり、何倍もの時間がかかってしまう。エレベーターは必須。階段は最大の難関で、それも降りる方が。もし付き添いがいなければ、手すりに捕まり後ろ向きでないと一歩も踏み出せないほどの痛みを伴うようだった。
なんとか病院に着いた。そして私は20分くらい一緒にいて自宅に帰ってきた。本の買取り業者を予約していたからだ。
当たり前のように蜂窩織炎と診断が下され、夫は薬を受け取り、その場で鎮痛剤を飲んで帰ってきた。
これで3度目が確定した。
だが夫は、会社は休まないと頑固に意志を曲げなかった。私は最初が肝心だからと休むよう頼んでも翌日も会社(年中無休のシフト制)へと向かっていった。腫れはもちろん、痛みすら引いていないのに。
こんなムリをするから薬は効かない。右足首は回復の兆候はみられないまま3日が経ち、反対側の左足首まで腫れと激痛を伴うようになってしまった。
そしてこの日の夜、これまでに見たこともないような震えをし始めた。
寒いというので布団を被せるがスマートフォンを持つ両手が激しく揺れている。手を握ってみると感じたこともないほど冷たくなっていた。額を触っても熱が出てる感じではしない。むしろ冷たい。いくら布団を被せても激しい震えは収まらず、私は恐怖が募っていった。そこで鎮痛剤の服用。
救急車を考えるほど、恐怖心とともに神様に祈り続けながら夫の冷たい手や腕をあたためるように必死に握っていた。必死にさすった。それでもダメで祈るようにして握りしめた。
すると10分ぐらい経ってなんとか震えはおさまってくれた。
徐々に体温も戻っていき、一息ついた。

翌8日の水曜日、夫は12日の日曜日に別の大事な仕事を控えているためにその日まで休むことを決断してくれた。
ただ、この時すでに両足首がともにいうことを聞かなくなっていた。

そして夫は、歩くことすらままならない状態で再びかかりつけ病院にいき、効いていない薬を変えてもらうよう頼みにいったのだった。
ひどい腫れを見た女医さんは『激しい運動されましたか?』と聞いたらしい。
『全くしてないです。』と答える夫。
女医さんは初診の土曜日に採血した検査結果を見ながら『激しい運動していないんですね?おかしいですねぇ』と首を傾げたものの『結構、炎症してる数値が出てますので前回とは違う強い薬をお出ししますね』と言ってくれた。
おそらく通勤の往復がその激しい運動を指すのだろうと私は推測する。
女医さんは最後に『これで回復が見れなければ入院になりますから』と宣告した。
うーん。さすがに入院はさせたくない。
でもこんな気持ちとは裏腹に蜂窩織炎になりたての何日間かだけでも安静にしていればもっと早く、1週間以内には治っていたかもしれないという夫に対しての怒りが沸々と沸騰して私の叫びを伝えても聞かない夫に呆れている自分もいた。

過去は変えられないが未来は変えられる。
それしかないと夫と話しながらその一点に集中した。

こうして夫の安静期、トイレ以外は寝たきりの日々を迎えることとなったのだ。
ちょっとでも薬が効けば調子に乗って普段歩き回りそうな夫が、この期間は痛みが少しましになっても必要最低限でしか動かないよう徹底していた。
いや、これは当然のことなのだが、結構そういう物事を甘く見やすい傾向がある。
だから今回は少々安堵する自分がいた。
ただ、急な震えは起きてはいないが、とにかく夜に本性を出す菌たちとの戦いは長期戦となっていた。
新しい抗生物質と強めのロキソプロフェンが夫の動きを軽やかにした。一瞬治ったと錯覚に陥ってしまうほどの変容。
だが、ヤツらは右膝へ引越していた。
それでも、両足首が回復に向かっていたおかげで膝にサポーターをして、1日分のロキソプロフェンを1度に服用し、なんとか重要な日である12日の仕事は無事に終え、また月曜日から会社へと向かい始めた。
ただ、私に言われる前に夫自ら仕事終わりにかかりつけ病院に寄ってから帰ると言ってくれた。
私はうれしかったがまあ当たり前だ(笑)
膝に転移してからは自転車を漕ぐことすらままならない。
膝を曲げるという行為で痛みという激痛が走るのだから。

そして医者からは無残な採血結果が言い渡されたのだった。

『入院レベルの数値ですね。白血球数、炎症の値がともに跳ね上がってます。当院では手に負えない状態ですので紹介状書きますから大学病院で診てもらってください』

『白血球数11920 (基準範囲3500〜9700)』

『右膝の腫れは炎症が酷いと中で膿が溜まっている可能性があり、膿を取り除いていかないと薬を飲んでもよくなりません。きちんと診てもらってください』と。

だが、そんな結果のあと、3日後の朝になって、痛みはすっと7割ほど去っていた。ロキソプロフェン無しの抗生物質のみで凌げる状態にまでなっていた。
ここまできて4月3日の初診で処方された塗り薬の存在を思い出す夫。処方箋を見て嘆き出した夫。なんと、バラマイシン軟膏を傷口ではなく腫れた部分に塗布し続けていたようだった。
そんなことをしているとは想像もつかなかった。
改めてバラマイシン軟膏の本領を発揮させるため、傷口に塗り始める。少し馴染んだタイミングで絆創膏を貼って傷口に蓋をした。
この作業をし始めるようになって相乗効果が見えてきた。
よく倒れることなくここまできたものだと、夫の体内の底力を見せられた感じがした。ただ、表面上は回復しても再発否めない。
その週の土曜日8時半からの受付に合わせて夫はおとなしく大学病院へ向かった。
採血結果は1時間後。
『良好に向かっています。ただまだ炎症はあるのでこの場合引き続き薬をお出ししますので飲み切ってください。』とのありがたい言葉だった。
入院は免れた。
徐々に痛みがひいていくのではなくてスッ。兆しという予想はさせてくれない。
油断はならない、いきなり襲いかかる、それが蜂窩織炎。

夫は大学病院で貰った薬を飲み始めた。
2回目も長かったが、今回はさらに長い道のりとなった。

20日火曜日、変わらず鎮痛剤なしで凌げていた。
左足首をみるとまだヤツらは待機しているかのように少し赤みや腫れ感があった。

21日朝を迎え、引き続き鎮痛剤を飲まずに立ち上がる。
左足首に若干腫れているが痛みはなく違和感のみ。
この夜、薬を飲み切った。

経過観察レベルになんとかたどりつきレールの上からゴールという希望の文字が見えた。
本当にここまでの長い道のりを還暦近い年齢で耐えてきたとつくづく思う。
そして激痛との闘いに勝ってきました。
女医にも言われたようだった。
今回、介護のような看病と向き合って、私自身本当にひよっこと思わせられるほどまだまだ心狭き人間であることを痛感させられた。

私自身やりたいこと、やらなければならないことがある一方、自由が利かない夫にあれしてほしいこれしてほしいとひっきりなしに言われフツフツと怒りが沸騰し始めていた。
でも私は知っているのだ、夫は頼みたくて頼んでいるわけではないということを。
薬は日に日に徐々に効果を発揮する積立式。
1番辛いのは夫なのに。
私自身、言葉を器用に選べるほうではない。普段なら夫が何気なく受け流してくれるような私の言葉でも、病によって心が繊細になっていた夫には、罪悪感を抱かせ、傷つけてしまったことが何度もあった。私は今も後悔している。
私自身も自分の弱さに向き合わされた日々となった。

自由が利かない身体だからこそ時間を逆算し、人よりも何倍に労力を使い神経を働かせながら人生を歩んでいる人がいると思うと、私はこれからの自分を切り開いていけるのだろうかと不安が押し寄せてくる。
けれどそれに向き合い続けて前に進むことができていけば慣れへと変わりいつのまにかできるようになるのかもしれない。
そういう自分であると信じたい。

蜂窩織炎という病の恐ろしさと、自由が利かない人を支える重さを、私はこの約3週間で嫌というほど思い知った。
夫は二度とこんな経験はもうしたくないと嘆いていた。
いや、3回は経験しすぎだ(笑)
傷口ができたら決して放置せず、まずは流水でしっかり洗い流し、清潔な絆創膏などで保護してほしい。
そして、赤みや腫れ、痛みが強くなるなど異変を感じたら、決して様子見をせず早めに医療機関を受診してほしい。
ある動画では虫にさされてもこの病になるという文面があった。

かかれば自然治癒はせず、進行すると敗血症や壊死性筋膜炎などの重症化、下手をすれば切断の可能性もある。
やはり油断禁物の病気である。早期治療が勝負。

まだ、夫の足のいたるところには完治せずに残っている傷痕がある。

この記録が、誰かの小さな備えにつながればと願いをこめて。


#創作大賞2026

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