”創作大賞2026応募作品”「月が綺麗ですね」ボニさんのPocketBook【月がテーマの恋愛小説3部作第1弾】
月が綺麗ですね
著:ボニさん
あらすじ
58歳の東恩納栄一は言葉の虚飾に疲れ、54歳の大城真知子は模範的な家庭に息を詰まらせていた。過去のすべてを手放し、沖縄の夜のバス停で出会った二人の不器用な純愛。 栄一の綴る「嘘のない言葉」と、真知子が宿す「色彩」。新月から三日月、上弦の月へと満ちていく月の姿に寄り添うように、二人は「愛している」と言えない代わりに、互いの表現を響かせ合って孤独な魂を近づけていく。 中秋の満月の夜、偶然の再会を果たした二人が響かせ合う「月が綺麗ですね」の求愛。満ちては欠ける月のように、人生の酸いも甘いも噛み締めた大人だからこそ辿り着いた、秘めやかで最も誠実な恋の物語。
扉頁(晦日月:みそかづき)
月のない夜というものがある。
新月とも違う。新月には、次の光へ向かうための静かな意志がある。しかし晦日月とは、それ以前の話だ。月が存在することさえ、まだ誰も知らない。あるのはただ、光の記憶すら持たない、完全な暗闇だけだ。
東恩納栄一(ひがしおんな えいいち)の55歳までの人生は、長い晦日月だったと、今なら思う。
発覚したのは、15年前の11月の夜だった。
那覇市内のマンションのダイニングテーブルに、妻の久美子が1枚の封筒を置いた。暦の上では立冬を過ぎ、夜の帳が下りるのがすっかり早くなった頃のことだ。栄一が残業から帰り、ネクタイを緩めながらビールを開けようとした、その瞬間だった。
「これ、見てほしいんだけど……」
久美子の声は、不思議なほど静かだった。泣いてもいなかった。ただ、顔の色が栄一が1度も見たことのない種類の白さをしていた。
封筒の中身は金融会社からの督促状だった。差出人の名義は久美子のものだったが、債務の主体は彼女の学生時代からの友人、玉那覇(たまなは)という女だった。玉那覇は中学校の同期が経営する飲食店の連帯保証人になり、その店が半年前に夜逃げ同然に閉店していた。保証人である玉那覇も、いつの間にか連絡が取れなくなっていた。そして、玉那覇の保証人として久美子が署名捺印していた。
金額は420万円だった。
栄一は督促状を3度読み返した。読み返しながら、自分の中に怒りが湧いてこないことに気づいた。怒鳴り声を上げる気力も、テーブルを叩く気力も、どこにも見当たらなかった。あったのはただ、深い、底のない疲労感だった。
なぜ相談してくれなかったのか。
問いは浮かんだ。しかし、その答えも同時に浮かんだ。相談できるような夫婦ではなかった。いつからそうなったのかは分からない。気がついたときには、同じ屋根の下で互いに本当のことを言わない習慣が、空気のように染みついていた。
栄一は、3人の息子を養い会社での地位を守り、妻に不自由をさせないための収入を維持するために、毎日、嘘をついていた。嘘というほど大袈裟なものではないかもしれない。しかし、取引先に向ける笑顔も部下を鼓舞する言葉も上司の方針に頷く首の動きも、何1つ、本当のことではなかった。言葉を巧みに操り相手の顔色を読み、その場その場で最も都合の良い自分を演じ続けてきた。
久美子もまた、夫に言えないことを抱えていた。それだけのことだった。
「返す。俺が返す」
栄一は督促状を封筒に戻し、久美子の前に静かに置いた。「弁護士に相談して、返済計画を立てる。お前は何もしなくていい」久美子が「ごめんなさい」と言った。栄一は「うん」とだけ返した。その夜、2人の間にそれ以上の言葉は何も必要なかった。
それから10年間の記憶は、栄一の中で不思議なほど均質な灰色をしている。
昼は那覇市内の中堅商社で法人営業。夜は新都心のドラッグストアで品出しのアルバイト。2つの職場の間にある更衣室のロッカーでスーツから作業着へと着替えるとき、栄一はいつも同じことを考えた。口でどんなに綺麗な言葉を並べても、金は正直だ。人を動かすのは、言葉ではなく数字なのだ。
3人の息子たちは、何も知らずに育った。長男は県外の大学へ進み、次男は専門学校へ、三男は地元の高校から就職した。それぞれの門出を栄一は笑顔で送り出した。その笑顔が本物かどうか、もはや自分でも判断できなかった。
借金が完済されたのは、三男が成人する半年前だった。
二十歳になった末息子の晴れ着姿を久美子がスマートフォンで写真に収めていた。シャッター音が、がらんとした式場のホールに響く。その横顔を見ながら栄一は静かに思った。これで終わりにしていい。
離婚の話し合いは穏やかなものだった。怒鳴り合いも、泣き崩れることもなかった。2人の間には、もはや壊すべき何かも、守るべき何かも残っていなかった。
55歳の春、栄一は職業訓練校の教室のプラスチックの椅子に座っていた。
周囲は20代30代が中心だった。工業高校を出たての若者、職を失った30代の父親。そこに1人だけ、頭髪の白くなった初老の男が混じっていた。講師が黒板にフォークリフトの構造図を描くたびに、若い受講生たちは慣れた手つきでノートを取った。栄一だけが老眼鏡をかけ直しながら、図の意味をゆっくり確かめた。
恥ずかしくはなかった。
それが、この場所に来て最初に気づいたことだった。ここには相手の顔色を読む必要がない。巧みな言葉で場を取り繕う必要もない。フォークリフトの構造は誰に向かっても同じ原理で動く。物理法則は人間の都合に忖度しない。
実技試験の日、栄一は初めて実車のレバーを握った。車体が想像以上に不安定に揺れ、フォークの爪が目標から大きくずれた。教官に何度も修正を求められた。若い受講生たちが先に合格していく中、栄一だけが居残りで練習を続けた。
それでも苦ではなかった。
何度やり直しても、鉄の爪は嘘をつかなかった。自分の操作が正確であれば正確に応え、雑であれば雑に応えた。30年間、言葉で人を動かしてきた男にとって、それは奇妙なほどの解放感だった。
資格証を受け取った日の帰り道、栄一は那覇の街を1人で歩いた。ポケットの中に、かつて顧客の情報で埋め尽くされていた革カバーのノートがあった。真っ白な新しいページを開き、栄一は生まれて初めて、誰かに読ませるためでない言葉を書いた。
―月のない夜に、男は鉄の爪と出会った。爪は嘘をつかなかった。それだけで十分だった。
空には、まだ月がなかった。
第1頁(新月)
9月11日、金曜日。浦添西海岸エリア、国道58号線の騒音を背に広がる広大な埋立地。九月に入ってもなお、沖縄の容赦ない陽射しは西海岸のコンクリートを焼き続けていたが、夜7時を回ると潮風の中にほんのわずかだけ、昼間とは違う乾いた空気の粒子が混じるようになっていた。58歳の東恩納栄一は、リーチフォークリフトの運転台に立ち、深く一息ついた。
かつて背広を着て、那覇の喧騒の中で数字と交渉の海を泳いでいた営業マン時代の栄一なら、この潮風に混じる油の匂いや重機が吐き出す熱気に耐えられなかっただろう。あの頃の自分は別の種類の熱気の中にいた。顧客の機嫌を読みながら繰り出す提案、数字を都合よく並べ替える話術、笑顔の裏で交わす腹の探り合い。それらすべてが今となっては遠い他人の記憶のように感じられる。離婚届に判を押し、職業訓練校の硬い椅子に腰を下ろし、フォークリフトの実技試験で緊張のあまり車体を縁石に擦った日からまだ3年しか経っていないのに。しかし今の彼にとって、この西海岸の最果てのような場所は自分を純粋な個へと還元してくれる神聖な作業場だ。55歳で早期退職し、未経験でこの現場に飛び込んでから彼は1人の老いた新米として、嘘をつかない鉄の爪と向き合い続けてきた。
「東恩納さん、最後、奥のA2レーン、航空便のパレット3枚を最上段のラックに入れて。重心が偏ってるから気をつけて。あそこは少しでも傾くと、隣のパレットを弾き飛ばしちまうからな」
インカムから流れてくるのは、自分より20歳も年下の現場リーダー、比嘉の声だ。潮の香りが微かに漂うこの広大な倉庫内では、役職や年齢ではなく、仕事の正確さだけが個を識別する記号となる。「了解。慎重にやります」栄一は短く答え、右手のレバーを繊細に操作した。
リーチフォーク特有の立って操縦する不安定な車体が、電動モーターの静かな唸りを上げて滑り出す。栄一の作業は、もはや運搬というよりは針の穴に糸を通すような精密作業に近かった。2本の鉄の爪―フォークを、パレットの狭い隙間に1発で滑り込ませる。わずか数センチのズレが、荷崩れや重大な事故に直結する。栄一は爪の先端を、まるで自分の指先の延長のように感じ取っていた。営業マン時代、口先ひとつで何千万もの契約をまとめていた頃よりも、今、目の前の1200キロの荷を1センチ刻みで持ち上げる瞬間のほうが遥かに心拍数が上がるのを感じる。
最上段へ向かって、マストが金属音を立てて伸びていく。見上げる栄一の首には鈍い疲れが溜まっていくが意識は爪の先1点に集中していた。6メートルの高さにあるラックの端とパレットの隙間。左右わずか3センチの均衡。栄一はその空間を物語の行間のように感じていた。かつての栄一は、言葉で人を動かすことに心血を注いできた。巧みな修辞、相手の顔色を伺いながら繰り出す提案。それらは確かに栄一に地位と報酬をもたらしたが、同時に魂を削り取ってもいった。嘘を嘘で塗り固める営業トークに疲れ果てた栄一が辿り着いたのが、この、少しの妥協も許されない物理法則の世界だった。鉄と油、そして重力。それら決して嘘をつかないものたちと向き合うとき、栄一の心は初めて凪の状態にあった。
「……よし」
吸い込まれるように荷が収まった瞬間、栄一はレバーからわずかに力を抜く。衝撃を与えず、優しく、置く。その瞬間、栄一の脳裏には、まだ見ぬ物語の一節が浮かんでいた。―栄一は、最も壊れやすい想いを、棚の最上段に置くようにして、誰にも触れられない場所に隠した。
肉体の酷使と静謐な思考。その矛盾した二重生活こそが、58歳の栄一が見つけた新しい生きる手応えだった。栄一はフォークを抜き、マストを下ろしながら、まだ熱を持っている鉄の爪に感謝するように軽く触れた。
事務所で作業着を脱ぎ、私服のポロシャツに着替えると、栄一はようやく1人の生活者に戻る。タイムカードを刻印する乾いた音が、静まり返った更衣室に響いた。通用門へ向かうと、守衛室の窓から、定年をとうに過ぎた白髪の守衛、安次嶺(あしみね)が日焼けした顔を覗かせた。
「東恩納さん、今日も最後までご苦労様。さっきの作業、モニターからも見てたよ。あんた、本当に丁寧に乗るね」
安次嶺が、使い込まれた水筒から湯呑みに茶を注ぎながら声をかけてくる。
「分かりますか、安次嶺さん。少しでも気を抜くと、荷物が泣いているような気がしてしまって」
「いや、その慣れない感じがいいんだよ。あんたのフォークの爪には、ちゃんと心がある。見てれば分かるさ。……あ、もうすぐバスの時間だろ。真知子さんも、そろそろ停留所に向かってる頃じゃないか」
安次嶺は、顔馴染みの利用客を思い浮かべるように笑った。栄一は軽く会釈をし、夜の帳が下り始めた路上へと踏み出した。
キャンプ・キンザーの金網フェンスが、国道58号線の路肩ギリギリまで迫るこの一帯は、夜になると独特の静けさが訪れる。昼間、基地の内側から時折聞こえていた重機の音や、英語の怒鳴り声のようなものが消え、代わりに金網を揺らす潮風の音だけが残る。フェンスの向こうに広がる広大な敷地は街灯もまばらで、暗い芝生の海のように広がっていた。この街に長く暮らす者にとっては見慣れた夜景だろうが、那覇の繁華街で半生を過ごした栄一には、この「壁に沿って歩く」感覚が今も少し奇妙に感じられる。壁の向こうに何があるか分からないまま、壁に沿って歩き続ける。この島に生きるということが、そういうことなのかもしれないと、栄一はぼんやりと考えながら歩いた。
やがて前方にバス停の屋根の輪郭が見えてくる。「第一仲西」—観光地図には載らない、この停留所の名を栄一はいつしか愛着を持って呼ぶようになっていた。那覇と宜野湾を結ぶ琉球バス24番、那覇大謝名線が一日に数本停まるだけの飾り気のない停留所だ。乗り込むのは、物流倉庫や近隣の工場で働く者、基地沿いの住宅地へ帰る者、この島の日常を生きる者たちだけ。旅行者の姿は皆無だ。その徹底した「生活の場」としての空気が、栄一にはどこか心地よかった。
火照った身体を夜風にさらしながら、栄一は遠く宜野湾の街灯りを見つめた。灯りが宝石を散りばめたように広がり始めている。見上げる夜空には月がなく、星々だけが瞬く「新月」の夜だった。光のない暗闇は、すべてをリセットしてくれるかのように、栄一の孤独を深く包み込んでいる。ポケットの中のメモ帳が太ももに心地よい重みを与えていた。
今夜もバスを降りたらサンエーに寄ろうと栄一は思った。第二真栄原で下車し、県道を少しだけ進んだところにあるサンエー真栄原店は、県民が長年の信頼を寄せるローカルチェーンの店舗だ。半額シールの貼られた惣菜の並ぶコーナーを、栄一はここ数ヶ月ですっかり隅々まで覚えてしまった。アジフライ、豆腐チャンプルー、ポーク卵のおにぎり。それから、ささやかな自分へのご褒美としての缶ビール1本。誰かのために食卓を整えていた遠い日々の面影は今や跡形もない。しかし、蛍光灯に照らされたその売り場を1人で歩くとき、栄一はもう虚しさを感じることがなかった。ここに並ぶものたちもまた、決して嘘をつかない。腹が満たされるか、されないか。旨いか、そうでないか。ただそれだけの、正直な問答だけが、夜の栄一を待っていた。
第2頁(繊月:せんつき)
大城真知子(おおしろ まちこ)が紅型の筆を初めて握ったのは、7歳の夏だった。母の工房—実家の離れにある四畳半の仕事場—の板張りの床に正座し、母が型紙に沿って防染糊を置いていく手元を、息を殺して見つめた。糊が白い布の上に盛り上がり、その隙間へと刷毛で色が挿されていく瞬間。呉須の青が布の繊維に吸い込まれ、みるみる鮮やかな命を帯びていく。その光景を目にしたとき、幼い真知子の胸の奥で、ガラスの鈴でも鳴ったような、澄んだ音がした。
以来、母の背中を見ながら型紙の彫り方を覚え、糊の硬さの加減を指先で学び、色の名前を呪文のように暗唱した。蘇芳(すおう)、臙脂(えんじ)、黄蘗(きはだ)、瑠璃(るり)。同じ青でも、呉須と瑠璃では宿っている命が違う。同じ赤でも、蘇芳と臙脂では語りかけてくる言葉が異なる。色は、真知子にとって言語だった。言葉では届かない場所へ、色なら真っ直ぐ手が届く—そう信じて、20年余りを生きてきた。
32歳の秋、知人の紹介で1人の男性と見合いをした。5歳年上の宜野湾市の職員だった。穏やかな顔立ちで、言葉を選んで話す人だった。「真知子さんの仕事は、素晴らしいと思います」と、見合いの席で彼は言った。「でも、結婚したら家庭を大切にしてほしい」とも言った。真知子は頷いた。しばらく休むだけだ、と自分に言い聞かせながら。
結婚前夜、真知子は1人で離れの仕事場に灯りを点けた。仕掛かりのまま残っていた型紙を仕上げ、彫刻刀の刃を丁寧に拭い、使い込んだ刷毛を洗って干した。型紙を1枚ずつ、和紙に包んでいく作業は深夜まで続いた。「しばらく、待っていてね」。声に出したわけではない。しかし確かに、そう思いながら引き出しの奥へそっとしまい込んだ。引き出しを閉める乾いた音が、妙に長く耳に残った。
その「しばらく」が10年になった。
子供ができなかった。検査を重ね、治療を試みるたびに、真知子は自分の身体が誰かの描いた設計図の誤差として扱われているような感覚に囚われた。夫は親切だった。その親切さには、しかし、「模範的な家庭を作る」という揺るぎない型紙があり、真知子はいつもその型紙の上に立たされているような気がしてならなかった。離れの引き出しの中で和紙に包まれた型紙たちが息をひそめているのを、真知子はときどき夢に見た。
夫から告げられたのは、ある春の宵のことだった。「相手の女性に、子供ができた」。その言葉を聞いた夜、真知子が最初にしたことは、泣くことでも怒鳴ることでもなかった。気がつくと、暗い廊下を歩いて離れへ向かい、引き出しを開けていた。和紙に包まれた型紙は、10年の時間をまるで感じさせない静けさで、そこにあった。1枚そっと手に取り、和紙をめくる。型紙は少しも歪んでいなかった。彫刻刀が刻んだ細い線は、10年前と同じ鋭さで真知子の指先に語りかけてきた。「待っていたよ」。涙が出たのは、その翌朝、離れで糊を溶かし、10年ぶりに刷毛を手に取り、呉須の青が布に滲んでいくのを見た瞬間だった。色は予想していたよりずっと鮮やかだった。その鮮やかさに打たれ、真知子は声を上げて泣いた。誰にも聞かせるつもりのない嗚咽だったが、それは悲しみではなく、10年分の凍結がやっと溶け出した音だった。
大城真知子は54歳になっていた。
彼女の1日は、宜野湾の自宅から浦添にある実家へ向かう、朝一番のバスから始まる。9月12日土曜日。世間が休日特有の緩やかな朝を迎える中、実家には足腰の弱った母と独身を通している兄が暮らしていた。
午前9時、迎えの車に乗って母がデイケアへ出かけると、そこからが真知子にとっての戦場だ。実家の離れにある四畳半の仕事場。そこは湿った糊の匂いと、大豆をすり潰した豆汁の独特な香りが立ち込める彼女の聖域だが、そこに篭り続けることは許されない。
「……さて、まずは洗濯からね」
真知子は紅型の筆を置くと、母屋へと急ぐ。母が汚したシーツを洗い、兄が散らかした居間を片付け、掃除機をかける。浦添の高台にあるこの家は風通しがいいが、その分入り込んでくる砂埃も多い。家事という名の、終わりのない報われることのない労働。以前は、その虚しさに胸を塞がれる日もあった。だが今は一心不乱に床を磨き、洗濯物を太陽に向けて翻していると、不思議と紅型のデザインが脳裏に鮮やかに浮かび上がってくる。中断されるからこそ、見えてくるものがある。「そう思わないとやってられないわね」。自分に言い聞かせるように呟き、再び離れへ駆け込む。
型紙に沿って防染糊を置くとき、真知子の呼吸は自然と浅くなる。糊を置きすぎれば色が滲み、薄すぎれば染料が型紙の下へ入り込む。刷毛を動かす力加減は、どんなに言葉で説明しようとしても、指先にしか宿らない技だ。離婚後に紅型を再開してからの12年間で、真知子が深く思い知ったのはそのことだった。10年のブランクは頭からは消えていた。しかし、指先はあの頃のままで待っていてくれた。身体は魂より正直だ。慎重に色を挿していく。呉須の深い青、蘇芳の落ち着いた赤。それらが布の上で呼吸を始め、模様に命が宿る瞬間、真知子はこの世界に自分の居場所があることを、静かに確認する。
だが、3時を過ぎデイケアの送迎車が庭先に止まる音が聞こえると、真知子の時間は再び「娘」のものへと塗り替えられる。
「お帰りなさい、お母さん。今日は何をして遊んだの?」
車から降りてくる母の身体を支えるとき、真知子はいつも、その驚くほどの軽さに胸が締め付けられる。かつて自分を背負って那覇の市場を歩き回った母の背中は、今や自分の胸元に収まるほど小さくなっている。紅型の型紙を引き出しの奥へしまい込んだあの夜も、母はまだ工房に立っていた。「しばらく休むくらいが、ちょうどいいさ」と笑っていた。その母が、今こんなにも小さくなっている。時間は正直だ。
夕食の支度は母と過ごす大切な「儀式」だ。真知子は母を台所の椅子に座らせ、一緒に野菜を切る。
「お母さん、島豆腐を崩すのはお願いね。お母さんのやるのが1番加減がいいんだから」
そう言ってボウルを差し出すと、母は「分かったさ」と少しだけ誇らしげに目を細める。認知症の影がちらつく日々の中でも、台所の所作だけは身体が覚えているのだ。豆腐を潰す母の指先の震え、立ち上る湯気の匂い、古い換気扇の回る音。真知子は母がかつて教えてくれた「家庭の味」を今度は自分が母のために、塩分を控え飲み込みやすい柔らかさで再現していく。型紙を受け継ぐように、この味も受け継いできた。誰かから誰かへと手渡される、言葉にならないものの連鎖。
「真知子、あんたの作るご飯は、なんだか優しい味がするね」
出来上がったゴーヤーチャンプルーを口にし母が微笑む。その一言で、朝からの家事と染め物の強行軍による疲れが、潮が引くように消えていくのを感じる。食事を終え、母の顔を蒸しタオルで拭いてやるとき、真知子は母の肌に残る皺の数だけ、母が自分に捧げてくれた時間を思う。紅型を教えてくれた指。市場を歩いた背中。10年の眠りに就いた型紙を、1度も捨てなかった母の沈黙。
夜7時。仕事から戻ってきた兄と交代するように、真知子は身支度を整える。
「お兄さん、あとのことはお願いね。お母さんの薬、忘れないでよ」
「分かってるさ。真知子も気をつけて帰りなさい。少しは自分の時間を大事にな……」
兄のぶっきらぼうな言葉に送られ、真知子は実家を後にする。独身を通してきた兄の、この不器用な優しさだけは子供の頃から変わらない。
浦添の坂道を下り、第一仲西のバス停へと向かう道すがら、真知子の心は次第に職人のそれへと戻っていく。背中には夕食の片付けを終えた母の温もりと、わずかに残る油の匂い。それらを夜風にさらして脱ぎ捨てながら、彼女は1人の「個」へと立ち返る。
バス停のベンチに腰を下ろすと、街灯の下で自分の指先を見つめた。藍色の染料が爪の際に薄く残っている。10年間、この色を指先に宿せなかった。その事実を真知子はもう憎んでいない。あの10年があったからこそ、今この色の深さが分かる気がしている。
ふと視線を落とした空の低いところに、カミソリの刃のように鋭く、繊細に光る「繊月」が引っかかっていた。それはまるで、激しい家事と介護に削られながらも胸の奥で決して消えることのない真知子の職人としてのプライドそのもののようだった。欠けているから美しい。満ちていないから、これから満ちていける。
夜風が火照った頬を撫でていく。これから乗り込む那覇大謝名線の24番には、自分と同じように、誰かのために働き自分の物語を密かに抱えた誰かが座っているはずだ。
真知子は膝の上のトートバッグを抱きしめるようにして、遠くから近づいてくるバスの光を見つめた。その瞳には1日の終わりを告げる安堵と、明日また筆を握るための静かな矜持が月光のように宿っていた。
第3頁(三日月)
宜野湾市と浦添市の境をなだらかに流れるように走る国道58号線は、昼間は島内有数の渋滞路として知られているが、夜の7時を回ると、その表情を一変させる。キャンプ・キンザーの広大な敷地に沿って北へと伸びるこの道は、基地のフェンスが路肩のギリギリまで迫っているせいで、歩道が驚くほど狭い。フェンスの向こうは深い闇で、草の匂いと、時折風に乗って届くジェット燃料の微かな残り香が混ざり合う。沖縄に長く住む者はその匂いを意識することもないが、この島に暮らすことを選び直した者には、その匂いがときおり、自分がどこにいるのかを静かに確認させてくれる。
第一仲西のバス停は、そのフェンス沿いの歩道に申し訳程度の屋根を付け足したような素朴な停留所だ。時刻表の貼られた細い柱と、2人が座ればほぼ満員になる短いベンチ。観光地図には決して載らない、この街の生活者だけが知っている場所だ。琉球バス24番・那覇大謝名線が夜7時台に3本停車する。乗り込むのは、基地沿いの物流倉庫や工場で日々の労働を終えた者、宜野湾の住宅地へ帰る者、沖縄の普通の夜を普通に生きることを選んだ、名前を持つ人々だけだ。
9月14日、月曜日。週の始まりの夜風には、昼間のうだるような熱気がまだしぶとく残っていたが、時折キャンプ・キンザーの金網を揺らして吹き抜ける北寄りの突風に、ほんの小さな季節の変わり目が混じり始めていた。
東恩納栄一は、いつものようにベンチの右端に腰を下ろし、ポケットから革カバーのノートを取り出していた。フォークリフトのレバーを握り締め続けた右の手の平がジンジンと心地よい熱を持って痛む。その痛みさえも今の栄一には愛おしかった。嘘をつかない仕事の証しとして、身体が正直に刻んでくれる記録だからだ。
万年筆の先から滑り出す青黒いインクが、街灯の鈍い光を反射して濡れたように輝く。
―「彼女は、夜の風が運んでくる塩の匂いを嗅ぎながら、かつて失った色彩のことを考えていた」
栄一にとって、このバスを待つわずか10分間だけが、現実の重力から解放され言葉の海へと潜り込める至福の時間だった。倉庫の中では爪の先一点に意識を凝縮させ、ここでは言葉の一粒一粒に魂を注ぐ。どちらも誤魔化しの利かない行為だ。フォークの爪が荷の重心を嘘なく感じ取るように、万年筆の先もまた、書き手の心の傾きをそのまま紙に刻みつける。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
見上げると1人の女性がバス停の屋根の下へと入ってくるところだった。大城真知子だ。真知子は実家での長い1日を終え、くたびれたトートバッグを肩にかけ、少し疲れた様子で会釈をした。栄一もまた無言で丁寧に頭を下げ、ノートを閉じてポケットに収めた。
2人はこれまでにも、同じ時間のバスを利用する乗客として互いの存在を薄々認識していた。ポロシャツ姿の、どこか折り目正しい初老の男性。そして、指先をわずかに藍色に染めた凛とした佇まいの女性。互いに私生活に踏み込むような無粋な真似はせず、ただ同じ夜風を共有するだけの、名前も知らない他人同士。しかし、その距離感こそが今の2人には最も心地よかった。
やがて、遠くからヘッドライトの光が近づき、2人が乗り込むバスがスピードを落として停留所へと滑り込んできた。プシューという乾いたエアブレーキの音とともに前方の扉が開く。
「お先にどうぞ」
栄一はいつものように1歩下がり、真知子に道を譲った。「ありがとうございます」真知子は小さく微笑み、ステップを上っていく。栄一もその後に続き、整理券を取って車内へと進んだ。
夜の車内は乗客もまばらで、蛍光灯の白い光がそれぞれの疲れた顔を等しく照らし出していた。真知子は中央の窓際に、栄一はそれより3列ほど前の席に腰を下ろした。エンジンの低い振動が座席を通じて伝わってくる。バスが発車し、宜野湾の夜景が窓の外を後ろへと流れていく。キャンプ・キンザーのフェンスが車窓をしばらく覆い続け、やがて途切れると街の灯りが一気に広がった。栄一はその光の移ろいを眺めながら、身体の奥底から込み上げてくる強烈な睡魔に抗う間もなく、浅い眠りの底へと引き込まれていった。張り詰めていた1日の緊張が、車内の適度な暖かさと心地よい揺れによって、一気に解き放たれたのだ。
翌夜、浦添西海岸の倉庫での激しい作業を終えた栄一は、這うような足取りで第一仲西のバス停へと辿り着いた。ベンチに腰を下ろし、火照った身体を夜風にさらそうとした瞬間、栄一は自分のポケットの軽さに気づいた。
「……あ」
いつもそこにあるはずの、あの革カバーのノートがない。血の気が引くのが分かった。作業着のポケット、私服のバッグの底、どこをひっくり返しても見当たらない。昨夜、バスを待つ間に書き留め、そのまま眠りに落ちて―。
しかし、栄一が最も恐れたのはノートという物体を失うことではなかった。あの頁の言葉たちが、見知らぬ誰かの目に触れてしまったかもしれないという事実だった。20年以上、誰にも見せたことのない、自分の魂の最も柔らかい部分を、鍵のない革カバー一枚だけで守っていた言葉の群れ。口先で人を動かす仕事に魂を削られ続けた男が、誰にも聞かせることなく、ただ自分のために紡いできた物語。それが今、どこかの知らない場所にある。
「あの、探しているのはこちらでしょうか?」
突然、すぐ横から声をかけられ、栄一は弾かれたように顔を上げた。そこに立っていたのは、昨夜と同じ、あの女性だった。彼女の手には、見覚えのある深い茶色の革カバーが、まるで壊れ物を抱えるようにして握られていた。
「これ……シートにお忘れのようでしたので、昨夜のバスには、私たち2人しかいませんでしたから」
真知子は両手でノートを差し出した。その所作の丁寧さに栄一は、一瞬息をのんだ。
実は、真知子の内側では昨夜から小さな嵐が吹き続けていた。バスの中で男性が眠ってしまい、降車の際にシートの上に革カバーが残されているのに気づいたのはバスが発車する寸前だった。気づいた瞬間、真知子は迷わずそれを拾い上げた。しかし、停留所から遠ざかっていくバスの窓で、手の中の革カバーを見つめたとき、真知子の指先が自然に、カバーの縁に触れていた。
風が吹いた。
バスの揺れの中で、革カバーがわずかに開き、ページが数枚、パラリとめくれた。真知子は慌てて表紙を閉じようとした。しかし、その一瞬に目に飛び込んできた言葉は、もう消えなかった。
―「色彩を失った世界で、男は一本の青い線を引いた」
たったそれだけの一節だった。しかし真知子の胸の中で、その言葉は乾いた布に呉須の1滴が落ちるように、じわりと静かに、しかし確実に広がっていった。
色彩を失った世界。
真知子は自分の10年間を思った。夫の家に入り、筆を置き、型紙を和紙に包んでしまい込んだ日々。子供を授かれないまま過ぎていく季節の中で、自分の指先が少しずつ、色を忘れていく感覚。あの10年間は、まさに「色彩を失った世界」だった。そして離婚を経て実家の離れで再び筆を持ったとき、最初の一筆で布に吸い込まれていった呉須の青―あの瞬間の鮮やかさが、この言葉と重なった。
一体、この革カバーの持ち主は何者なのか。ポロシャツを着た、無口な初老の男性。毎夜バスを静かに待ち、時折、ポケットから小さなノートを取り出して何かを書いている。それだけしか知らなかった人物の内側に、こんなにも柔らかく、こんなにも正確な言葉がひっそりと宿っていたとは。
翌日、真知子は倉庫の守衛室を訪ね、安次嶺に声をかけた。事情を話すと、安次嶺は日焼けした顔をほころばせ、「東恩納さんか、あの人は毎夜律儀に同じバスで帰るから、第一仲西で待っていれば会えるはずよ」と教えてくれた。
そして今、2人は向き合っている。
「あ、ありがとうございます……! 命の次に大切なものでして……本当に、何とお礼を申し上げたらいいか」
慌ててノートを受け取る栄一の手が、わずかに震えていた。その様子を真知子は咎めるような風でもなく、ただ静かに見つめていた。そして、少し躊躇うように、しかし確かな声で言った。
「あの、申し訳ありません。バスのシート上でページがパラパラとめくれてしまって…その、意図して盗み見たわけでは、ないのですけれど」
真知子の耳たぶが、街灯の光の中で微かに赤くなっているのが見えた。
「最初の数行が、目に入ってしまいました。『色彩を失った世界で、男は一本の青い線を引いた』という一節。…とても、優しい言葉ですね。私は紅型という、色を扱う仕事をしているものですから。その言葉が、なんだか真っ直ぐ心に飛び込んできてしまって。不躾に読んでしまったこと、本当にお許しください」
彼女は深く頭を下げた。その言葉を聞いた瞬間、栄一の胸の奥で、カチリと小さな音がして何かが嵌まったような気がした。かつて営業マンとして浴びてきた、どんな美辞麗句よりも、今、目の前の見知らぬ女性が口にした不器用な感想のほうが、遥かに栄一の魂を震わせた。言葉を商品として扱い続けたあの長い年月が今この瞬間、初めて報われたような気さえした。
「いえ……そんな風に言っていただけるなんて。ただの老いぼれの慰み事ですから」
「そんなことはありません」
真知子は顔を上げ、栄一の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には実家での生活者としての疲れではなく、1人の表現者としての強い光が宿っていた。
「言葉に血が通っていました。お仕事をされながら、こんなに美しい世界を育てていらっしゃる。そのことに、私はとても救われた気持ちになったのです」
遠くから今夜のバスのヘッドライトが見え始め、アスファルトの上に2人の影を長く引き延ばしていく。
「私、大城、と申します。大城真知子です」
「僕は、東恩納 栄一です」
2人はバスのライトに照らされながら、初めて互いの名前を呼び合った。
キャンプ・キンザーの冷たいフェンスの向こう、広大な夜空の低いところに、少しだけ肉付きを増した三日月が浮かんでいた。その細い光の弧が、アスファルトの上の2人の影をまるで1枚の型紙で切り抜いたように、くっきりと、しかし優しく縁取っている。真知子は、その月の形を眺めながら思った。三日月というものは満月に向かって育っていく途中の月だ。まだ光は細く、世界を照らすには足りない。しかし、欠けているからこそ、その輪郭は鋭く息を呑むほど美しい。
夜のバス停というほんの数分間の静かな余白の中で、2人の物語が静かに、しかし、決定的に重なり合おうとしていた。
第4頁(上弦の月)
その夜を境に、バスを待つ10分間は2人にとってかけがえのない余白へと変わった。
9月19日、土曜日。
第一仲西のバス停は、キャンプ・キンザーの金網フェンスが路肩ギリギリまで迫る、観光地図には決して載らない停留所だ。フェンスの向こうから漏れてくる基地の白い照明が、アスファルトの上に無機質な光の帯を引いている。2人の会話は常に丁寧な敬語のままで、互いの家庭環境や過去の細かな経歴に深く踏み込むことはなかった。しかし、だからこそ余計なノイズに邪魔されることなく、お互いの魂の最も純粋な部分―「言葉」と「色彩」だけで響き合うことができた。
「東恩納さん、昨夜いただいたあの頁…『波打ち際に残された、誰も読まない足跡』という表現、とても素敵でした」
夜風が基地のフェンスを揺らして吹き抜ける。見上げれば、夜空をきれいに半分に分かつ「上弦の月」が張り詰めた弓のように静かに光を湛えていた。それは、互いの領域に踏み込みすぎず、しかし確実に半分ずつを分かち合う、2人の心地よい距離感をそのまま形にしたかのようだった。
真知子はトートバッグを膝の上で小さく抱えながら、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます、大城さん。そう言っていただけると、慣れないフォークリフトで凝り固まった首の痛みが少し軽くなる気がします」
栄一は照れくさそうに笑い、自分の大きな手をさすった。
しばらく沈黙が流れた。風がフェンスの金網を鳴らす。遠く58号線を走る車のヘッドライトが、闇の中を一瞬だけ照らして消えていく。その静けさの中で、栄一はおもむろに口を開いた。
「大城さんは、直接的な言葉というものを、どう思われますか」
真知子が、少し意外そうな顔でこちらを見た。栄一は視線を夜空の月へと向けたまま、続けた。
「昔、夏目漱石が英語教師をしていた頃の話です。学生が『I love you』を『我君を愛す』と直訳したのを見て、『日本人はそんなことは言わない、月が綺麗ですね、とでも訳しておけ』と言ったという逸話があるんです」
「……月が綺麗ですね、が?」
「ええ。その話を初めて読んだとき、私はひどく救われた気持ちになりました。営業マン時代、言葉を道具として使い続けてきた人間ですから、直接的な言葉がいかに貧しいか、よく知っていたつもりでした。でも本当のことを言えば…直接的な言葉が怖いんだと思います。言い切った瞬間に、言葉が死ぬような気がして」
真知子は栄一の横顔をじっと見つめた。街灯の光の中で、58歳の男の輪郭が、どこか少年のように見えた。
「私の仕事は、型紙を使って同じ模様を何度も染めることができます。でも、東恩納さんの物語は、その日、その瞬間にしか生まれない。まるで、2度と同じ形にならない夜空の雲を見ているようです。…羨ましい、とさえ思います」
「とんでもない。私の方こそ、大城さんの指先を見るたびに、本物の芸術家への敬意が湧いてきます。私の書く言葉なんて、ただのインクの染みに過ぎませんから。大城さんが布に命を吹き込む色彩の深さには、到底及びません」
栄一の視線の先で、真知子が少しはにかむように藍色の染まった指先を隠した。
「……漱石の話、分かる気がします。私の紅型にも、似たようなことがあって」
真知子は膝の上のトートバッグの持ち手を、ゆっくりと指でなぞりながら言った。
「同じ青でも、呉須と瑠璃と露草では、全く違う命が宿っています。呉須はどこか憂いを含んだ深い青、瑠璃は祈りに近い透明な青、露草は朝の光を閉じ込めたような儚い青。でも、誰かに『好きな青はどれ?』と聞かれたとき、私はうまく答えられない。指先は知っているのに、言葉にした途端に、その色の本当の命が逃げていくような気がして」
栄一は真知子の言葉を静かに聞きながら、胸の中で何かが静かに共鳴するのを感じた。言葉を扱う人間と色を扱う人間が、言葉と色の向こう側にある同じ場所で、互いの孤独を確かめ合っているような感覚だった。
「直接言わないことが、かえって深く伝わる。漱石も大城さんの色の名前たちも、そういう意味では同じことを言っているんですね」
「ええ…そうかもしれません」
真知子の声は静かだったが、その奥には日々の過酷な現実と戦う表現者としての確かな熱が宿っていた。
「私の色なんて、ただの伝統のなぞりですよ。母の介護をしていると、時々、自分の心が濁った灰色に染まっていくような錯覚に囚われることがあります。でもね、東恩納さんのノートを開くと、そこに自分では見つけられなかった『青』や『赤』が、言葉になって生き生きと動いているんです。それが、今の私にとってどれほど救いになっているか……」
遠くから、いつものようにバスのヘッドライトが近づき、アスファルトの上を照らし始める。琉球バス24番・那覇大謝名線の少し古びた車体が、エアブレーキの乾いた音とともに停留所へと滑り込んでくる。その音が2人の対話の終わりを告げる合図だ。
「また明日、楽しみにしています」
「ええ、また明日」
2人は短く言葉を交わし、別々の席へと乗り込んでいく。車窓に映る自分の顔を見つめながら、栄一はポケットの中のノートにそっと触れた。
月が綺麗ですね、という言葉の意味を、今の自分はまだ使う資格がない。しかし、使わずに伝えることができる言語を自分はもう一つ知り始めていた。それは、バスを待つ数分間の夜風の中で少しずつ育まれてきた、2人だけの静かな言葉だ。
彼女に読んでもらいたい。その想いだけが、今の彼の、新しい物語を紡ぐための真っ直ぐな原動力になっていた。
夜空では上弦の月が変わらず、きれいに半分だけ、世界を照らし続けていた。
第5頁(十三夜)
9月23日、水曜日。
その夜、キャンプ・キンザーのフェンスは、いつもより長い影を路上に落としていた。
秋の入り口を告げる風が58号線の車道を渡って吹き抜けるたびに、金網が低く、くぐもった音を立てる。東恩納栄一が第一仲西のバス停に辿り着いたのは、夜7時を少し回った頃だった。浦添西海岸の倉庫での勤務は、今日も容赦がなかった。右の手のひらには、レバーを握り続けた赤い痕が残っている。
大城真知子は、すでにベンチの端に腰を下ろしていた。膝の上のトートバッグを小さく抱え、フェンスの向こうに広がる基地の敷地の上に浮かぶ夜空を静かに見上げている。
「お疲れ様です、大城さん」
「東恩納さん、お疲れ様です」
会釈を交わす。それだけで、2人の間の空気がほんの少し柔らかくなる。これは、もう何夜も続いてきた小さな儀式だ。
栄一はベンチの反対側の端に腰を下ろし、右の手のひらを、左の親指でゆっくりと押した。その動作を真知子がさりげなく目で追う。
「今日は、お辛そうですね」
「いえ、大したことではないんですが。世間は秋分の日の祝日だそうですが、物流にはあまり関係がなくて。今日の最終便に少し厄介な荷が来まして」
栄一は苦笑いをし、自分の手のひらを見下ろした。
「航空便のパレットで重心が右に偏っているものがあって。均等に積まれているように見えても、中身の配置で重心が狂うものなんです。少しでも爪の角度を誤ると、持ち上げた瞬間に荷全体がひしゃげる。1発で仕留めないと、隣の棚ごと弾き飛ばしてしまう」
「重心が、狂っている?」
真知子は、栄一の言葉を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「ええ。外からは分からない。持ち上げてみて、初めて爪が正直に教えてくれるんです。あ、こいつは嘘をついていたな、と……」
「……私の糊も、同じなんです」
真知子は膝の上に視線を落とし、自分の指先をじっと見つめた。街灯の光の中で、藍色の染みが皮膚の皺の奥まで沁み込んでいるのが見える。
「防染糊を型紙に沿って置いていくとき、重心が狂うと、乾いた後で模様が歪む。置いている最中は分からないんです。刷毛の感触も、色の入り具合も、その瞬間は正しく見えている。でも、糊が乾いて、色が定着して、布を広げてみて初めて、ああ、どこかで手が揺れていたと分かる。取り返しがつかない状態になって、初めて」
栄一は真知子の言葉の中に、仕事の話ではない何か別のものが流れているのを感じた。それが何かを尋ねる代わりに、栄一はゆっくりと夜空を見上げた。
フェンスの向こう、基地の広大な敷地の上に十三夜の月が浮かんでいた。週の金曜日には、ちょうど旧暦の八月十五日―中秋の名月を迎える。丸みを帯びながらも右の縁がわずかに欠けたその輪郭は、完成を急がない穏やかな意志のように、静かに光を湛えている。あと少しで満ちる、という手前の形。日本では古来、この月を満月と同じように愛でる風習があると、栄一はどこかで読んだことがあった。完璧でないものの中にある美しさを、ちゃんと知っている人々が、この列島には昔からいたのだ。
「大城さんは、紅型を…いつ頃から、されているんですか」
栄一の口から、その問いが出たのは半ば無意識のことだった。これまでの夜、2人はお互いの仕事の中身については語り合っても、その来歴には踏み込まなかった。名前を交わした夜から、バスの座席が隣り合うようになった夜まで、ずっとそうだった。しかし今夜の真知子の横顔には、いつもとは違う翳りがある。重心が狂ったパレットのように、内側に何かを抱えて、それでも静かに佇んでいる。
真知子は、すぐには答えなかった。フェンスの向こうの夜空と、十三夜の月をしばらく見つめていた。
「……ずっと、というわけではないんです」
やがて、彼女はそれだけを言った。声は静かだったが、その一言の底には、一抱えもある重さが沈んでいた。「1度、やめた時期があって」
栄一は頷きも相槌も打たなかった。ただ、その言葉を夜風と一緒に静かに受け取った。やめた理由もやめていた年月も、訊かなかった。訊く必要がないと思ったのではない。訊いてはいけない、という感覚でもなかった。ただ、今夜の真知子の横顔が、それ以上を必要としていないと爪の先で重心を測るように感じ取っていた。
「……僕も」
しばらくの間を置いて、栄一は静かに言った。
「1度だけ、全部やめました」
真知子が、ゆっくりと栄一に視線を向けた。栄一は夜空を見上げたまま、十三夜の月を見ていた。
「全部、というのは」
「仕事も。家族も。それまで自分が正しいと思っていたことも。全部、1度、手放しました」
それ以上を、栄一も語らなかった。2人の間に、しばらく静けさが満ちた。フェンスの金網が、秋風に揺れて低く鳴る。遠く、58号線を走り抜ける米軍車両の重々しいエンジン音が夜を引き裂いて、また静寂に戻っていく。
やめた理由を、2人は互いに語らなかった。何年間のことかも、語らなかった。しかし、語らなかったことで、かえって確かに伝わったものがあった。仕事の哲学の話をしていたはずの夜が、いつの間にか、互いの傷の話になっていた。言葉にしなかったからこそ、その傷は互いの胸の中で正確な形を結んでいた。
重心の偏ったパレットを、1発で仕留める爪の感触。乾いた後にしか分からない、糊の狂い。やめることで初めて見えてきた、物理法則の誠実さ。やめることで初めて取り戻した、布の上の青。
どちらも手放すことで、本当のものを掴み直した人間だった。
「……十三夜、ですね」
真知子が、ふと呟いた。
「満月より少し欠けているけれど、この形が好きです。あと少し、という手前の月は、どこか、今の自分に似ている気がして」
栄一はその言葉を聞いて、胸の奥で何かが静かに解けていくのを感じた。完璧な円になる手前の、愛おしい形。あと少しで満ちる、という余白。自分も今、まさにそこにいる、と思った。
遠くから、24番のヘッドライトが近づいてくる。那覇大謝名線の見慣れた車体だ。エアブレーキの音が響き、前方の扉が開く。
「お先にどうぞ」
栄一がいつものように1歩下がると、真知子は小さく微笑んで、慣れた足取りでステップを上った。整理券を引き、車内へと進む。栄一もその後に続いた。
車内後方の2人掛けの席に、肩を並べて腰を下ろす。バスが発車し、58号線を南へと向かい始める。窓の外をキャンプ・キンザーのフェンスが、切れ目なく流れていく。
2人は、もう言葉を交わさなかった。ただ、互いに手放したものと、手放した後で掴み直したものを、それぞれの胸の中に静かに抱えたまま、同じ夜景を眺めていた。
その沈黙は、これまでのどんな言葉よりも、深く、温かかった。
第6頁(小望月:こもちづき)
9月24日、木曜日。
朝から降り続いた激しい雨が、夜の帳が下りる頃になって嘘のようにピタリと止んだ。
浦添西海岸エリアの倉庫は、湿気と熱気でサウナのようだった。換気扇をいくら回しても、コンクリートの床と壁が昼間の雨水を吸い込んで吐き出す蒸れた息は、作業服の奥まで容赦なく染み込んでくる。栄一はいつも以上に過酷な勤務を終え、疲れ果てた身体を引きずりながら、キャンプ・キンザーのフェンス沿いに伸びる国道58号線を歩いていた。フェンスの向こうでは、米軍基地の広大な敷地を照らす白い照明が、濡れたアスファルトの上に幾重もの光の川を描いている。アスファルトは雨水を含んで黒々と光り、街灯や基地の明かりを鏡のように反射して、まるで夜の海の上を歩いているかのような錯覚を覚えさせる。栄一は火照った首筋を夜風にさらしながら、ゆっくりと第一仲西のバス停へと向かった。
停留所の屋根の下には、真知子がすでにベンチに腰を下ろしていた。いつもより少し肩が落ち、膝の上のトートバッグを両手で抱えるようにして、視線を足元に落としている。栄一はその疲れの色を見て、あえて理由を尋ねなかった。ただ静かに彼女の隣へと腰を下ろし、濡れた夜風が二人の間を通り抜けるのに任せた。
フェンスの向こうから、基地の夜を縫うくぐもった機械音が低く響いている。遠くの国道を走るトラックのエンジン音が夜の底を流れていく。
「今夜は、ひどい雨でしたね」
栄一がそっと声をかけると、真知子はゆっくりと顔を上げた。
「ええ……。でも、雨が上がって良かったです。今夜は、なんだか空気がとても澄んでいて」
真知子はそう言って、フェンスの向こう、広大な米軍基地の敷地の上に広がる夜空を見上げた。雲の切れ間から姿を現したのは、明日には満月を迎えるであろう、丸みを帯びた大きな月だった。
「……小望月(こもちづき)ですね」
栄一の口から、ふとそんな言葉が漏れた。真知子は月を見上げたまま、その言葉の響きを確かめるように耳を傾けている。
「満月の1日前、あと少しで満ちる月のことを、そう呼ぶのだそうです。完璧な円になる手前の、どこか愛おしい形をしていますね」
「小望月……。綺麗な名前ですね。なんだか、これから良いことが始まるような、そんな優しさを含んだ響きがします」
まだわずかに輪郭を欠いたその光は、それでも十分に明るく、黒く濡れた路上や冷たいフェンス、そして、隣り合う2人の横顔を静かに照らし出していく。栄一はポケットのノートに触れたが、今夜はそっとそのままにしておいた。真知子の横顔にある静かな疲れを、言葉で邪魔したくなかったからだ。
やがて遠くから、那覇大謝名線24番のヘッドライトが近づいてくる。プシューという乾いたエアブレーキの音が夜の静寂を切り裂き、重たい車体がゆっくりと第一仲西へと滑り込んできた。2人はいつものように言葉を収め、バスへと乗り込んだ。車内は静かで、2人は別々の席に腰を下ろした。窓の外を宜野湾の夜景が後ろへ後ろへと流れていく。濡れた街路樹が街灯を受けて光り、小望月の白い光が国道の水たまりをそのたびに揺らした。
しばらくして、車内スピーカーが「次は、第二真栄原」と告げた。栄一が席を立ち、真知子に軽く会釈をしてバスを降りる。真知子は窓越しに、バスの進む方向へとゆっくり歩き出していく彼の後ろ姿を見送った。
ポロシャツ姿に仕事の疲れを少し滲ませた広い背中。県道の歩道をいつもと同じ歩幅で、しかし、今夜はいつもより少しだけ重たそうに歩いていく。その背中が街灯の光の輪を抜け、次の光の輪へと入っていくのを真知子はバスが動き出すまで目で追い続けた。
「次は、真栄原」
1つ先のバス停を告げるアナウンスが流れ、真知子はステップを降りた。バスが走り去ると、夜の県道に静寂が戻ってくる。いつもならこのまま真っ直ぐ自宅へ帰るのだが、真知子はふとハッと足を止めた。
「あ……お母さんに頼まれていたお麩とツナ缶、買うのを忘れてたわ」
明日の夕食にどうしても必要なものだった。真知子は今来た道を振り返る。バスの進行方向とは逆、さっき栄一が降りた第二真栄原の方向へと、少しだけ早足で歩き出した。
しばらくすると、県道沿いに煌々と明かりを灯したサンエー真栄原店が見えてくる。
沖縄県民が長年の信頼を寄せるこのローカルチェーンの自動ドアをくぐると、観光客向けの浮ついた品揃えとは無縁の、この島で普通に生きる人々の夕食を支えてきた棚が蛍光灯の白い光の下に整然と並んでいた。
和菓子コーナーの目立つ場所には、明日迎える十五夜に向けて、小豆をびっしりとまぶした不格好で愛おしい「フチャギ」のパックが山積みにされている。この島の日常の営みが、また一つ季節を越えようとしている。
真知子は乾物コーナーへと急ぎ、母から頼まれたお麩とツナ缶を手に取って胸を撫でおろした。レジへと向かいながら、惣菜コーナーの前を通りかかったその時だった。
見覚えのある後ろ姿が、目に飛び込んできた。
並んでいるプラスチック容器をいくつか見比べ、黄色い「半額」のシールが貼られたアジフライとおにぎりを、少し迷うようにしてかごへ移している。それから棚の隅に手を伸ばし、低価格の缶ビールを1本、自分へのささやかな労いとして忍ばせた。
「あっ……!」
静かな店内で、真知子は思わず声を上げていた。その声に驚いたように、レジへ向かいかけていた栄一が振り返る。真知子の姿を視界に捉えた瞬間、栄一の目も丸くなった。
「あっ、大城さん……!?」
2人はお互いを見つめ合ったまま、気恥ずかしそうに、しかし、嬉しさを隠せない様子で小さく笑い合った。
それぞれ会計を済ませると、2人は自然と並んでサンエーの自動ドアを出た。夜風がむっとした蛍光灯の熱気を運び去り、小望月の光が国道の濡れたアスファルトをやわらかく照らしている。ビニール袋を手に2人は並んで歩き出した。袋が擦れ合うカサカサという音が、不思議と愛おしいリズムのように夜道に響いていた。
「驚きました。大城さんも、このサンエーを利用されるんですね」
「いえ、いつもはもっと早い時間に実家の近くのスーパーで済ませるんですけど、今夜は母に頼まれていたものをすっかり忘れてしまって。…東恩納さんのお家は、この近くなのですか?」
「はい。実は、あそこの信号を曲がった先にある古いアパートなんです」
「あら……! 私の自宅も、そこから二つ先の路地を入ったところですよ」
歩きながら言葉を交わすうちに、2人は驚くべき事実に気がついた。第一仲西のバス停では名前しか知らなかった「他人」だった2人の住むアパートが、実は目と鼻の先ほどに近い場所にあったのだ。
不思議な縁に2人は言葉を止め、もう1度夜空を見上げた。明日、完全な円になるはずの小望月が、アパートの屋根の間から、これからの2人をそっと予感させるように優しく街を照らし続けていた。
第7頁(満月)
小望月の夜に偶然の再会を果たした翌日、9月25日、金曜日。
浦添西海岸エリアの物流倉庫は、朝から異常な繁忙を呈していた。
航空便の遅延が重なり、本来は午前中に処理されるはずだったパレットが夕方まで滞留したのだ。栄一は、現場リーダーの比嘉から次々と飛んでくる指示をインカムで受けながら、リーチフォークリフトを一刻も休ませなかった。重心の偏った荷を何度も捌き、マストを限界まで伸ばして最上段のラックへと正確に収め続ける。普段なら、この精密作業に没入することで、余計な思考はすべて遮断される。しかし今日ばかりは違った。フォークの爪を差し込む刹那、脳裏をよぎるのは、昨夜のサンエーの蛍光灯の下で、驚いたように目を丸くした大城真知子の顔だった。
(集中しろ。荷が泣くぞ)
自分を叱りつけ、意識を爪の先端へと引き戻す。6メートルの高さで、パレットがラックの端に吸い込まれていく。衝撃はない。置く、のではなく、預ける。その感覚だけが、今日の栄一を現実に繋ぎ止めていた。
定時を30分過ぎた頃、ようやく比嘉から「東恩納さん、今日はこの辺で上がっていいですよ」という声がインカムに流れた。更衣室で作業着を脱ぎ、ポロシャツに袖を通しながら、栄一は今夜の帰り道を思った。第二真栄原で降りて、サンエーに寄る。半額シールの惣菜コーナーを一回りして、缶ビールを1本。それがこの3年間、変わることのなかった夜の儀式だった。昨夜、その見慣れた棚の前に真知子が現れたことが、まだどこか夢の続きのように感じられる。
通用門を抜け、キャンプ・キンザーのフェンス沿いに58号線へと出ると、潮風に混じって夜の匂いがした。倉庫地区の路地を抜け、第一仲西のバス停の屋根が見えてきたとき、栄一はその足をほんの一瞬だけ止めた。
停留所のベンチに、確かな「色彩」があった。
真知子が、いつもより早い時間からベンチに腰を下ろして待っていた。もしかしたら、自分を待つためにバスを何本かやり過ごしてきたのかもしれない。そう思うと、栄一の胸の奥が静かに熱くなった。
膝の上にはトートバッグから取り出された小さな包みが、大切に抱えられている。街灯の橙色を受けて、包みを覆う布の藍と朱が夜の中でひっそりと息をしていた。栄一の歩みが、ほんの一瞬だけ止まる。
「大城さん、お疲れ様です。今夜はゆっくりなんですね」
丁寧に頭を下げながら近づくと、真知子は嬉しそうに顔を上げ、すっと立ち上がった。
「東恩納さん、お疲れ様です。これ…もし良かったら、受け取ってください」
差し出された包みを、栄一は両手で受け取った。結び目の隙間から漂う、温かいお出汁とごま油の匂いが鼻腔をくすぐる。
「今日の夕方、母の夕飯用に作ったフーチャンプルーなんです。少し多めに作ってしまいましたので。…いつも仕事帰りにサンエーでお惣菜を買われているとお伺いしたから、宜しければ、と思って」
「そんな…大城さんの手仕事の布で、手料理までいただけるなんて」
栄一は言葉を探したが、見つからなかった。見つからなくて良かったとも思った。かつて何百人もの前でよどみなく言葉を繰り出していた口が、今、54歳の染め物職人の前で沈黙している。それが少しも恥ずかしくなかった。
「本当に、ありがとうございます。こんなに嬉しいことはありません」
真知子は心底ほっとしたように、少女のような笑みを浮かべた。
それからしばらくして、遠くから24番のヘッドライトが近づいてきた。琉球バスの那覇大謝名線は、この時間帯には3本しかないが、このバスは3本目だった。エアブレーキの乾いた音とともに、第一仲西に滑り込んできたバスの扉が開く。
「どうぞ」
栄一がいつものように1歩下がると、真知子は「ありがとうございます」と微笑み、先にステップを上がって整理券を引いた。栄一も続いて乗り込む。
車内は空いていた。真知子はいつもの中央の窓際席を通り過ぎ、後方の目立たない2人掛けの席の前でふと立ち止まり、振り返った。促されるようにして、栄一がその隣へと腰を下ろす。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に、2人の体温が収まった。
バスが発車し、キャンプ・キンザーのフェンスが窓の外を後ろへと流れていく。那覇方面からの車列が対向車線を数珠つなぎに過ぎ去り、その光が車内をリズミカルに明滅させた。
2人は静かに言葉を交わし続けた。ノートの行間を語り合うような抽象的な話ではない。今日のお母さんの様子、フォークの爪が1度もブレなかったこと、真知子が今朝仕上げた型紙の蘇芳の発色が思いのほか鮮やかだったこと。隣り合う2人の声は低く、しかし驚くほど自然に、エンジンの振動の中へと溶け込んでいった。
やがて、第二真栄原のアナウンスが流れた。
栄一がいつものように腰を浮かせかけると、真知子もまた、トートバッグを手にして立ち上がった。
「大城さん?」
「今夜から、私もここで降ります」
真知子は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「東恩納さんが夜の楽しみにされているビール、私も一緒に選びたくて」
2人は並んでバスを降りた。真栄原まではあと一区間、200メートルにも満たない距離だ。長い間、その1駅分が、2人の間に引かれていた静かな境界線だった。今夜、真知子はその線を、さりげなく、しかし確かな意志をもって踏み越えた。
サンエー真栄原店の自動ドアをくぐると、いつもの蛍光灯の白い光が2人を迎えた。栄一にとって毎夜の儀式であるこの場所は、真知子の目には新鮮に映るらしく、彼女は惣菜コーナーや地元野菜の並ぶ棚をゆっくりと眺めながら歩いた。今夜の栄一のかごには、真知子から贈られた温かい包みが入っているから、半額シールの惣菜には手が伸びない。
「これが東恩納さんのお気に入りですね」
真知子は楽しそうに棚を見つめ、缶ビールのコーナーの前で足を止めた。栄一がいつも手に取る銘柄を、ためらいなく2本、かごへと入れる。そのためらいのなさが、栄一の胸を深く打った。真知子はもうすでに、自分の夜の習慣を、自分のものとして知っている。
会計を済ませ、スーパーの自動ドアを出ると、昼間の熱気を微かに孕みながらも、確実に季節の歩みを進める涼やかな夜風が2人を迎えた。ビニール袋が擦れるかさかさという音が、2人の間で不思議と愛おしいリズムを刻んでいた。
お互いのアパートへと続く、少し暗い夜道を並んで歩き出す。
ふと、栄一が顔を上げた。
遮るもののない夜空の真ん中に、息をのむほど見事な満月が浮かんでいた。旧暦八月十五日。この島が古くから大切にしてきた中秋の月光が、煌々と、圧倒的なまでの白銀の光を地上へと降り注いでいる。アパートの屋根も、サンエーの前の県道の路面も、2人の足元に伸びる影も、すべてがその祝福のような月光に満たされていた。
栄一は、胸の奥から溢れ出てくる万感を抑えきれず、ただその美しさに打たれて、ぽつりと呟いた。
「月が綺麗ですね…」
言葉が口から出た次の瞬間、栄一はハッと息を止めた。
真知子に話したあの逸話が、遅れて脳裏に甦ってきたのだ。―「漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳させたという話を知ってから、直接的な言葉ほど貧しいと思うようになって」と語っていた。
あの夜、真知子は「私は色の名前の豊かさに救われている」と静かに応じた。2人は確かに、その話をした。
つまり、今しがた自分が口にした「月が綺麗ですね」という一言が、どれほど直截な意味を持ってしまったか—。
(しまった……私は何を言ってしまったんだ――!)
日常の会話のつもりで口にしたその一言が、あまりにも正直すぎる求愛の言葉になってしまったことに気づき、58歳の元営業マンは、まるで初めて告白したティーンエイジャーのように、耳たぶまで真っ赤にして狼狽えた。何百枚もの提案書を作り、何千回も修羅場の商談を潜り抜けてきた口が、今、言い訳の一言も出てこない。慌てて隣の真知子に視線を向ける。
真知子もまた、足を止め、栄一を見つめていた。
真知子の頬も、満月の光の下で、ほんのりと朱色に染まっていた。真知子は栄一のノートを読み、栄一の言葉の深さを誰よりも知っている。あの夜の漱石の話も、覚えていないはずがなかった。栄一が今どれほど慌て、どれほど純粋に照れているか、その表情からすべて察していた。
真知子は胸の奥にある愛おしさを、そっと手のひらで包み込むように微笑んだ。その眼差しは、どこまでも慈しみに満ちていた。そして潤んだ瞳で栄一の目を真っ直ぐに見つめ、1歩、歩み寄るようにして、静かに、しかし確かな声で応えた。
「はい、私も…月が綺麗ですね」
その瞬間、世界からすべての雑音が消え去り、満月の光だけが2人を包み込んだ。
第二真栄原と真栄原。たった1駅分の距離が境界線だった2人は、今夜、同じ月の下に立っている。過去の肩書も、日々の義務も、関係ない。ただ1人の男と1人の女として、お互いの人生と孤独を包み込み合う、本当の愛がここから始まろうとしていた。
2人はもう1度、並んで月を見上げた。
満ち足りた月は、これから同じ道を歩んでいく2人の足元を、サンエーの袋の擦れる音ごと、どこまでも明るく照らし続けていた。
第8頁(居待月:いまちづき)
満月の夜から3日が過ぎていた。9月28日、月曜日。
浦添西海岸エリアの倉庫を定時に出た栄一は、いつものようにキャンプ・キンザーの金網フェンスに沿って、国道58号線を歩いていた。心なしか、足取りがいつもより頼りない。満月の夜、サンエーからの帰り道に交わした言葉—「はい、私も……月が綺麗ですね」という真知子の声が、今も耳の奥で、チェロの低音のように優しく響き続けている。
(私は、本当に大変なことを口にしてしまった。そして、彼女はそれを受け入れてくれたのだろうか)
58歳の身体に、初心な若者のような戸惑いが同居している。手元にあるビジネスバッグの中には、きれいに洗って乾かした真知子のお弁当箱が真知子が染めたあの美しい紅型のバンダナに包まれて収まっていた。
第一仲西のバス停に近づくと、ベンチにはすでに真知子の姿があった。真知子もまた、いつもより少し硬い表情で、膝の上のトートバッグの持ち手をじっと見つめている。フェンスの向こうから、基地のくぐもった機械音が、夜風に乗って断続的に届いてくる。互いの視線が合うと、どちらからともなく、小さく、しかしこれまでとは明らかに違う熱を帯びた会釈を交わした。
「大城さん、お疲れ様です」
「東恩納さん、お疲れ様です。……今日も、お忙しかったですか?」
「ええ、航空便が少し立て込みまして。でも、フォークの爪は1度もブレませんでしたよ」
栄一が少し冗談交じりに言うと、真知子は「ふふ」と緊張を解くように笑った。真知子の頬が、街灯の光の中でほんのりとした朱を帯びる。
「あの、これ、この前の……」
栄一はバッグから、丁寧に包まれたお弁当箱を取り出した。
「本当に美味しかったです。フーチャンプルーの、お出汁の加減が絶妙で。…あ、それから」
真知子がお弁当箱を受け取ろうとしたとき、包みの中から小さな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。真知子が不思議そうに結び目を解くと、お弁当箱の上には、小さな透明な袋に入った焼き菓子が2つ、ちょこんと載っていた。
「それは……?」
「昨日、仕事帰りに少し遠回りをして、宜野湾の古い洋菓子店で見つけたんです。レモンケーキです。僕のような無骨な男が店に入るのは少し勇気が要りましたが、大城さんがいつも、介護や染め物でお疲れのようでしたから、甘いものでも、と思って」
栄一は耳の後ろを掻きながら、視線を泳がせた。
真知子は、その小さなレモンケーキを両手で包み込むようにして、じっと見つめた。彼女の指先は、今日もわずかに藍色に染まっている。
「ありがとうございます、東恩納さん。とても、とても嬉しいです。母がデイケアに行ってる一人の時間に、大切にいただきますね」
彼女の瞳が、街灯の光を反射して潤んでいるように見えた。
ふと、栄一が夜空を見上げた。キャンプ・キンザーの広大な敷地の上に広がる夜空には、まだ月が出ていない。一昨日はあれほど煌々と世界を照らしていた満月が、今夜はどこにも見当たらなかった。
「今夜は、月が遅いですね」
「ええ、満月を過ぎましたから。十六夜を経て、今夜あたりは『居待月』でしょうか。座って、月が昇ってくるのをのんびり待つ、という意味だそうです」
真知子が静かに教えてくれた。言葉を扱う仕事をしていたはずの栄一よりも、自然の色彩や移ろいと共に生きる真知子のほうが、月の名に詳しかった。
「居待月…。座って待つ、ですか。良い名前ですね」
「満月のように、最初から完璧に輝いて迎えてくれるわけじゃないけれど、少しずつ遅れて、それでも必ず昇ってくる。なんだか、大人の我が儘に付き合ってくれるような、優しい月ですよね」
真知子の言葉に、栄一は深く頷いた。
遠くから、いつものように琉球バス24番のヘッドライトが近づいてくる。エアブレーキの音が響き、扉が開いた。
「どうぞ」
栄一はいつものように、1歩下がって真知子に先を譲る。真知子は「ありがとうございます」と小さく微笑み、慣れた足取りで先にステップを上り、整理券を引いた。栄一もまた、真知子の後に続いて1人分の狭いタラップを上がり、同じように整理券を取る。
車内へと進む足取りは、しかし、これまでと違った。真知子はいつもの中央の窓際席を通り過ぎ、後方の2人掛けの席へと迷わず歩いていった。振り返らなかった。栄一も振り返られることを待たずに、その隣へと腰を下ろした。どちらが誘うわけでもなく、ただそこへ向かった。 肩が触れ合うか触れ合わないかの距離は、いつもと同じだった。しかし、その距離の意味が、もう違っていた。
「大城さん」
バスが発車し、58号線の夜景が後ろへと流れ始める中、栄一は低く語りかけるように言った。
「僕のノートの次の頁、まだ何も書かれていない真っ白な頁があるんです。もし良ければ、今度は僕の拙い言葉だけじゃなくて、大城さんの好きな『色』の話も、その行間に書き加えさせてくれませんか?」
真知子は膝の上でお弁当箱とレモンケーキの袋を大切に抱きしめながら、栄一の横顔を見つめた。栄一の目には、かつて現役の営業マンとして世界と戦っていた頃のギラついた光はない。しかし、自分の人生をもう1度、誠実に生き直そうとする男の、静かで揺るぎない光があった。
「ええ、喜んで。私の染める紅型の青が、東恩納さんのノートの中でどんな言葉になるのか、私も見てみたいです」
真知子は微笑み、そっと窓の外へ視線を戻した。
バスが宜野湾の坂道を上り、視界が開けたその瞬間。東の地平線の、建物の屋根のすぐ上から、少しだけ右側が欠けた、しかし圧倒的に濃密な黄金色の月が、ゆっくりとその姿を現し始めていた。満月よりも少しだけ重々しく、しかし深い知性を湛えたような居待月が、遅れてやってきた2人の新しい季節を、静かに、優しく祝福するように照らし始めていた。
第二真栄原のアナウンスが車内に流れたとき、栄一はいつものように席を立ちかけて、ふと止まった。隣の真知子が、まだ動かないでいる。
「大城さん?」
「今夜は……もう少しだけ、乗っていようと思います」
真知子は窓の外の居待月を見上げたまま、静かに言った。その声に、言い訳も遠慮もなかった。
栄一は、そっと腰を下ろし直した。ポケットの中のノートに触れると、まだ真っ白な次の頁が、指先に柔らかく応えた。今夜もまだ、月が昇り切るまでには、時間がかかりそうだった。
第9頁(下弦の月)
10月3日、土曜日。浦添の実家の台所に、朝の光が斜めに差し込んでいた。
大城賢治(おおしろ けんじ)は、ドリッパーにそっと湯を注ぎながら、廊下の奥に耳を澄ませた。母はまだ眠っている。コーヒーの香りが、古い木造の家の中をゆっくりと満たしていく。56歳になった今も独身を通す賢治にとって、この静かな朝の時間だけが、自分ひとりのものだった。
マグカップを2つ、テーブルに並べた。
一つは自分のもの。もう一つは—習慣になって、もう何週間になるだろう。妹が泊まっていく日のために出したものが、いつの間にか、毎朝の所作に組み込まれていた。
廊下の突き当たりの引き戸が開く音がした。足音が台所へ近づいてくる。現れた真知子は、仕事着のまま、首元に薄いタオルを掛けていた。離れで早朝から筆を持っていたのだろう、指先にはうっすらと新しい色の気配があった。
「おはよう、お兄さん」
「おはよう。コーヒー、そこ」
賢治は余計なことは言わなかった。ただ、マグカップを顎でしゃくって示した。
真知子はカップを両手で包んで、椅子に腰を落とした。窓の外、浦添の高台から見える東シナ海は、朝の光を浴びてまだ白っぽく霞んでいる。しばらく2人は黙ったまま、それぞれのコーヒーを飲んだ。
賢治は横目で妹を見た。離婚の後、しばらく真知子の目には、薄い膜が張っていた。笑ってはいても、笑いきれない、どこか遠くを見ているような、あの目だ。それが、ここ最近、変わっていた。笑うとき、ちゃんと笑っている。コーヒーを飲むとき、ちゃんとコーヒーの味を楽しんでいる。些細なことだが、長く一緒に暮らした者にしかわからない、確かな変化だった。
賢治には、その理由を尋ねる気はなかった。自分もまた、他人に踏み込まれたくない場所を持って生きてきた人間だ。ただ、テーブルの上のもう1つのマグカップが、今朝も役に立てているならそれでいい、と思った。
「今夜も遅くなる?」
「うん、ごめんな、お母さんのこと」
「分かってる。気をつけて行って来てね」
それだけ言って、真知子は残りのコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。賢治は新聞を広げていた。
―――
夜7時を過ぎた第一仲西のバス停は、いつものようにキャンプ・キンザーのフェンスが国道58号線の路肩際まで迫り、基地の外灯が金網越しに鋭い影を路上へ落としていた。秋の気配が少しずつ夜風に混じり始め、潮の匂いに、どこか乾いた草の香りが加わっていた。
真知子がベンチに腰を下ろして程なく、倉庫作業を終えた栄一が、いつもの折り目正しい足取りで停留所の屋根の下へと入ってきた。
「お疲れ様です、東恩納さん」
「お疲れ様です、大城さん。今日は少し涼しいですね」
2人は会釈を交わし、並んでベンチに腰を落ち着けた。夜風がフェンスの金網を低く鳴らしていく。栄一は右手をゆっくりと開いたり閉じたりした。今日のリーチフォークは、狭い棚の最奥にパレットを3枚、連続で収めた。レバーを握り続けた掌が、心地よい鈍い疲れを残している。
「今日の作業は、どうでしたか?」
真知子が静かに尋ねた。バス停での問いとしては珍しく、具体的な言葉だった。
「最奥のラックを3枚、続けて。……最後の1枚だけ、爪の入り方がもう1センチ右寄りだったと、降りてから気づきました」
「でも、無事に収まったの?」
「荷は正直ですから。少しのズレも、ちゃんと覚えています」
真知子はそれを聞いて、膝の上で指先を見た。今日挿した呉須の青が、人差し指の付け根にまだ薄く残っている。
「私の糊も同じです。型紙を置く手が、昨日より一ミリでも狂うと、染め上がった布が正直に教えてくれる」
栄一はゆっくりと頷いた。仕事の話をするとき、真知子の声には、母の娘としての疲れでも、離婚した女の翳り(かげり)でもない、別の質の静けさが宿る。職人の、あの声だ。
しばらく、2人は黙っていた。それはすでに、気まずい沈黙ではなかった。お互いの仕事の余熱を夜風にさらしながら冷ましているような、そういう間だった。
栄一はポケットのノートをそっと取り出した。いつもなら万年筆で言葉を綴り始めるところだが、今夜は違った。ノートの最後の頁の隅を、慎重に、しかし迷わず1枚、切り取った。乾いた、小さな音がした。
「大城さん」
栄一は切り取った紙片を、両手で差し出した。真知子が受け取ると、街灯の光の下で万年筆の青黒いインクの、几帳面な文字が並んでいるのが見えた。
「 —明日の日曜日、首里に紅型の工房の展示があると聞きました。もし宜しければ、大城さんに本物を教えていただきながら、一緒に見に行かせてもらえませんか?」
真知子は紙片を持ったまま、しばらく目を動かさなかった。栄一の文字は、ノートに物語を綴るときとまったく同じ筆跡だった。丁寧で、しかし力が抜けていて、1文字1文字が呼吸しているような字だ。
「……首里の、新垣家の展示ですか」
真知子がようやく顔を上げた。
「ご存知でしたか」
「ええ。私も、行こうかどうか、迷っていたところでした」
真知子の耳たぶが、街灯の光の中で微かに朱色に染まった。真知子は紙片を大切に折りたたみ、トートバッグの内ポケットへと収めた。藍色に染まった指先が少しだけ震えているように見えた。
「喜んで、お供します。…東恩納さんのノートの中で、私の呉須の青がどんな言葉に変わるのか、私も楽しみにしていますから」
栄一は耳の後ろを掻きながら、夜空を見上げた。キャンプ・キンザーの広大な敷地の上に広がる空は、この時間にしては星が多い。秋が、確実に近づいている。
月は、まだ昇っていなかった。
「今夜は、月が見えませんね」
「下弦の月ですから。この時間にはまだ、地平線の下にいます。夜が深くならないと、姿を見せてくれない」
真知子が穏やかに言った。栄一は「下弦の月」という言葉を、口の中で静かに繰り返した。
「真夜中を過ぎてから昇ってくる月、ですか」
「ええ。待っていれば、必ず来る。ただ、少し、気長に待たなければならない」
2人は並んで、月のない夜空を見上げた。星だけが瞬く暗闇の中に、やがて必ず昇ってくる月のことを、どちらからともなく思っていた。満月から少しずつ削られ、左の半面だけに光を残したその月は、欠けているぶんだけ深く、夜の奥へと沈んでいる。次の新月へ向かいながら、しかしその先にまた、満ちていく時間が待っている。
そういう月だ、と栄一は思った。
遠くからヘッドライトの光が近づいてきた。琉球バス24番、那覇大謝名線。プシューという乾いたエアブレーキの音とともに、扉が開く。
「どうぞ」
栄一がいつものように1歩引くと、真知子は微笑んで先にステップを上がった。整理券を引き、後部の2人掛けの席へと向かう。栄一もその後に続いた。
バスが発車し、国道58号線を宜野湾方面へと走り始める。窓の外、キャンプ・キンザーの長いフェンスが、街灯の光を浴びながら後ろへと流れていく。
やがて、車内のスピーカーが静かにアナウンスを告げた。
「次は、第二真栄原、第二真栄原——」
栄一が腰を浮かせかけたとき、隣で真知子もまた、トートバッグを手に立ち上がった。
「大城さん、今夜は……」
「サンエーに寄っていきます」
真知子はさらりと言って、前方の扉へと歩き出した。その横顔に、忘れ物をしたときの慌てた色はない。母に頼まれたものを思い出した顔でもない。ただ、少し前を向いて、確かな足取りで歩いている。
第二真栄原のバス停に降り立つと、夜風が2人を迎えた。サンエーの明かりが、少し先の路地に温かく滲んでいる。
栄一は、ポケットの中の薄くなったノートに触れた。1頁分だけ、軽くなっている。その軽さが不思議と心地よかった。
2人は並んで、夜道を歩き始めた。ビニール袋はまだない。これから買うものがある。それだけで、今夜の帰り道は昨日よりもう少しだけ、長くなる。
月は、まだ昇らない。しかし、確かにそこにある。夜の深いところで、静かに、その時を待ちながら。
後頁:こうけい(暁月:あかつき)
10月4日、日曜日。首里の石畳は、午後の陽射しを受けて白く乾いていた。
すっかり高くなった秋の空から降り注ぐ光は、10月に入ったばかりの心地よい風に洗われ、栄一が生まれて初めて足を踏み入れた紅型の展示室は、思っていたよりもずっと静かな場所だった。布が、語っていた。壁に沿って並ぶ作品たちは、ガラス越しに光を受けながら、それぞれの色で、それぞれの時代の息遣いを発していた。
真知子は栄一の半歩前を歩きながら、作品の前に立つたびに足を止めた。説明はしなかった。ただ静かにそこに立ち、布と向き合っていた。その横顔を、栄一はノートを取り出すことも忘れて、ただ見つめていた。
一枚の前で、真知子が小さく息をのんだ。藍と茜が複雑に重なり合った、大振りの着物だった。
「この青です」
真知子が囁くように言った。
「私がずっと、辿り着けないでいる青」
栄一はその布を見つめた。深い。底がない。吸い込まれそうな青だった。しかしよく見ると、その青の中に、かすかに緑が息をしている。かすかに紫が混じっている。一色に見えて、無数の色が重なっている。
「言葉と同じですね」
栄一は思わず呟いた。
「1つの言葉の中に、言い切れないものが幾重にも重なっている」
真知子が、ゆっくりと栄一を振り返った。その目に、展示室の柔らかな光が宿っていた。
「ええ」
それだけだった。それだけで足りた。
出口へ向かおうとしたとき、真知子が展示室の出口に置かれた1枚のチラシを手に取った。国立劇場おきなわの組踊公演の案内だった。
「今夜、公演があるんですね」
真知子がチラシを栄一に差し出した。組踊の衣装には、紅型が使われる。展示室で見てきた色彩が、今度は舞台の上で生きて動く。真知子の目が、それを確かめたがっていた。
「せっかくですから栄一さん、いかがですか?」
栄一は即座に頷いた。チラシを受け取り、開演時刻を確認する。まだ間に合う。
2人は首里の坂道を抜け、バスを乗り継いで国立劇場おきなわへと向かった。
国立劇場おきなわ前のバス停でバスを降りると、夕暮れ前の浦添の空は、真知子が仕事場で向き合う蘇芳の赤に似た色に染まり始めていた。
組踊の幕が上がったとき、栄一は息を呑んだ。
舞台の上の衣装が、まず目に飛び込んできた。紅、黄金、白。それぞれの色が、照明を受けて場内の闇に浮かび上がる。隣に座る真知子の指先が、膝の上でかすかに動いた。無意識に、色を確かめるように。職人の指が舞台の色を読んでいた。
やがて、言葉が始まった。
琉球の古語で紡がれる台詞は、栄一には半分も聞き取れなかった。しかし、言葉が分からなくても、その声の運びは分かった。怒りの台詞は怒りの音を持ち、嘆きの台詞は嘆きの重さを持っていた。言葉以前の何かが、暗い客席に届いてきた。
栄一はポケットのノートに触れた。引き出さなかった。今夜は、書かなくていいと思った。このまま、全身で受け取ればいい。
幕が下りたとき、場内に静かな拍手が広がった。真知子は手を叩きながら、舞台の余韻を追うように目を細めていた。その横顔に、栄一は今日1日かけてようやく見つけた言葉を、心の中だけで当てはめた。まだノートには書かない。もう少し、温めておく。
夜の帳が下りた劇場を出ると、浦添の夜風が2人を迎えた。
第二城間のバス停に向かいながら、真知子が言った。
「組踊の衣装の白、見ましたか」
「ええ」
「あれは、白じゃないんです。何十回も染めを重ねた上に出てくる白で、ただの白じゃ、あの深さは出ない」
栄一は黙って聞いていた。
「言葉も、そうなのかもしれないと思いながら見ていました。何度も書いて、何度も削って、それでも残った言葉だけが、あの白になるんじゃないかと」
「……真知子さんに、そう言っていただけると」
栄一は少し間を置いた。
「書き続ける理由が、また1つ増えます」
バス停のベンチに腰を下ろすと、程なくして24番のヘッドライトが暗い道の向こうに灯った。プシューというエアブレーキの音とともに扉が開く。
「どうぞ」
栄一はいつものように、すっと1歩下がって真知子に先を譲った。真知子は嬉しそうに小さく微笑み、先にステップを上がって整理券を引く。栄一はその背中を見送ってから、自分の分の整理券を取った。
並んで乗り込むような真似は、きっとこれからも、二人の距離がどれほど縮まろうともしないだろう。1歩下がり、真知子の歩みを最優先で守る。この不器用で頑なな乗車スタイルこそが、栄一が、真知子に対する一生モノの誠実さの証明なのだと、栄一は心の中で静かに誓っていた。
車内に進みながら、2人は自然と後部の2人掛けの席へと向かった。もう、どちらが誘うでもなかった。肩が触れ合うほどの距離に収まり、バスが発車する。
夜の国道を北へ向かうにつれ、見慣れた景色が車窓を流れ始めた。街灯の間隔が変わり、建物の背丈が低くなり、やがてキャンプ・キンザーの長いフェンスが闇の中に現れた。
「次は、第一仲西、第一仲西」
アナウンスが流れた瞬間、2人は示し合わせたわけでもなく、同時に窓の外を見た。
いつものバス停だった。屋根の下のベンチ。街灯の鈍い光。フェンスの向こうの暗い空。あの夜から、何度この景色を見ただろう。栄一がノートを落とした夜。三日月の下で初めて名前を呼び合った夜。小望月の下でサンエーで偶然出会った夜。満月の下で「月が綺麗ですね」と呟いてしまった夜。
バスはその前を、止まらずに通り過ぎた。
真知子が、小さく笑った。
「通り過ぎましたね」
「ええ」
栄一も笑った。
乗る側から、見送る側になった。ただそれだけのことが、今夜はひどく温かく感じられた。
第二真栄原のアナウンスが流れた。
2人は並んでバスを降りた。エアブレーキの音、夜風、アスファルトの感触。すべてがいつも通りだった。しかし2人の影は、今夜初めて同じ方角へ向かって並んで伸びていた。
サンエーの自動ドアをくぐった。真知子がかごを手に取り、栄一に渡した。栄一はその後に続いて惣菜コーナーを歩いた。半額シールを探す必要は、今夜はなかった。
会計を済ませて外へ出ると、いつもの帰り道が始まった。ビニール袋が擦れるかさかさという音が、夜の静寂の中にリズムを刻む。その音が今夜はひどく愛おしかった。
ふと、栄一が空を見上げた。
月がなかった…
晦日月(みそかづき)へと向かう途中の空は、月の気配すらなく、ただ満天の星だけが瞬いていた。フェンスの向こうの遮るものない夜空に、これでもかというほどの星が降り注いでいる。遠い過去から届く光が、傷の数だけ、時間の数だけ、今夜もここへ静かに落ちてくる。
「また、新月になりますね」
栄一が呟いた。
真知子は空を見上げたまま、少し間を置いてから答えた。
「ええ。また、始まりますね」
2人はもう何も言わなかった。
言葉はノートの中にあり、色は型紙の中にあり、今夜歩いたすべての道が、それらをひっそりと満たしていた。ビニール袋の音だけが、静かな夜道に続いていた。暁月は、まだ地平線の遥か下にある。
夜が明ける頃、誰も見ていない空にひっそりと昇り、そして朝の光の中に溶けていく。
それでいい、と栄一は思った。見えなくても、そこにある。
奥書(おくがき)
本作はフィクションです。登場する人物・事件等はすべて架空のものです。
また本作の執筆にあたり、琉球バス交通株式会社、株式会社サンエー、国立劇場おきなわをはじめ、沖縄県浦添市・宜野湾市の実在する地名・路線・施設名を作中に使用させていただきました。各社・各施設の実際のサービス内容・運行内容とは異なる描写が含まれる場合があります。関係者の皆様に深く感謝申し上げるとともに、ご寛容をお願い申し上げます。
ボニさん
