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”創作大賞2026応募作品”「月灯りふんわり落ちてくる夜は」ボニさんのPocketBook【月がテーマの恋愛小説3部作第2弾】

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

月灯りふんわり落ちてくる夜は

著:ボニさん


本作は、テレビアニメ『クレヨンしんちゃん』のエンディングテーマとして今なお史上最高の呼び声高い名曲「月灯りふんわり落ちてくる夜」(歌:小川七生 / 作詞・作曲・編曲:RYUZI)からインスピレーションを受けて執筆いたしました。

ボニさん

あらすじ

那覇の書店員・野原紗良は、10年前に心を救われた小説の作家・宮城武志の本を棚に並べようとするが、上司に「終わった作家」と切り捨てられる。その場に居合わせた武志は、自分の言葉を守ろうとする紗良の声に、折れかけた心をつなぎ止められる。偶然と必然を繰り返しすれ違い続けた2人は、銀色の月灯りの夜についに出会う。言葉を信じることをやめかけていた男と、言葉を信じ続けた女が、互いの存在によって再び歩き出す、那覇を舞台にした静かな愛の物語。


プロローグ:窓を開ければ

那覇の夜は、いつも重たく湿った熱気に支配されている。

アスファルトが昼間の容赦ない陽射しを溜め込み、夜になってもそれをじわじわと吐き出し続ける。街全体が巨大な温室の中に閉じ込められたような、逃げ場のない寝苦しさ。泉崎一丁目の一角にある築年数だけが自慢の古いアパート、その三階の一室で、野原紗良(のはら さら)は深い溜息をついた。

天井で力なく回るシーリングファンは、ただ温い空気をかき混ぜているだけだ。デスクの上には書きかけのPOPと、読みかけの文庫本。その傍らには、いつも空になりかけたコーヒーマグが佇んでいる。

紗良は今年で28歳になった。

全国チェーンの大型書店「純空堂」の那覇店に勤めて、早いもので六年が経つ。文芸担当として、毎日何百冊もの新刊に囲まれ、数字と情熱の狭間で戦い続ける日々。かつて文学少女だった頃の自分は、もっと純粋に物語を愛していたはずだった。けれど、中堅と呼ばれる立ち位置になった今、棚を作るという行為はいつの間にか「どれだけ効率よく売るか」という冷徹な計算式に置き換わりつつある。

それが寂しいのか、悔しいのか、それとも単なる疲れなのか。紗良自身にも、もうよく分からなくなっていた。

独り言を飲み込み紗良は椅子から立ち上がると、重い腰を上げてアルミのサッシに手をかけた。建付けの悪い窓は不機嫌そうな金属音を立てて、ようやくその口を開く。

その瞬間だった。

窓の外から流れ込んできたのは、いつものねっとりとした熱風ではなかった。

それは、まるで深い森の奥底や、遠い異国の雪原から届いたかのような、驚くほど涼やかで、透き通った風だった。

紗良は思わず、網戸越しに身を乗り出した。

見慣れた泉崎の夜景が、今夜はどこか違って見える。ビルの屋上に並ぶ無機質な給水タンクも、街路樹のガジュマルの複雑な根も。すべてが青白い光の粒に縁取られ、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような、現実味のない輝きを放っている。

空を見上げれば、そこには信じられないほど大きな月が浮かんでいた。

今夜の月の光は、単なる太陽の反射光ではなかった。それは意思を持っているかのように、ふんわりと重力を忘れた羽毛のように、夜の街へと降り注いでいる。

窓から入り込む月灯りは、彼女の部屋の床に銀色の道を描き出していた。

その道の先に何があるのか、紗良にはまだわからない。ただ、長い時間ぼんやりと眺めながら、胸のどこかが、かすかに疼いていた。


第1話:踏みにじられた情熱

那覇の中心地、久茂地の交差点からほど近い路地に店を構える「純空堂那覇店」は、都会の喧騒を吸い込むような静寂に満ちていた。

自動ドアが開くたびに外の熱気と共に湿り気を帯びた潮の香りが入り込むが、一歩足を踏み入れれば、そこは数万冊の言葉が呼吸する別世界だ。新刊のインクの匂い、古びた紙が放つ微かな甘さ。文芸担当になって六年が経つ紗良にとって、この場所は仕事場である以上に自分の魂の輪郭を確かめるための聖域だった。

夕方のラッシュが始まる前の少しだけ弛緩した空気の中、紗良はレジカウンターの奥で入荷伝票と格闘している店長の比嘉(ひが)へ歩み寄った。比嘉は、沖縄の強い陽射しを長年浴びてきたような深い皺を刻んだ顔を上げ、老眼鏡の縁から紗良を覗き込んだ。

「店長、お忙しいところすみません。……ずっと温めていた企画、相談させてください」

紗良が差し出したのは、1冊の文庫本だった。表紙には、どこか寂しげな海辺の風景が描かれている。10年前に出版された、ある新人のデビュー作。タイトルは『潮騒の境界線』。著者名は、宮城武志(みやぎ たけし)。

「この本を、今こそメインの棚で平積みにしたいんです。私が書いたPOPも、もう準備してあります」

比嘉店長は、その著者名に一瞬だけ目を細めた。

彼はこの宮城武志という作家が、かつての母校の演劇部で、ひたむきに、それでいて不器用な脚本を書いていた後輩であることを知っている。今は鳴かず飛ばずで、壺屋の工房で泥にまみれていることも風の噂で聞いていた。

「……宮城、か。懐かしいねぇ。野原さんは、本当にこの本が好きだね。もう絶版に近いような古い本だよ?」

「はい。10年前、私が1番苦しかった時に、この言葉に救われたんです。今の、誰もが余裕をなくしている那覇の街にこそ、彼の優しい視点が必要だと思うんです。最近また新しく問い合わせをいただくことも増えていますし、もしかしたらSNSで話題になっているのかもしれません」

「いいよ。やってごらん。君のその熱意に免じて、1番いい場所を空けようじゃないか。沖縄の作家を応援するのも、地元の書店の役目だからね」

紗良の顔にパッと明るい灯がともった。

「ありがとうございます! 最高のコーナーにします!」

しかし、その高揚感は背後から響いた冷徹な声によって、一瞬で凍りついた。

「何をやっているんだね、君たちは……」

振り返ると、そこにはグレーのスーツを隙なく着こなした男、エリアマネージャーの鮫島(さめじま)が立っていた。手には売上データが記されたタブレット端末。その眼鏡の奥に光る瞳には1ミリの叙情も宿っていない。

「鮫島マネージャー。これは、次回のフェアの相談で……」

「説明は不要だ。聞こえていたよ。10年も前の、それも現在は全く実績のない作家をうちの一等地に並べるだと? 冗談はやめてくれ」

鮫島は紗良が大切に抱えていた文庫本を、まるで価値のない石ころでも見るかのように一瞥した。

「棚は戦場だ。売れる本を置く場所であって、店員の個人的な感傷を披露する場所じゃない。1冊売るためにどれだけのコストがかかっているか、分かっているのか? この作家……宮城武志だったか。彼はもう、市場に『終わった』と判断された人間だよ」

「終わってなんていません! 彼の言葉は、今でも誰かの心に届く力を持っています!」

紗良は思わず声を荒らげた。しかし鮫島は鼻で笑い、冷酷に言葉を重ねた。

「数字がすべてだ、野原さん。情熱で飯は食えない。実績のない死んだ言葉を並べる暇があるなら、売れ筋のビジネス書の1冊でも多く補充しなさい。比嘉店長、あなたも甘やかしすぎだ。ここは慈善事業の図書館ではないんですよ」

鮫島は吐き捨てるように言うと、靴音を高く鳴らして去っていった。後に残されたのは、重苦しい沈黙とクーラーの冷気だけだった。

紗良は強く握りしめすぎた文庫本の角が、自分の手のひらに食い込んでいるのに気づいた。ジンジンとした痛み。けれどそれ以上に、自分が人生を預けてきた大切な物語がゴミのように扱われたことが、悔しくてたまらなかった。

「……ごめんね、野原さん。あいつの言うことも、商売としては一理あるんだ。でもね……」

比嘉店長が、かける言葉を探すように彼女の肩に手を置いた。紗良は俯いたまま、必死に涙を堪えた。零れ落ちた一滴の雫が、文庫本の表紙に小さな消えない染みを作った。

この時、彼女はまだ知らなかった。

文芸書コーナーの影、棚の死角で一冊の本を手に取っていた「物静かな客」が今のやり取りをすべて心を引き裂かれる思いで聞いていたことを。

猫背気味の背中をさらに丸め、逃げるように店を出ていったその男こそが、彼女が守ろうとした物語の産みの親、宮城武志本人であったことを。

那覇の空が夜の帳をゆっくりと下ろし始めていた。


第2話:武志が聞いていた言葉

純空堂那覇店の文芸コーナーは、休日の夕方になるとひとだまりの空白地帯が生まれる。

観光客はガイドブックコーナーへ流れ、ビジネスマンたちは二階の実用書フロアへ向かう。その隙間に、文芸書の棚はひっそりとした息継ぎの時間を手に入れる。宮城武志がこの書店に足を運ぶのは、いつもそういう時間帯だった。

目的の棚は決まっていた。

文庫本コーナーの「み」の列。そこに、1冊だけ残っている自分の本があることを武志は三ヶ月前から知っていた。

「潮騒の境界線」。10年前、命を削るように書き上げたデビュー作。今や全国の書店で在庫はほぼ消え、稀に古書店で見かける程度になっていた。それでもこの純空堂には1冊だけ生き残っていて、武志は月に1度か2度、その背表紙を確認するために訪れていた。誰かに手に取られていないか確かめるためか、あるいは誰かに手に取られることを密かに祈っているためか、自分でも判然としないまま。

その日も武志は背中を丸め、棚の前で薄い本の背表紙を指先でそっと撫でていた。

と、すぐ隣のレジカウンターの方から、若い女性の声が聞こえてきた。

「この本を、今こそメインの棚で平積みにしたいんです」

武志の指が止まった。

「私が書いたPOPも、もう準備してあります」

声の主は店員らしく、武志の本のタイトルを迷いのない口調で告げていた。ポップ、と彼女は言った。自分のためにポップを作ってくれたというのか。武志は身を縮め、棚の陰からそっと様子を窺った。

エプロン姿の女性は、くっきりとした眉と少し強気な目元を持つ人だった。年齢は自分と近いだろうか。彼女が抱えているのは、確かに自分の本だった。10年前、あの秋、血を吐くようにして書き上げたあの1冊が、今この瞬間見知らぬ女性の胸に抱かれている。

「今の誰もが余裕をなくしている那覇の街にこそ、彼の優しい視点が必要だと思うんです」

そこまで聞いた時、武志の胸に、じわりと、熱いものが染み出してきた。

ところが。

「実績のない死んだ言葉を並べる暇があるなら……」

スーツ姿の男の声が割り込み、武志の体を貫いた。

「終わった」という言葉が、空気を切り裂いた。

武志は棚に手をついて、どうにか立っていた。その通りだ、とどこかで思う。その通りだが、それを認めてしまったら、自分は本当に終わりになる。呼吸の仕方が分からなくなりそうで、彼はゆっくりと壁際に後退した。

そして、あの女性店員の声を聞いた。

「終わってなんていません! 彼の言葉は、今でも誰かの心に届く力を持っています!」

武志は、その瞬間、自分の視界が滲んだことに気がつかなかった。

彼女の言葉は、紛れもなく武志自身に向けられた言葉だった。彼女はそれを知らずに言っていた。だからこそ、その言葉は一切の夾雑物を含まない、純粋な信頼だった。

武志は足音を立てないように棚の間を抜けて、店の外へ出た。

久茂地の街の喧騒が耳に戻ってきた。潮の匂いが混じった夕風が、濡れた目頭を乾かしていく。彼は誰にも見られることなく、ただその場に立ち尽くし、もう少しで崩れそうになっていた何かを必死に両手で抱えていた。

あの人は、誰なんだろう。

その問いだけが、胸の奥に残った。


第3話:親方の情

純空堂の自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、武志は逃げるように久茂地の街を歩いた。耳の奥では、鮫島というマネージャーの声が鋭い刃物のように響いていた。

『実績のない死んだ言葉』『市場に終わったと判断された人間』

反論する気力さえ湧かなかったのは、自分自身が誰よりもその言葉を信じかけていたからだ。10年前に華々しくデビューし、1度だけ浴びた脚光。その残光だけで食いつなぐには、10年という月日はあまりに長く、残酷だった。

武志はゆいレールに乗る金さえ惜しみ、歩いて壺屋(つぼや)へと向かった。

那覇の喧騒から少し外れ、石畳の道が続く伝統の街。やちむんの工房が軒を連ね、焼き物の土と釉薬の匂いが路地を満たしている。そこには、武志が現実を生きるための場所、金城栄徳(きんじょう えいとく)の陶器工房がある。

「戻ったか、武志……」

工房に入ると、土の匂いと窯の熱気が顔を打った。轆轤(ろくろ)の前に座り、一心不乱に泥をこねているのは親方の金城だ。御年70を超えるが、その腕は未だ衰えず、彼が作り出す「やちむん」は武志の書く小説などよりもずっと強固に、この地に根ざしている。

「すみません、親方。少し戻るのが遅くなりました」

「いいさ。道具の片付けと、明日の土の準備をしておけ」

武志は言葉少なに作業着に着替え、泥にまみれた。爪の間に土が入り込み、手のひらの水分を奪っていく。この重たい土の感触こそが、今の武志にとっての「現実」だった。

作業を始めて1時間ほど経った頃、金城が轆轤の手を止め、タオルで汗を拭いながら武志に声をかけた。

「武志、お前がうちに来て、もうどれくらいになる?」

「……3年になります、親方」

「そうか。お前は筋がいい。この3年の働きぶり、俺はしっかり見ているよ」

金城は鋭い眼光を、武志の細い指先に向けた。

「武志。もういい加減、芽の出ない『本書き』なんてやめろ。うちの正社員になれ。お前なら、いい職人になれる。土は嘘をつかんぞ。紙に書いた言葉よりも、ずっと正直に人の手に残るもんだ」

それは、金城なりの最大限の親心だった。定職に就かずバイトで食いつなぎながら、夜な夜な進まない原稿に向き合う教え子への不器用な救済。しかし、その優しさは今の武志の心に鮫島の言葉よりも深く、重く突き刺さった。

「……ありがとうございます。でも、俺……」

「今すぐ答えろとは言わん。だが、夢を食って生きていけるのは、20代までだ。お前ももう、分かっているだろ?」

金城はそれだけ言うと、再び轆轤を回し始めた。シュルシュルという単調な音が、静まり返った工房に響く。武志は自分の手を見つめた。親方の言う通りだ。自分の指先は、もうペンを握るよりも、土をこねる時間の方が長くなっている。

「武志さん! お疲れ様です!」

そこへ、明るい声を響かせて同僚の大城(おおしろ)が入ってきた。いつも屈託のない笑顔で、武志が賞を取った作家であることを知っている、この工房で唯一の男だった。

「親方、また武志さんに熱烈なスカウトですか? ダメですよ、武志さんはいつか大作家になって、俺にサイン本をくれる約束なんですから!」

「ふん、大城。お前は口を動かす前に手を動かせ」

金城が鼻を鳴らし、工房に少しだけ柔らかな空気が戻った。大城は武志に寄り添い、小声で囁いた。

「武志さん、気にしないでください。俺は信じてますよ。……でも、親方の言うことも一理あるから、しんどいっすね」

大城の言葉に、武志は力なく微笑んだ。工房の窓から見える空は、いつの間にか深い藍色に染まっている。あの書店の女性の声が、まだ耳の奥で鳴っていた。


第4話:坂道のすれ違い

那覇の街が夕闇の中に沈んでいく。

泉崎一丁目の急な坂道を紗良は愛用の自転車で下っていた。ブレーキを握る手に力を込めなければ、そのまま夜の底まで転げ落ちてしまいそうな傾斜だ。

今日の仕事は心身ともに削られるものだった。「実績のない、終わった作家」という鮫島の言葉が、今も耳の奥で棘のように刺さっている。自分の信じてきた物語を否定されることは、自分自身の6年間のキャリア、ひいては人生そのものを否定されるのと同義だった。

「せめて、今日くらいは……」

紗良は坂の途中にある、小さなパン屋「ベーカリー・カナサ」の前で自転車を止めた。天然酵母の香りが漂う店内は、いつも温かな光に満ちていた。

彼女のお目当ては、この店の「塩パン」だった。外側はパリッとしていて、中は驚くほどもっちりとしている。仕事で疲れ果てた夜、このパンを一つ食べるのが紗良にとっての「ささやかな贅沢」であり、明日への活力だった。

店に入ると、トレイの上には残り1つの塩パンが照明を浴びて黄金色に輝いていた。

「よかった、間に合った……」

紗良は吸い寄せられるようにトレイを手に取り、最後の1つを確保した。レジで会計を済ませ、紙袋から漂う香ばしい匂いに少しだけ強張っていた心が解けていくのを感じる。

彼女は店を出ると再び自転車に跨がった。軽やかに坂を下っていく。

入れ替わるように、1人の男が坂を上ってきた。

猫背気味の背中に、泥の匂いの染み付いた作業着。武志だ。しかし2人はお互いの顔を知らない。紗良が書店で情熱を燃やしていたその時、武志は棚の影に隠れていた。

武志は自転車で遠ざかっていく紗良の後ろ姿を、ぼんやりと横目で見送った。前カゴに揺れる紙袋が、街灯の光の中で温かく輝いている。

(あんなふうに、軽やかにどこかへ行けたらな)

自分は今、壺屋の重い土と、親方から突きつけられた引導に足を取られて動けずにいる。

武志が店に近づくと、自動ドアが無機質な音を立てて横に滑った。冷房の効いた空気が流れ出してくる。彼の目的もまた「塩パン」だった。財布の中には、小銭が数枚。しかし、武志の視線の先にあるはずのトレイは、残酷なほどに空っぽだった。

「……ない」

「すみません。塩パン、ちょうど今しがた最後の1つが出てしまいまして……」

武志は力なく首を振った。

今しがた店の前ですれ違ったあの自転車の女性。彼女の籠の中にあった紙袋が、自分の今夜の唯一の希望を連れ去っていったのだ。

武志は何も買わずに店を出た。

坂の上にある古びたアパートまでの道のりが、いつになく遠く感じる。腹の底から、情けないほどの空腹の虫が鳴いた。

振り返ると坂の下の方で、あの自転車のライトが小さく点滅しながら、都会のネオンの中へと溶けていくのが見えた。

もし誰かが神の視点から2人を眺めていたなら、こんなことに気づいただろう。

あの自転車の女性こそが、書店であなたの物語を守ろうとしていた人なのだ、と。彼女の前カゴに揺れるパンは、あなたが手に入れ損ねた明日の糧だったのだ、と。

だが、そんなことを知る由もなく、2人の背中は夜の街に呑まれていった。


第5話:琥珀色の時間

純空堂那覇店で鮫島から「実績のない、終わった作家」と引導を渡されたあの日から、数日が過ぎた。

仕事が休みだった紗良は、重い気分を振り払うように泉崎の路地裏にある純喫茶「琥珀色の時間(とき)」のドアを押し開けた。店内を支配する濃密な珈琲の香りとレコードが刻む微かなノイズ。ここに来れば、鮫島に投げつけられた冷酷な言葉を少しだけ忘れられる気がした。

いつもの隅にあるベロアのソファ席。紗良はそこに深く沈み込み、バッグから宮城武志の文庫本と新しい画用紙を取り出した。

(……それでも、私はこの言葉を信じている)

たとえ数字が伴わなくても、10年前のこの1冊が今の自分を支えている。紗良は色鉛筆を走らせ、祈るような心地でPOPを書き進めた。

レコードから流れてくるのは、ボサノバの古い曲だった。チェット・ベイカーのトランペットが、珈琲の湯気の中に溶けていく。紗良はその音楽に背中を押されるように、何枚もPOPを書き続けた。

この本の言葉が10年前の自分に何をしてくれたか。孤独の底に沈んでいた夜、どのページのどの1文が溺れる手に差し伸べられた綱になったか。それを伝えるための言葉を探す時間は、紗良にとって仕事でも義務でもなく、純粋な愛情の行為だった。

数枚書き上げ、少しだけ前向きな気持ちになった彼女は、道具を片付けて席を立った。その際、バッグの脇から今書き上げたばかりの1枚の画用紙が、音もなくテーブルの下へ滑り落ちた。

紗良は気づかなかった。


カウベルが鳴り、泥の匂いが染み付いたままの武志が、同僚の大城を連れて店に入ってきたのは、それから数分も経たないうちのことだった。

「武志さん、たまにはこういう落ち着いた店で珈琲でも飲みましょうよ。親方の説教、今日は特に長かったですからね」

「……ああ、そうだな」

武志は、自暴自棄に近い虚無感の中にいた。2人は導かれるように、まだ前の客の温もりが残るあの隅のソファ席へ腰を下ろした。

大城がメニューを選んでいる横で、武志はテーブルに突っ伏し、重い溜息をついた。

(……もう、俺の言葉なんて、誰にも届かないんだ)

その時、靴先にカサリと何かが触れた。

「……なんだ、これ」

拾い上げてみると、それは厚手の画用紙だった。色鉛筆で丁寧に彩られ、溢れ出すような想いが、滲んだインクの跡からも伝わってくる。

『――この物語は、あなたの止まった時間を動かしてくれるはずです。』

その力強い文字の下に記されていたのは、他でもない、彼が10年前、命を削るようにして書き上げたデビュー作のタイトルだった。

「……え?」

武志の指が、激しく震えた。

「どうしたんですか、武志さん? ……うわ、これ、武志さんの本のタイトルじゃないですか! 誰ですか、こんな熱いこと書いてるの」

大城の驚きに満ちた声も、今の武志の耳には届かなかった。

自分を「終わった」と切り捨てた世界の中で、誰かが、たった今この場所に座り、自分の言葉を信じて待ってくれていた。

武志はPOPをひっくり返した。裏面には、小さく、書店のロゴと手書きの名前が書かれていた。「純空堂那覇店 野原紗良」。

野原、紗良。

その名前を、武志は声に出さずに唇だけで読んだ。書店で声を荒らげていた、あのエプロン姿の女性か。あの人が、自分のために、こんなものを書いてくれていたのか。

見知らぬ誰かの体温が宿ったPOPが、武志の凍りついた心を静かに、けれど確実に溶かし始めていた。


第6話:もう一度だけすれ違う

武志は翌日、純空堂へ向かった。

あの画用紙の持ち主を、確かめたくて。いや、正確には会いたかったのかもしれない。自分でもよく分からないまま、足が向いていた。

書店の中は、いつものように静かな活気に満ちていた。武志は文芸コーナーへ向かいながら、店内を見渡した。エプロン姿の店員が何人かいる。しかし、あの声の持ち主、野原紗良の姿はなかった。

カウンターで別の店員に話しかけようとして、やめた。名前を出せば、おかしな客だと思われるだろう。武志は棚の前で少し時間を潰し、結局何も告げずに店を出た。

翌々日も、武志は書店を訪れた。

今度は夕方の閉店1時間前。あの女性は夕方に働いていた、と記憶していた。しかし文芸コーナーに彼女はいなかった。レジには知らない顔の若い男性だけがいた。

(今日は非番か、あるいはもう上がってしまったのか)

武志は1冊も手に取らずに店を出た。

坂道を下りながら、自分の滑稽さに苦笑した。会って、どうする。お礼を言う? あのPOPを書いてくれたのはあなたですか、と聞く? そんなことを聞いて、どうなる。向こうは自分のことを何も知らない1人の客に過ぎない。

けれどあのPOPは、今も武志のアパートの机の上に置かれている。

一方の紗良は、この数日、武志のことをほとんど意識していなかった。

棚のことで頭がいっぱいだった。鮫島への静かな抵抗として、倉庫に眠っていた宮城武志の旧作を少しずつ引き出し、文芸コーナーの一角に、コッソリと、しかし丁寧に並べ直していた。鮫島が巡回に来ない日を狙って。比嘉店長が目を細めながら見守ってくれている間に。

その一角を通る客が、ふと足を止めて本を手に取るのを見るたびに、紗良の胸には小さな火が灯った。それだけで、今日も来てよかったと思えた。

2人はすれ違い続けた。

まるで、出会う寸前で見えない壁に阻まれるように。あと1歩、あと1日、あと少しのところで、互いの存在は交差しなかった。


第7話:雪のような月灯り

那覇の街から一切の風が消え、驚くほどの静寂が深まった、ある夜のこと。

宮城武志は、安アパートの狭い一室で、ただ窓の外を眺めていた。手元の机の上には、あの日の喫茶店で拾い上げた1枚の古ぼけたPOPが置かれている。端は何度も指でなぞったせいで白く擦り切れ、4つ折りの折り目は今にも破れそうだった。

「……こんな夜が、本当にあるのか」

武志は独りごちた。

開け放たれた窓から差し込むのは、南国の湿り気を帯びた熱気ではない。耳の奥でキーンと響くほどの静寂と、重力を忘れた雪のように、ふんわりと舞い落ちる銀色の光。かつて彼が、書きかけの原稿の中で「理想の終わり」として描こうとし、結局言葉にできずに筆を折ったあの情景が、今、目の前のアスファルトを白く染め上げている。

武志は、そのあまりの白さに息を呑んだ。土にまみれた日常が、一瞬で剥ぎ取られていくような感覚。

同じ頃、泉崎にある古いアパートの3階。

仕事に追われ、他人の言葉を飾ることに疲れ果てた紗良もまた、吸い寄せられるように窓を開けた。

「……信じられない。本当に、降ってる」

街の喧騒は完全に死に絶え、数キロ先の波音さえ聞こえてきそうなほど、空気は透明に澄み渡っている。

紗良がふと視線を落とすと、窓の下にあるコンクリート塀の上に、1匹の猫が座っていた。月光をその身に溜め込み、全身が淡く発光しているかのような、美しい銀色の毛並み。その猫は、まるで紗良が窓を開けるのをずっと待っていたかのように、じっと彼女を見上げていた。

「ミー」

短く、けれど凛とした鳴き声。猫はしなやかな動きで塀を飛び降りると、振り返りもせずに歩き出す。

「待って……」

紗良はパジャマの上にカーディガンを羽織り、素足にサンダルを引っ掛けただけの姿で、部屋を飛び出した。外の世界は、もはや彼女の知っている那覇ではなかった。銀色の絨毯へと変わったアスファルトは、踏みしめても足音ひとつ立てない。

銀色の猫の背中は、光の中に消えそうになりながらも、絶妙な距離を保って彼女を導いていく。紗良は、自分がどこへ向かっているのかも、なぜ走っているのかも分からなかった。ただ、この猫を失えば、もう2度と「本当の自分」に出会えない気がしたのだ。


第8話:銀の噴水

どれくらい歩いただろうか。

銀色の猫は、1度も振り返ることなく、白く煙る夜の底へと紗良を導いた。泉崎の静かな坂道を下り、街灯さえも銀色の雪に埋もれたような道を抜け、たどり着いたのは―那覇市民会館の跡地、あの大きな噴水のあった場所だった。

かつては多くの人が集い、今は静かに時を止めたその場所が、今夜だけはかつてないほど白く輝いている。

「……あ」

紗良は、噴水の前で足を止めた。

そこには、1人の先客がいた。

使い古された作業着を纏い、所在なげに噴水を見つめている男。そしてその足元には、たった今、自分をここまで導いてきたはずのあの銀色の猫が、当然のような顔をして座っていた。

「ミー」

短く、けれどどこか満足げな響き。猫は紗良の姿を認めると、2人の視線が交差したのを見届けるように1度だけ喉を鳴らし、そのまま銀色の光の中に溶けるようにして姿を消した。

男が、ゆっくりと顔を上げた。

銀色の光を浴びて立つ紗良の姿を見て、男は驚きに目を見開いた。それから、おもむろに作業着のポケットに手を入れた。

4つ折りにされ、端がボロボロになった1枚の画用紙を、震える指先でゆっくりと広げた。

「……これ」

男の声は、静寂を裂くことなく、優しく空気に馴染んだ。

「これ、数日前にあの喫茶店で拾ったんだ。……本屋の棚にあった、他のカードを見て確信した。これを書いてくれたのは、店員の君だったんだね」

紗良の息が止まった。

男の指の間にあるのは、あの日、失意の中で置き忘れてきたはずの自分の言葉。

「ずっと、探していたんだ。こんなことを、俺の書いた物語に言ってくれる人が、まだ世界に1人でもいるなんて、思ってもみなかった。……もう2度と、筆なんて持つことはないと思っていたのに」

男の口から漏れた「俺の書いた物語」という言葉。その瞬間、紗良の脳裏に、かつて何度も読み返し、暗唱できるほど愛したあの小説の文体と、目の前の男の震える声が重なった。

「宮城、さん……?ですか?」

「知っていてくれたのか?」

男は驚きと安堵の混じった顔で、ゆっくりと頷いた。

「俺が、宮城武志」

その名を呼んだ瞬間、紗良の胸の奥で、せき止めていた何かが一気に溢れ出した。名前も知らない本屋の客が、自分が人生を救われた作家その人であるという、あまりにも鮮やかで、けれど必然だったかのような奇跡。

「終わってなんて、いません!」

紗良の声は、今にも消えそうなほど震えていた。

「あなたの言葉に、私は何度も救われてきたんです。10年前、誰にも言えない苦しさを抱えていた夜、あの本の一節を読んで、初めて泣けたんです。泣いたら、少しだけ楽になれた。……だから、あなたの言葉は、私にとって今でも生きているんです」

武志は、しばらく言葉を失ったように彼女を見つめていた。銀色の光を浴びた彼女の瞳は、本気だった。嘘でもお世辞でも、哀れみでもなかった。それは武志が10年間、どこかで待ち続けていた言葉の形だった。

「君の名前、聞いてもいいか?」

「野原紗良です」

「紗良さん、か……」

武志はゆっくりと、その名前を確かめるように繰り返した。

「俺が書いた物語を、10年間、ずっと覚えていてくれた人が、こんな形で目の前に現れるとは、思ってもみなかった」

「私も、あなたが書店に来ていたなんて、知らなかった。……あの日、書店で見た男の人が、あなただったんですか?」

武志はやや苦そうに微笑んだ。

「聞こえていたよ。全部。……俺のために、大声で怒ってくれた」

「恥ずかしい」

紗良は思わず顔を伏せた。それから顔を上げ、おかしくなって笑った。武志も、つられて小さく笑った。噴水の前で、2人の笑い声が銀色の光の中に溶けていった。

「次の本が書き上がったら、最初に原稿を読んでくれませんか?」

突然の願いに、紗良は驚き、それから今日一番の笑顔で頷いた。

「はい、喜んで」

武志は、夜空から降り注ぐ銀色の粒子を眩しそうに見上げた。

「タイトルは……そうだな……『月灯りふんわり落ちてくる夜は』でどうかな?」

那覇の公園で、2人の時間が重なった。雪のように降り注ぐ月灯りの中で、2人はしばらく、ただそこに立っていた。言葉はいらなかった。月の光が、黙ったまま、すべてを語っていた。


第9話:朝凪の光の中で

翌朝

那覇の街を包んでいたあの銀色の光は、夜明けとともに跡形もなく消え去っていた。いつもの湿った熱気が戻り、国際通りには観光客の賑やかな声が響き、遠くの工事現場からは重機の駆動音が聞こえてくる。

けれど、何かが決定的に変わっていた。

泉崎のアパートから出勤した紗良は、開店前の本屋の棚の前に立っていた。エリアマネージャーの「売れない本は返品しろ」という冷徹な指示を、彼女は静かに、しかし毅然と撥ね退けた。

彼女が選んだのは、1番目立つ一角を空け、倉庫に眠っていた宮城武志の旧作を1冊ずつ丁寧に磨き上げて並べることだった。そして、夜通しかけて書き上げた新しいPOPを、1枚1枚、心を込めて添えていった。

「次の本が書き上がったら、最初に原稿を読んでくれませんか?」

昨夜、武志が少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で自分に託してくれたあの言葉。「1番の読者」になるというあの約束が、今の彼女を突き動かす、何よりの誇りだった。

熱のこもった手書きのPOPを添えると、1冊、また1冊と、武志の本が客の手に取られていった。

 昼過ぎ、棚の整理をしている紗良の背後から、比嘉店長がゆっくりと近づいてきた。

「野原さん」

「はい」

 振り返ると、比嘉はいつもの人好きのする笑顔の奥に、少しだけ湿った光を宿していた。

「さっき、あの棚の前で、お客さんが友人に電話しているのを聞いたよ。『この本、知ってる? すごくいい』って」

 紗良は、思わず棚の方へ視線を向けた。

「……本当ですか」

「本当だよ。地元の書店の役目、果たせてるね」

 比嘉は、それだけ言って静かに奥へ戻っていった。紗良は棚の前で、しばらく動けなかった。

「地元の書店の役目」。あの日、比嘉に言ってもらったその言葉が、今、静かに実を結んでいた。

一方、武志は、現場へと向かう軽トラックの助手席で、窓の外を流れる景色を眺めていた。作業着のポケットには、今もあの1枚の画用紙が入っている。彼はもう、自分の影だけを見て歩いてはいなかった。

夕方になって、純空堂那覇店に鮫島が巡回に訪れた。

 タブレットを片手に売上データを確認しながら、いつものように文芸コーナーへ向かった彼は、ある棚の前で足を止めた。

 宮城武志の旧作が、丁寧に、しかし確かな存在感をもって並んでいた。手書きのPOPが添えられ、1冊は既に売れたのか、棚に隙間があった。

 鮫島は眼鏡の奥の目を細め、データ画面を確認した。この一週間で、この作家の本が複数冊動いていた。SNSで話題になりかけているという情報も、データの端に引っかかっていた。

「……ふん」

 彼は一言だけ鼻を鳴らし、何も言わずにその場を離れた。

 棚の端に貼られたPOPに書かれた名前を、彼がちらりと読んだかどうかは、誰にも分からなかった。ただ、その日を最後に、鮫島がこの棚について苦言を呈することは、二度となかった。


第10話:距離を測る日々

出会いから1週間が経った。

武志は、週に2、3度、純空堂に立ち寄るようになった。

最初は、本当に本を選びに来た。新しい文庫本を手に取り、少しだけ立ち読みして、1冊買って帰る。それだけのことだった。しかし自然と、紗良のいる時間帯に足が向いていた。

紗良の方も、武志が入ってくると、すぐに気がついた。

猫背の背中と、少しだけ泥の香りが残る作業着。文芸コーナーの前で立ち止まる癖。それらが、紗良の視界の端にひっかかるようになっていた。

「……いらっしゃいませ」

「……どうも」

それだけだった。

2人は出会っていた。名前も知っていた。あの夜、噴水の前で話した。なのに、昼間の書店という現実の空間では、2人の距離はまた奇妙に開いてしまうのだった。

武志は、何を話せばいいか分からなかった。あの夜は月の光に背中を押されていた。銀色の非現実が、2人の間の壁をとかしていた。だが白昼の書店では、自分はただの薄汚れた工房のバイトに過ぎない。彼女は仕事中だ。話しかけるのも迷惑だろう。

紗良もまた、踏み出せなかった。

彼は大切な作家だ。ファンが作家に過剰に接近するのは、好ましくない。それに自分は、あの夜の自分とは違う。白いエプロンをかけた、普通の書店員だ。

そんな意地の張り合いのような日々が続いた。

転機は、比嘉店長だった。

「野原さん、あそこにいつも来るお客さん、知ってる人?」

ある日の閉店後、棚の整理をしていた紗良に、比嘉が人好きのする笑顔でそっと声をかけた。

「……少し、知っています」

「宮城武志くんだよ。俺の後輩の。……君が必死に守ってくれた本の、作者さん」

紗良は棚に向かったまま、固まった。

「知ってたんですか?」

「最近、また来るようになったから気がついてね。……彼、ずいぶん変わった顔をするようになったよ。うちに来るたびに、ね」

比嘉は眼鏡の奥で目を細めて微笑み、それ以上は何も言わなかった。


第11話:渡したいもの

武志は、迷っていた。

アパートの机の前に座り、白いノートを開いて、また閉じる。それを10分おきに繰り返していた。

あの夜以来、言葉は溢れ出すのに、それを紙の上に着地させることができなかった。物語を書こうとすると、いつも同じ場所で詰まる。銀色の光の中で、彼女が言った言葉。「あなたの言葉に、私は何度も救われてきたんです」。その一文が、頭の中でぐるぐると回り、その先が書けなくなるのだ。

大城が工房の隅でそれを見抜いていた。

「武志さん、最近ぼうっとしてますよ。親方に叱られますよ」

「……うるさい」

「もしかして、恋ですか」

武志が黙ったので、大城はすべてを察した表情になり、うれしそうに口笛を吹いた。

「やっぱり! 誰ですか、誰ですか!」

「仕事しろ」

「ラブレターでも書けばいいじゃないですか。武志さんは作家なんだから、世界一のラブレターが書けるはずです」

武志は鼻で笑ったが、その言葉は胸のどこかに刺さった。

世界一のラブレター。そんなもの、書ける気がしない。しかしそうではなく、もっとシンプルに、彼女に何かを渡したいという気持ちは、確かにあった。

その夜、武志はノートに向かい、小説ではなく、ごく短い一節を書いた。物語の一節のような、詩のような、ひとつの文章。

それを丁寧に便箋に清書して、小さく折り畳んだ。

翌日、武志は純空堂に向かった。

紗良がレジに立っているのを確認してから、文芸コーナーで1冊の本を選んだ。宮城武志の旧作ではなく、別の作家の文庫本を。レジに持っていくと、紗良が受け取って、バーコードを読み取った。

「730円です」

「……はい」

武志は財布から小銭を出し、本を受け取った。それから、少しだけためらって、カウンターの上に、小さく折り畳まれた便箋を置いた。

「これ……よかったら」

紗良は一瞬、何が起きたか分からないような顔をした。武志はもう顔を上げられなくて、そのまま足早に店を出た。

紗良は、手のひらの上の便箋を見つめた。

閉店後、バックヤードでそっと開いた。

そこには、こう書かれていた。

月灯りが降る夜に、あなたに出会えたことを、俺はこの先、何度でも書くだろう。 でも、まず一度だけ、声に出して言わせてほしい。 珈琲でも、飲みませんか。

紗良は、その文章を3度読んだ。

それから、誰にも見られないバックヤードで、独りで、しばらく笑い続けた。


第12話:珈琲の約束

待ち合わせは、あの純喫茶「琥珀色の時間」だった。

武志が先に着いて、隅のソファ席に座った。あのPOPが落ちていた席だ。彼はそれを知らないが、紗良は知っていた。

紗良が入ってくると、武志は立ち上がりかけて、また座り直した。その動作がひどくぎこちなくて、紗良は笑いをこらえながら向かいの席に座った。

「……来てくれた」

「来ました」

しばらく、2人とも何も言わなかった。珈琲が運ばれてきた。熱いカップを両手で包みながら、紗良が先に口を開いた。

「あの便箋の文章、とても好きです」

武志の耳が赤くなった。

「……そうか」

「作家の人って、日常でもああいうことを書くんですか」

「書かない。あんなもの書いたのは、たぶん初めてだ」

「そうですか」

紗良は、カップを置いた。

「私から、聞いてもいいですか。あの夜から、純空堂によく来てくれるようになったのは……」

「……会いたかったから、だ」

武志は窓の外を向きながら言った。那覇の夕暮れが、路地の石畳を橙色に染めている。

「会いたかったのに、何も言えなかった。情けないだろう」

「私も言えませんでした」

武志が振り返った。

「君も…!?」

「あなたが来るたびに、話しかけようと思っていた。でも、あなたは大事な作家さんで、私はただのファンで……って、言い訳ばかり考えていました」

武志は少しだけ眉を下げた。

「俺は今、土にまみれた工房のバイトだ。大事な作家なんて、名乗れる立場じゃない」

「でも、書いているじゃないですか、今も」

武志は一瞬沈黙した。

「書いている。君に読んでもらうために……」

紗良の胸が、じわりと熱くなった。

「私のために?」

「世界でたった1人の最初の読者がいるなら、書ける気がした。……あの夜からずっと、それだけを思っている」

2人の間に、静かな時間が流れた。レコードが低く唸り、珈琲の湯気が揺れる。

「武志さん」

紗良が呼んだ。

「はい」

「私も、ずっと思っていたことがあります」

「何を?」

紗良は、カップを両手で包んだまま、まっすぐに武志を見た。

「あなたの物語は、私を何度も救ってくれた。だから私は、今度はあなたを救いたいと思っていた。……でもそれは、傲慢だったかもしれない」

武志は首を振った。

「傲慢じゃない。あなたは救ってくれた。あのPOPが、俺を引き止めた」

紗良の目が、少し潤んだ。

「よかった」

それだけ言って、彼女は微笑んだ。武志もまた、ぎこちなく、確かに微笑み返した。

外では夕暮れが深まり、路地に街灯が灯り始めていた。

帰り際、2人はぎこちなく、それでも確かに、連絡先を交換した。

「また、会ってくれますか?」

武志が言った。「珈琲じゃなくてもいい。ただ、話したい」

「もちろんです!」

紗良は頷いた。

「私も話したいことが、たくさんあります。あなたの本のことも、あなたが知らない那覇のことも」

「……俺の知らない那覇?」

「書店の裏から見える海と、夕暮れ時のガジュマルと、塩パンの話と」

武志は少し不思議そうな顔をした。

「塩パン?」

「いつかゆっくり話します」

二人は笑った。今度は同時に、声を合わせて。その笑い声が、琥珀色の珈琲の香りに溶けていった。


第13話:原稿と最初の読者

それから1週間が経った。

武志の原稿は、驚くほどの速さで進んでいた。

毎晩、工房から帰ると、作業着のまま机に向かった。シャワーも後回しにして、ペンを走らせた。手が泥の匂いを帯びていても、言葉は清潔だった。むしろその泥と、白い紙の対比が、武志の中で何かを解放していた。

物語は「月灯りふんわり落ちてくる夜は」というタイトルで動いていた。

主人公は、言葉を失った男と、言葉を守り続けた女。2人がすれ違い続け、偶然に、あるいは必然に、出会う物語。プロットを考えるまでもなく、言葉は溢れた。あの夜の噴水が、あの喫茶店が、あの坂道が、そのまま物語になっていく。

紗良との時間も、続いていた。

週に1度か2度、閉店後の「琥珀色の時間」で落ち合って、珈琲を飲んだ。最初はぎこちなかったが、3度、4度と重ねるうちに、2人の間の言葉は自然になっていった。

紗良は書店の話をした。どんな本がどんな人の手に渡っていくか。誰かに手渡した本が、その人の人生をどう変えるかを想像する時の小さな喜び。

武志は工房の話をした。土が形になっていく過程。轆轤の上で器がゆっくりと立ち上がる瞬間の、不思議な達成感。

「書くこととやちむんを作ること、似ていると思います」と紗良が言った。

「どこが?」

「どちらも、最初は形のないものを、自分の手で形にする。でも完成したものは、もう自分のものじゃなくて、誰かのものになる」

武志はしばらく考えて、言った。

「……それは、いいたとえだ。俺は今まで、本が売れないことばかり考えていた。でも本当は誰かの手に渡った瞬間から、その本はその人のものになるんだな」

「そうです。あなたの本は、私のものになっていた。10年前から」

武志は、そこで黙った。

「……読んでほしいんだが」

「はい」

「まだ途中だけど。……最初の章だけ、よかったら」

武志は、封筒に入れてきた原稿の束を、テーブルの上に置いた。

紗良はそれを受け取り、表紙を眺めた。「月灯りふんわり落ちてくる夜は」。手書きの文字が、便箋の時と同じ筆跡で書かれている。

「読んでいいですか。今ここで」

「……見ていても構わない」

武志はカップを持ち、窓の外を向いた。

紗良はページを開いた。最初の一行を読んだ瞬間、彼女の手が止まった。次の一行で、唇がかすかに動いた。三行目で、目が細くなった。

武志はそっと横目で彼女を見た。

紗良は読んでいた。ただ読んでいた。ページをめくる指が、少し急いでいた。読む目が、少し熱を帯びていた。

15分後、紗良は最後のページを閉じた。

武志は緊張で、カップを持つ手が震えていた。

「……どうだった」

紗良はしばらく答えなかった。武志が不安になりかけた頃、彼女はゆっくりと顔を上げた。

その目は、少し赤かった。

「続きが、読みたいです」

それだけだった。それ以上の言葉は要らなかった。武志は、深い息を吐いた。

「……書く。絶対に書き上げる」

紗良は微笑んだ。

「待っています」


第14話:告白は雨の中で

梅雨前線が沖縄を包み込んだ、ある夜のこと。

純空堂の閉店後、紗良は傘を持たずに出てきてしまった。空を見上げると、分厚い雲が月を隠し、雨が今にも落ちてきそうだった。

「……今日は来ないかな」

紗良は独り言を呟いた。水曜日は、武志が来ることが多かった。しかし工房の仕事が長引いている日は来られないこともある。

連絡先は交換したものの、武志から自分に送られてきたメッセージは、まだ一度もない。それが、今の2人の微妙な距離だった。

書店の軒先で少し雨宿りをしようと思った時、書店の角を曲がってくる人影があった。

猫背の背中。作業着。

武志だった。

「……来てたのか」

「今来たところです」

2人は書店の軒先に並んで立った。雨が落ち始め、アスファルトを黒く濡らしていく。

「傘、ないのか」

「忘れてきました」

武志は自分の折り畳み傘を見て、少し困ったような顔をした。1本しかない。

「……一緒に入るか? 狭いが」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない。濡れる」

武志が傘を開いた。紗良の横に並んで、それを差し出した。必然的に、2人の距離が縮まった。武志の肩と紗良の肩が、かすかに触れた。

「……ありがとうございます」

「どこまで帰る?」

「泉崎です。歩いて15分くらい」

「同じ方向だ。送っていく」

2人は並んで歩き出した。雨の那覇は静かだった。観光客も引いて、国際通りの灯りが雨粒に滲んで揺れている。

しばらく、言葉がなかった。

雨音と、2人の足音だけが続いた。

「武志さん」

紗良が口を開いた。

「……うん」

「聞いてもいいですか?」

「何を」

「あなたは……私のことを、どう思っていますか?」

武志の足が、一瞬止まりかけた。

「それは……」

武志は、一度だけ言葉を止めた。

雨が少し強くなった。傘に落ちる雨音が高まる。街灯の光が雨粒に滲んで揺れた。

「……聞かなかったことにしてくれ」

「え?」

「俺みたいな男が、君に気持ちを伝えていい立場にあるとは、思えなくて」

紗良は傘の陰で、武志の横顔を見た。猫背の肩が、いつもより小さく見えた。

「立場なんて……」

紗良は、少しの間、黙って雨音を聞いていた。

それから、静かに口を開いた。

「私が聞いたのは、あなたが今どんな立場にいるかじゃないです。……あなたが、私のことをどう思っているか、です」

武志の足が、止まった。

雨音だけが続いた。

「……好きだ」

武志は、前を向いたまま言った。

紗良の足が止まった。

武志も止まった。傘を差したまま、振り返った。

「10年前に書いた本を守ってくれた人で、あの夜、俺に向かって真っ直ぐに怒ってくれた人で、喫茶店に忘れてきたPOPが、俺の心をつなぎ止めた。……そういう人を、好きにならずにいられるか」

紗良は傘の陰で、武志を見つめた。

「俺は、売れない元作家の工房のバイトだ。定職もない。あなたに相応しいかどうかは、分からない」

「そんなこと」

「でも、書き続ける。書き上げる。それだけは、約束できる。……だから」

「武志さん」

「……うん」

「私も、好きです」

雨の中に、静寂が落ちた。

武志はしばらく黙っていた。それから、傘を持ち直して、紗良の隣に戻ってきた。今度は少し近い距離で、傘を一緒に持つような形で、並んで歩き始めた。

「……ありがとう」

武志が、静かに言った。

「何がですか」

「すべてに」

それ以上の言葉は、2人とも探さなかった。

雨の泉崎を、2人は傘1本で歩いた。ガジュマルの根元に溜まった雨水が、街灯に光って輝いていた。


第15話:あの塩パンの話

「ところで」

紗良が笑いながら口を開いた。泉崎のアパートの前まで来たところだった。

「前に言っていた塩パンの話、聞かせましょうか?」

武志は不思議そうな顔をした。

「塩パンって」

「坂の途中にある、カナサっていうパン屋さん。知ってますか?」

武志は一瞬、固まった。

「……知っている」

「私がよく行く店なんです。あそこの塩パンが大好きで。……ある日、最後の1つを買ったんです。仕事でひどいことがあった日に」

武志は、そっと目を細めた。

「それで?」

「坂で誰かとすれ違った気がして。でもあんまり顔も覚えていなくて」

武志は、雨傘を握る手に少し力を入れた。

「……俺だったかもしれない」

「え?」

「あの日、俺もカナサに行ったんだ。塩パンを買いに。でも最後の1つが、すでに売れた後だった」

紗良は、目を丸くした。

「あの時の……」

「坂で自転車の人とすれ違った気がした。前かごに紙袋があった」

「それ、私です」

2人は顔を見合わせた。それから同時に、笑った。あの日の、何も知らなかったすれ違いが、今になって光を当てられて輝き出した。

「じゃあ、今度、一緒に行きましょう」

紗良が言った。

「塩パン、2つ買えるように。……今度こそ」

武志は頷いた。

「ああ、行こう」

雨は少し弱まっていた。泉崎のアパートの窓に、橙色の光が灯っている。

「おやすみなさい、武志さん」

「……おやすみ、紗良さん」

武志は傘を差したまま、来た道を戻っていった。紗良はアパートの入り口から、その背中が夜の雨の中に消えていくまで、見送った。

猫背が少しだけ、伸びていた気がした。


第16話:月灯り、ふたたび

原稿が完成したのは、出会いからちょうど2ヶ月後のことだった。

武志はその夜、最後のページを書き終えた後、しばらく万年筆を置いたまま動けなかった。窓の外を眺めると、久しぶりに大きな月が出ていた。

あの夜と同じ月だ。

武志は原稿の束を封筒に入れ、コートを羽織って外へ出た。

深夜の那覇は静かだった。ゆいレールの最終便はとっくに過ぎていて、街は静かに呼吸している。武志は泉崎へと向かって歩いた。急ぐつもりはなかった。ただ、この夜気の中で歩きたかった。

泉崎のアパートの前まで来た時、武志は足を止めた。

3階の窓に、まだ明かりがついていた。

(まだ起きているのか)

武志は少し迷ってから、スマートフォンを取り出した。

メッセージを送った。

「今、アパートの前にいる。迷惑だったらすぐ帰る」

既読がついたのは、ほぼ即座だった。

返信は一行。

「窓開けます」

3階の窓が開いた。紗良が身を乗り出してきた。

「……武志さん? 本当に前にいる」

「完成した」

「え?」

「原稿、書き終わった。……今夜は読んでくれるか」

紗良は一瞬だけ、あっけにとられたような顔をした。それから、顔をほころばせた。

「今すぐ下ります」

数分後、紗良がパジャマの上にカーディガンを羽織ってアパートの入り口から現れた。あの夜と同じ格好だった。

「どうぞ」と封筒を渡した。

紗良はそれを受け取り、抱きしめるように胸に押し当てた。

「今夜、読みます」

「……ゆっくりでいい」

「でも一晩で読む」

武志は苦笑した。

「無理するな」

「無理じゃないです。あなたの物語を読む時間に、眠れなくなるのは分かっています。10年前からそうでした」

武志はその言葉に、胸が詰まった。

空を見上げると、月が那覇の街を白く照らしていた。あの夜のように、雪のように、ふんわりと。

「紗良さん」

「はい」

「次の本も、最初の読者になってくれるか?」

紗良は驚き、それから静かに笑った。

「次も、その次も」

「……ありがとう」

武志はそれ以上言葉を継ぎ足さなかった。紗良も、余計なことは言わなかった。

月灯りの中で、2人はしばらく並んで立っていた。那覇の夜が、ふんわりと2人を包んでいた。


第17話:塩パンと、これからのこと

翌朝。

紗良は徹夜で原稿を読み終えた。最後のページを閉じた時、窓の外はもう明るくなっていた。

原稿の最後のページには、こう書いてあった。

月灯りが降る夜に、彼女はその手を差し伸べてくれた。 俺は十年、言葉を信じられなくなっていた。 けれど彼女の言葉が、俺の言葉を信じてくれた。 だから俺は、また書く。 彼女のために書くのではなく、彼女と共にある言葉を書く。 それで十分だと、今は思っている。

紗良は原稿を胸に当てたまま、しばらく泣いた。声を出さずに。ただ、涙だけが出た。

それから顔を洗って、着替えて、武志にメッセージを送った。

「読み終わりました。すごく良かったです。今日のお昼、カナサに行きませんか?」

返信はすぐに来た。

「行く」


坂の途中のパン屋「カナサ」は、今日も昼過ぎの陽射しを柔らかく受けていた。

武志が先に着いていた。店の前で、作業着ではなく、少しだけきれいな格好をして立っていた。

「……待った?」

「少しだけ」

「ごめんなさい」

「いい」

2人で店に入った。ガラスのショーケースには、今日も塩パンが何個か並んでいた。今度は余裕がある。紗良が2つ取って、武志が払おうとして、紗良も払おうとして、少しだけもめて、結局割り勘になった。

店の前のベンチに並んで座って、2人は塩パンを食べた。

「おいしい」

武志が言った。

「でしょう?」

「こんなにおいしいものを持っていかれたのか」

「え?」

「あの夜、坂道で」

紗良は笑った。

「あの時のこと、根に持ってますか?」

「……少し」

「じゃあ今日はもう一個買いますか」

「いい。これで十分だ」

武志はもう一口、塩パンを食べた。

「原稿、ちゃんと読んだか?」

「全部。一晩で」

「感想は」

「さっきメッセージで送りました」

「あれだけか?『すごく良かったです』の5文字だけか?」

「ちゃんと話します。でも今は、食べながらでいいですか?」

「……ああ」

2人はベンチで、塩パンを食べながら、ゆっくりと話した。

原稿のこと。物語の中の、どの一節が好きだったか。どこで涙が出たか。どこで声が出そうになったか。紗良は正直に、全部話した。武志は時々うなずき、時々苦笑いし、時々黙って空を見上げた。

泉崎の坂の上から、遠く海が見えた。初夏の空は高く、青く、那覇の光を映して輝いている。

「武志さん」

「うん」

「親方には、話しましたか?」

武志は少し考えてから、言った。

「まだだ。でも近いうちに、話す。……正社員の誘いは、ありがたく断る」

「書き続けるんですね」

「ああ。……怖いけど」

「怖くてもいいんじゃあないですか?」

紗良は、空を見上げながら言った。

「怖い方がいいです。怖くなくなったら、大事なものを守らなくていいってことだから」

武志は、隣の紗良を見た。

横顔が、陽射しを浴びて輝いていた。

「……頭いいな」

「6年間、本の中で生きてきたんで」

武志は笑った。紗良も笑った。

2人は、塩パンを食べ終えた後も、しばらくベンチに座っていた。坂の下を走るゆいレールの音が聞こえてくる。観光客の話し声が、夏の風に乗って届く。

普通の、那覇の昼下がり。

特別なことは、何もない。

ただ、隣に人がいる。それだけで、景色の色が少し違って見える。

紗良は、そっと武志の隣に寄った。武志は気がついて、少しだけ肩の力を抜いた。

那覇の空の下で、2人の時間が静かに重なっていく。

月灯りは夜だけ降るのではない。

陽の光の下でも、それは確かにそこにある。ふんわりと、重力を忘れた羽毛のように、二人を包んでいた。


第18話:親方への言葉

原稿が完成した翌日、武志は壺屋の工房へ向かった。

 いつもより少しだけ早い時間に着いた工房では、金城親方がすでに轆轤の前に座っていた。シュルシュルという単調な音が、土の匂いに混ざって漂っている。

「武志。今日は早いな」

「……少し、話があります」

 轆轤の回転が、ゆっくりと止まった。金城は手についた泥をタオルで拭いながら、武志を見上げた。

「書き上げました。小説を」

 しばらく、沈黙があった。

「……そうか」

「原稿を、出版社に送ろうと思います。受け取ってもらえるかどうかは、分かりません。でも、書き上げた。それだけは確かです」

「正社員の話は」

「ありがたく、お断りします。……申し訳ありません」

 金城はしばらく何も言わなかった。武志は、親方の返事を待ちながら、自分の手のひらを見つめた。土が染み込んだ指先。この指で書き上げた原稿が、今は紗良の手の中にある。

「武志」

 金城が、低い声で呼んだ。

「はい」

「お前がうちに来た時、俺はお前の目を見て、ただの物書き崩れだと思った。食えない夢を引きずって、現実から逃げてきた男だと」

「……」

「だが3年見てきて、分かった。お前は逃げてきたんじゃない。答えを探してきたんだ。土をこねながら、ずっと」

 武志は顔を上げた。金城の目に、苦みと温かさが混じっていた。

「書き上げたなら、それでいい。だが工房の仕事は、書き上がるまでの間も、お前がちゃんとやり切った。それは俺が一番よく知っている」

「……ありがとうございます」

「感謝はいらん。ただ……」

 金城は轆轤に向き直しながら、ぼそりと言った。

「本になったら、1冊持ってこい。嫁さんに読ませてやる」

 武志は、深く頭を下げた。

 工房を出ると、壺屋の石畳に夕陽が斜めに差し込んでいた。武志はその光の中に一歩踏み出し、ゆっくりと深呼吸をした。土の匂いと、どこか遠くの潮の匂いが、混ざり合って鼻の奥をくすぐった。


エピローグ:銀色の猫、再び

その夜。

武志はアパートに帰ると机の前に座った。

白いノートを開いた。真っ白なページ。

次の物語の始まりを、どこから書けばいいか。まだ分からない。けれど今は、それでいいと思えた。

窓の外を見ると、月が出ていた。今夜の月は、それほど大きくはない。でも確かに、那覇の夜を静かに照らしている。

ふと、窓辺に気配がした。

あの銀色の猫が、窓の桟に座っていた。

「ミー」

一声だけ鳴いて、猫は武志を見た。その目は金色に輝いていて、まるでものを言いたそうだった。

武志は笑った。

「ありがとうな」

猫は特に反応せず、ただ尻尾を1度だけゆっくりと振った。それから、窓の桟から飛び降りて、月灯りの中に消えた。

封筒は、昨日、出版社へ送り出した。受け取ってもらえるかどうかは、まだ分からない。それでも、怖くはなかった。

武志はノートに向かった。

ペンを取り、最初の一行を書いた。

那覇の夜に、ある女が窓を開けた。

止まらなかった。

物語は、また動き出していた。



本作に登場する「月灯りふんわり落ちてくる夜」は、アニメ『クレヨンしんちゃん』のエンディング曲として、小川七生さんが歌い、RYUZIさんが作詞・作曲・編曲した名曲です。その温かく幻想的な世界観へのオマージュとして、この物語を書きました。

byボニさん


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