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”創作大賞2026応募作品”「月に願いを」ボニさんのPocketBook【月がテーマの恋愛小説3部作第3弾】

月に願いを


著:ボニさん

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

あらすじ

沖縄・宜野湾に暮らす高校生の東風平 紬は、7歳の発表会での失敗から自分の笑顔に自信が持てず、教室の「背景」のように生きていた。梅雨明けのある夜、夜の海岸で偶然、東京から転校してきた宇佐美翔と出会う。翔は毎夜そこで天体望遠鏡を覗いていた。2人は言葉少なに月や音楽を共有しながら、少しずつ心の距離を縮めていく。文化祭の日、翔に思いを寄せる陽菜の告白を断った翔は、雨の中を走って紬を探しに来る。「太陽は眩しすぎて直視できない。でも、月はずっと見ていられる」——翔の言葉に、紬はようやく自分の在り方を受け入れ、泣きながら「好き」と伝えた。




Prologue:笑い方を忘れた朝

洗面台の鏡の中に、自分がいる

紬は毎朝ここで、同じことをする

誰も見ていないのに、笑ってみる

口角を上げる
頬の筋肉に力を入れる
目を少し細める

やっぱり、おかしい

どこかが足りないのか、どこかが多いのか、自分ではわからない
ただ、鏡の中の顔は毎回、笑おうとして笑えていない何かになる

7歳のときの写真が、頭の中に浮かぶ

紬はため息をついて、顔を洗った
笑顔のことを考えるのをやめた
どうせ今日も、うまく笑えない
それだけのことだ

制服のリボンを少しだけゆるめて、イヤホンを耳に入れた

霞んだギターの音が流れ始めた

さあ、行こう
今日も、背景として


🎧 Track 01:背景になりたいわけじゃない

梅雨明けの宣言は、毎年たいていラジオで知る

アナウンサーの弾んだ声と、スタジオの誰かが無理に盛り上げる笑い声が流れてきた瞬間、東風平 紬(こちんだ つむぎ)はイヤホンの音量を2目盛り上げた
耳の中に流れ込んできたのは、ぼやけたギターのノイズに乗って、誰かがか細く歌う英語の声だった
歌詞の意味はよくわからなかった
でも、その不明瞭さがちょうどよかった
世界に蓋をするのに、言葉がはっきり聞こえるよりも、霞の中をただ漂っている感じのほうが、紬には合っていた

7月の宜野湾は、大気ごと湿っていた

日差しは刃のように鋭く、コンクリートの路面がじりじりと照り返す
セミが鳴いている
街路樹のガジュマルが、重い葉を汗ばんだように揺らしていた
フクギの並木の向こうに、息苦しいほど青い空が広がって、その下を地元の軽トラックがゆっくりと走り抜けていく
自転車のサドルは座るたびにじんわりと熱く、ペダルを踏み込むたびに太ももの裏側が蒸れていく
紬はいつものように、朝から制服のリボンを少しだけゆるめて、白い靴下をくるぶしのあたりまで折り下げた状態で、宜野湾高校への坂道を自転車で上っていた

「つむぎー! 待ってよ、もう!」

後ろから声がした。振り返ると、大城 結(おおしろ ゆい)が赤ら顔で自転車を漕ぎながら猛烈な勢いで追いかけてくる
前カゴには透明なビニール袋に入ったサーターアンダギーが詰め込まれていて、坂道を上るたびにぼこぼこと揺れていた
大きく丸い揚げ菓子が10個以上はある
これを毎朝持ってくるのかと思うと、紬はいつも少し呆れる

「また買ったの、それ?」

「近所のおばあが持ってきてくれるんだって! 断れないじゃんね。ほら、一個食べる?」

結は自転車を漕ぎながら片手でビニール袋を差し出した
その体幹の強さに毎度感心しながら、紬はサーターアンダギーをひとつ受け取って、そのまま口にした
外はサクサクで、中はもっちり甘い
宜野湾の朝の味だ

結は紬の隣に自転車を並べ、額の汗をTシャツの袖でぐいっと拭った
日焼けした丸い頬に、元気いっぱいの笑顔が咲いている
どんな朝でも、この子の笑顔の電池は切れない
中学1年のときから、もう5年間の付き合いだ
結はずっとこうだった
声が大きくて、よく笑って、よく食べて、よく泣いた
誰かが傷ついていたらすぐ気づいて、黙っていられなくなって、大声で怒り出す
流行りのアジアンポップスを全力で口ずさみながら、ご機嫌で登校してくる日常が、紬にとっては当たり前の朝の一部になっていた
紬が心を開いている人間なんて、世界中を探してもこの子しかいない
それが良くもあり、たまに息苦しくもあった

「陽菜ちゃん、今日も可愛かったね」

サーターアンダギーを2個目に手を伸ばしながら、結が唐突に言った

「見てたの……?」

「校門のとこで、翔くんと話してたじゃん!いや、話しかけてたのは陽菜ちゃんだけだったけど…… 翔くんはなんか、空を見てたっていうか、どこか遠いとこ見てたっていうか」

翔くん、宇佐美 翔(うさみ しょう)今年の5月の連休明けに東京から転入してきた男子だ
紬のクラスに来た彼のことを、クラス中の女子が注目したのは、別に顔が飛び抜けて整っているわけでもなく、スポーツが得意なわけでもなく―ただ、誰に対しても等しく無関心な目をしているからだと思う
媚びない
目立とうとしない
愛想笑いをしない
でも、どこか目が離せない
そういう引力みたいなものを持っている人間が、ときどきいる。

「陽菜さんって、声もきれいだよね」

紬は呟いた

「何それ、話ずらさないでよ、陽菜ちゃんが翔くんに話しかけてたこと、気になってないの?」

「ずらしてない、ただ声がきれいだと思った、よく通るし」

「そんなこと言ってる場合じゃなくて—」

「ずらしてない、って言ってる」

紬は正面を向き直し、ペダルに力を込めた
左手の木々の間から、チラリと海が見えた
夏の海は青すぎて、紬にはいつも少し眩しかった

城間陽菜(しろま ひな)のことは、嫌いではなかった
正確に言えば、嫌いになれなかった

彼女はスクールカーストの頂点、という言葉がよく使われるが、紬が思うに、陽菜はそういう序列とは少し違う場所にいた
彼女の周りに人が集まるのは、彼女が権力を持っているからではなく、
ただそこにいるだけで場が明るくなる種類の人間だからだ
笑うと目が細くなって、まつ毛が長くて、声がよく通る
隣にいると、自分まで楽しくなってくる錯覚がある
文化祭の準備でも修学旅行の班決めでも、陽菜が仕切り始めると誰も文句を言わない
なぜかといえば、彼女が誰かを排除する方向で動かないからだ
全員を巻き込んで、全員を楽しくさせようとする
そういう人間が、好きな男の子に真っ直ぐ突進していく

誰が止められるというのか

「紬は?」

結が言った

「は?」

「翔くんのこと。気になってるんでしょ?」

「なんともない」

「嘘だあ~」

「なんともないって」

結はしばらく黙って、それから「まあいっか」と言った
そのあっさりした言い方が、なぜか余計に胸に刺さった

教室に入ると、窓際の席から翔が外を見ていた

彼はいつもああしていた
授業中も、休み時間も、視線がどこか遠くにある
手元にノートを広げていても、シャーペンがしばらく止まっている
先生に指名されると必ず答えられるから、サボっているわけではないのだが、常にどこか別の場所に意識の一部を置いているような人間だった
東京での何かが、まだ彼の視界に影を落としているのかもしれない
紬にはわからなかった
ただ、あの目が好きだった、と正直に言えばそうなる
人の顔色を読もうとしていない目
何かを演じようとしていない目
笑おうとしていない目

紬は自分の席に鞄を置いて、ゆっくりと椅子に座った
椅子に座ると、机の中から薄いスケッチブックを出した
授業前の数分、紬はいつもここに何かを描く
今日は窓の外のガジュマルの木を、細い鉛筆でさらさらと輪郭だけなぞった
うまくなりたいわけじゃない
ただ、手を動かしていると、頭の中が少し静かになるから

自分の席は廊下側の中ほど
窓際でも1番後ろでもない、教室の中で最も目立たない場所だと思っている
見えないわけじゃない
でも、誰も特別に見ようとはしない
そういう場所。それが居心地悪いわけでもなかったが、自分で選んだ場所でもなかった
気づいたらそこにいた、というだけだ


7歳のとき、合唱の発表会で自分だけ間違って大声で笑ってしまったことがある

伴奏の先生が鍵盤を弾き間違えた
小さな音のズレだった
誰も気にしないようなものだった
でも、紬はそれを聞いた瞬間、なぜかおかしくなってしまって、笑い声が出た。観客の前で、伴奏が止まり、全員の視線が自分に向いた
あのとき頬に浮かんだ笑いは、嬉しいとか楽しいとかじゃなかった
ただ、怖くて、恥ずかしくて、でも泣くわけにもいかなくて、そういうのが全部混ざって外に出てしまったものだった

あの顔を写真に撮られていた
クラスのアルバムに残った

自分で見ると、本当に変な顔だった
目が少し泳いでいて、口角が左右非対称に上がっていて、頬の筋肉が引きつっていた
嬉しそうでも、楽しそうでもない
ただ何かに耐えながら歯を見せている、みたいな顔だった

それ以来、自分の笑顔が怖い

鏡の前で笑うと、どこかおかしい気がする
不自然な気がする
うまく笑えない
だから笑おうとすると余計に力が入って、余計に変になる
それが恥ずかしくて、笑うときはいつも少し引っ込んでしまう
唇の端だけを少し持ち上げて、目は笑わないようにして、顔の筋肉を最小限しか動かさない
そうすると、傍から見ると「クールな子」か「表情の乏しい子」になる

どちらでもなかった
ただ、怖かっただけだった

世界の背景でいるのは、望んでそうなったわけじゃない

いつの間にかそうなっていたのだ

その日の放課後、紬は結と一緒に寄り道もせずに帰った
結が近所のコンビニでアイスを買って、2人で食べながらしばらく歩いた
塩アイスが溶けて、手のひらを伝った
結が「やば、べたべたになった」と笑った
紬も小さく笑った

「最近、どっか遠い顔してるね、紬」

アイスの棒を持ったまま、結が言った

「そう?」

「なんか、ぼんやりしてる。考え事?」

「別に、特には」

「また『別に』か、口癖だよそれ」

紬はアイスの最後の一口を食べて、棒をコンビニのゴミ箱に投げ入れた
入らなかった
拾って入れた

「……結は、自分の笑顔、好き?」

突然の問いに、結が目を丸くした

「え、なに急に?」

「なんとなく聞きたかっただけ」

「好きだよ、別に嫌いじゃない、なんで?」

「じゃあよかった」

「なんでよかったの? 紬は嫌いなの、自分の笑顔」

紬は少し黙った
答えたくなかった
でも、結には言ってもいいか、という気持ちも少しあった

「……変じゃん、私の笑顔。自分で見てもそう思う」

「全然変じゃないって」

「変だよ、不自然だよ、うまく笑えてる気がしない」

「何それ」と結は言った
「紬の顔、笑うと可愛いと思うんだけど」

「可愛くないよ」

「可愛いって。なんかふわっとするっていうか、こっちまでほっとするっていうか」

紬はその言葉を、うまく受け取れなかった
お世辞だと思った
結は優しいから、そういうことを言う
でも、7歳の発表会で撮られたあの写真が頭に浮かんだら、どうしても信じられなかった

「ありがとう」だけ言って、紬は話を終わりにした

その夜、紬は叔母の家に使いに行かされた

お盆の飾り用に供えるものを届けるためで、夜七時を過ぎた宜野湾の路地を、紬は提灯型のランタンを片手に自転車で走った
路地には夕飯の匂いが漂っていた
チャンプルーの油の香りと、どこかの家のテレビの音と、誰かが軒先で水を撒く音が混ざっていた

用事を終えて帰り道、大謝名の方向へ出た場所に、砂浜へと続く細い道があった
舗装されていない砂利混じりの細道だ
ここは地元の人間しか知らない、静かな浜だ
観光客はほとんど来ない
街灯が少なく空が広い
夜になるとガジュマルの影が道に落ちて、少し不気味にも見える

子どものころから、何かあると海岸へ行く癖があった
理由はうまく説明できない
ただ、海の前に立つと、自分が背景になってもいいような気がして、 少しだけ楽になれた

何となく吸い寄せられるように、紬は自転車を降りて砂浜に入った

潮の匂いがした
波の音がした
風が、汗をかいた首筋を冷やした
宜野湾の夜の海は、昼とは全然違う顔をしていた
昼間の眩しさがなく、激しさがなく、ただ静かに黒い水面がゆらいでいる遠くに灯りが見える
船かもしれない
それとも離島の光かもしれない
こうして夜の海岸に一人でいると、世界が少し遠くなる感じがする
それが紬は嫌いじゃなかった

そのとき、砂浜の端に三脚が立っていた

三脚?

よく見ると、黒い細長い筒がその上に乗っている
望遠鏡だった
古い型の、金属製の天体望遠鏡
鏡筒がつやのない黒で塗られていて、接眼レンズのあたりに傷がいくつかある
長年使われてきたものだとわかった
そして、その後ろにしゃがんでいる人影があった

白いTシャツ
ボサボサの黒髪

「……翔、くん?」

思わず声に出てしまった

人影がぎょっとしてこちらを向いた
暗い中でも、それが宇佐美翔だとわかった
目が合った
沈黙が落ちた
波の音だけが続いていた

「……なんでここにいるの?」

翔が言った
驚きと、微妙な不機嫌が混じった声だった

「私の台詞」と紬は言った
「叔母さんへの使いの帰りに、ちょっと寄っただけ、あなたこそ、こんな夜中に何してんの」

「星を見てる」

「見ればわかるけど」

「じゃあ聞くな」

返ってきた答えがあまりに短くて、紬は少し笑いそうになった
笑いそうになったことに気づいて、顔が引きつった
でも、それを見ている人間は翔しかいなくて、翔はもう望遠鏡の方を向いていた

「……邪魔したね」紬が踵を返しかけると

「月、見るか」低い声が後ろからした

振り返ると、翔が望遠鏡から顔を上げて、こちらを見ていた
不機嫌でもなく、愛想がいいわけでもなく、ただ無感情に近い目で
でも、追い返そうとしているわけでもなかった

「……見ていいの」

「どうせ誰も来ない、せっかくいいところに月が出てるし」

紬は少し迷ってから、自転車をその場に寝かせ、砂浜を歩いた
砂がサンダルに入ってきた
翔の隣に立つと、潮の匂いに混じって、かすかに石鹸の匂いがした

「ここを覗く、目をこの位置に合わせて」

翔が望遠鏡の接眼レンズを指した
紬は言われるままにしゃがんで覗き込んだ

視界が、月に満たされた

白く輝く丸い天体が、驚くほどはっきりと見えた
教科書の写真とは全然違った
もっとリアルで、もっと立体的だった
表面の凸凹まで見えた
クレーターの影が、やわらかい陰影を作っていた
縁の方は少し欠けていて、光の当たり方で山のシルエットが浮かんで見えた

「……すごい」
思わず言葉が出た

「でしょ」
翔が、ほんの少し、声のトーンを緩めた

「こいつ、自分じゃ光れないんだけどな」
独り言みたいに翔が呟いた

「え?」

「なんでもない」
それが翔との、最初の会話だった

紬は少しの間、月を覗き続けた
世界の中で今この瞬間、こんなにも月を大きく見ているのは自分だけかもしれない、と思った
それがなぜか少しうれしかった

「あの、クレーターが多いところは?」

「南方高地、月面の南側に広がる古い地形のエリア、 太古の隕石衝突の痕跡が集中している場所だよ」

「隕石が落ちて、あのぼこぼこができたの?」

「そう。今から38億年くらい前の話」

「38億年!?」

「長い話だよ」

翔は少しだけ、表情が動いた
紬は接眼レンズから目を離して、翔を見た
翔は月を肉眼で見上げていた
その横顔は教室で外を見ているときの顔と同じだったが、どこか別のものが加わっている気がした

「翔くんって、なんで望遠鏡持ってるの?」

「東京から持ってきた、叔父の家に送っておいた」

「重くなかった?」

「これがないと夜に何もすることがないから」

紬はその答えを、少し考えた
夜に何もすることがないから
それだけの理由で重い望遠鏡を沖縄まで送る人間がいるとは、普通は思わない
でも、それが翔らしいと思った

「毎日ここに来てるの?」

「雨の日以外はだいたい」

「1人で?」

「1人で」

「どうやってここ知ったの、地元でも知らない人が多い場所なのに」
「おじさんに最初の週に連れてきてもらった、静かだからここがいいって」

そうか、と紬は言おうとして、やめた
代わりに砂浜に腰を下ろした。翔は特に何も言わなかった
2人はしばらく、並んで月を見ていた
波の音が続いていた

「私、帰るね」

しばらくして紬が言った

「そう」

「……また来ていい?」

翔が紬を見た
表情は変わらなかった

「俺は毎日ここにいる、来たければ来ればいい」

それが許可なのか無関心なのか、判断がつかなかった
紬は「じゃあ、また来る」と言った
翔は何も答えなかった
それが翔流の了解だと、なぜかわかった

自転車のところまで歩きながら、紬はふと翔の方を振り返った
「翔くんって、人の笑顔、見る?」
「見ない方が楽だから、あんまり見ない」
「なんで」
「作ってるかどうかがわかるから、作ってる笑顔は、なんか疲れる」

紬は少し黙った

「お前の笑顔は、作ってる感じがしない」と翔は言った
「……笑えてる気がしないだけだよ」
「笑えてるかどうかより、作ってないかどうかの方が、俺は気になる」
翔は望遠鏡の方へ戻っていった
紬はその言葉を、自転車を押しながら、しばらく転がしていた

帰る道、紬は1度だけ振り返った

翔が望遠鏡を覗いていた 1人で、夜の海岸に立って、月を見ていた
その後ろ姿が、なぜかずっと頭から離れなかった

翔は接眼レンズに目を当てたまま、さっきまで隣にいた気配が消えたことに、気づいていた

消えた、とわかったのは、なぜだろう、と少しだけ思った

答えは出なかった 月が、変わらず、そこにあった


🎧 Track 02:ノイズキャンセリング・シーサイド

あの夜以来、翔は夜の海岸へ行く前に、少しだけ気にするようになったことがある

砂浜の入り口に自転車が停まっているかどうか

紬が来ていると、古い型の自転車が道端に立てかけてある
来ていないと何もない
砂利道の端に自転車があるかないかで、翔の夜の気分が変わり始めたのがいつ頃からかは、はっきりとは言えない
ただ確かなのは、最初は「来ていれば面倒だな」と思っていたのに、いつの間にか「来ていなければ何かが足りない」と感じるようになっていた、ということだ

それに気づいたとき、翔は少しだけ自分に驚いた

「またいる」

砂浜に出ると、紬は波打ち際のギリギリのところに座っていた
サンダルを脱いで、足先を砂に埋めて、イヤホンをしながら夜空を見上げている
紬は翔の足音に気づくと、右耳のイヤホンをスッと外した
翔は三脚と望遠鏡を抱えたまま、紬の2メートルほど横に無言で腰を下ろした。それが自然と2人のルールになっていた

挨拶もない、近況報告もない、何かを話さなければいけない、という義務がここにはなかった

紬は音楽を聴いていて、翔は星を観ていて、並んでいるだけで、それ以上でも以下でもない
でもそれが、東京にいた頃には絶対に手に入らなかった種類の「静けさ」だと、翔は思っていた

東京での日々は、常に音が多かった

塾の先生の声、親の期待を込めた言葉、友人たちの成績の話、模試の結果、学校のランキング表、廊下に貼り出された偏差値の一覧、進路相談室で担任が繰り返す「お前なら行けるはずだ」という励ましは、激励よりも脅迫に近かった
頭脳優秀だと思われていた
実際、成績は良かった
小学校の頃から飛び抜けて理解が速かったし、記憶力もよかった
でも、それが重かった

優秀でいることをやめると、誰も翔のことを見なくなる気がした

成績が全てだった、試験の点数が自分の価値だった
友人関係でさえ、どこか「同じ偏差値帯の人間同士」という共通認識の上に成り立っていて、そこから外れた瞬間に何かが壊れるような気がして、翔はずっと成績を落とさないように走り続けた
でも、走り続けるうちに、どこに向かっているのかわからなくなった
ゴールがどこなのか、誰も教えてくれなかった
いい大学、その先は、その先は、と聞いても、みんな言葉を濁した

3月のある夜、翔は塾から帰る途中で、横断歩道の前で止まった

青になっても、動けなかった

足が動かなかった
頭の中が、ホワイトアウトしたみたいに真っ白になった
周りの人間が横断歩道を渡って、次の信号が赤になって、また青になって、また人が渡って、翔だけがそこに立っていた

気づいたときには、信号が何度変わったかわからなかった

その夜、母親に「沖縄に行く」と言った
逃げるなら、母の兄である宮城 誠(みやぎ まこと)のいる
沖縄だと、それだけはなぜかはっきりしていた

すぐには頷いてもらえなかった
それでも翔は、3月の試験だけは最後まで受けた
意地でも義務感でもなく、それが終われば出ていけると思ったからだ
連休が明けた5月、翔はようやく宜野湾高校の教室に入った

誠は宜野湾の商店街の一角に、小さな輸入雑貨とコーヒーの店を構えている
店の名前は「月光堂」という
大正ロマン風の古いランタンが軒先に吊るされていて、棚にはヨーロッパのアンティーク雑貨が並んでいて、奥のカウンターでは自家焙煎のコーヒーが出る
観光客より地元の常連が多い、地味で静かな店だ
誠は東京に出て来ず、宜野湾でずっとその店をやっている
親戚の集まりで会うと、いつものんびりしていた
焦っていなかった
何かに急かされていなかった

翔はその店の2階に間借りして、叔父の家に世話になることにした

「あっちはどうなった?」

最初の夜、誠は翔にそれだけ聞いた
余計なことは何も聞かなかった

「もう無理でした」

「そうか」

「怒ってないの?」

「別に」と誠は言った
少し考えてから、続けた
「逃げるのも勇気のうちだよ、本当に限界になってから逃げるより、少し早めに逃げた方がいい、傷が浅くて済む」

「逃げてる時点で、傷ついてると思うけど」

「それはそう」と誠はあっさり言った
「でも、浅い傷は治る。深い傷はなかなか治らない、早めに逃げてよかったんだよ、お前は」

翔はその言葉に、久しぶりに目の奥が熱くなった
泣かなかったが、泣きそうになったのは本当だ

誠の店の2階は、天井が低くて、床が軋んで、エアコンの効きが悪かった
でも、静かだった
東京のマンションでは聞こえなかった虫の声がした
夜になるとゴーヤーの這うフェンス越しに、月がよく見えた

翔が夜な夜な望遠鏡を持って海岸へ行くのを、誠は止めなかった
「気をつけろよ」とだけ言った

今、沖縄の夜の海岸で、翔は少しずつ呼吸の仕方を取り戻していた

「翔くん」

ある夜、紬が夜空を見上げたまま、少しだけ声を上げた

「ん?」

「月って、自分で光ってないって本当?」

「本当」と翔は言った
「あれは全部、太陽の光の反射、月自体は真っ暗だ、光源を持っていない」

「じゃあ、月ってうそつきってこと? 自分が輝いてるみたいに見えてるけど、実は全部もらいもので」

翔は少し考えた

「それは違う」と翔は言った

「反射してるだけだから、光を受けて、それを返してる、太陽が沈んで、地球が暗くなった側で、それでも光を必要としてる生き物がいる、そのために、月が反射して届けてる、もらいものでも、届けることに意味がある」

紬が黙った
翔は接眼レンズから目を離して、横顔を見た

紬はじっと月を見ていた
何かを考えているような、何も考えていないような顔で。唇が少しだけ開いていた

「ひとつ聴いてみてもいいか?」翔が言った

「何を?」

「その音楽」

紬がこちらを見た
普段より少し目が丸くなっている
翔は視線を逸らさずにいた
自分がなぜそう言ったのか、翔にも正確にはわからなかった
ただ、紬が毎晩イヤホンで聞いている音楽が、どんな音なのか気になっていた

しばらくして、紬は左のイヤホンをそっと外し、翔の方に向けて差し出した
翔はそれを受け取り、耳に入れた

静かなシューゲイザーが流れ込んできた
ギターの音が霞みがかっていて、重なり合うリバーブの中にボーカルが埋もれている
何を言っているのかよくわからない
でも、不思議と心地よかった
音のテクスチャーが、水の中にいるみたいに緻密で、細かくて、全身を包んでくる感じがした
夜の海の音と、この音楽が、どこかで繋がっていた

「好きだな、これ」

「……本当に?」

「本当に、こういうのを聴くんだ」

「インディーズのシューゲイザーとか、歌詞があんまりはっきり聞こえない方が好きで」

「なんで?」

「言葉がはっきり聞こえると、頭の中でそっちに引っ張られるから、音楽として漂ってる方が好き」

翔はしばらく音を聞いた
確かに、この音楽は「漂わせる」ための音だと思った
意味を取りに行かなくていい。ただ受け取るだけでいい

「俺のも聴いてみるか?」

翔は自分のスマホを取り出して、アンビエントのアルバムを開いた
イヤホンを片方貸して、再生した

紬が目を細めた
「何これ、音楽なの」

「アンビエント、環境音楽、意味とかメロディーとかより、空気みたいに存在してる音楽」

「眠くなる」

「それがいいんだよ」

「……なんかわかるかもしれない」

紬がまた黙った
今度の沈黙は、さっきより柔らかかった

2人は、1本のイヤホンを分け合いながら、波の音の中にいた
音楽と波音が混ざって、世界の余計な音が全部、 遠くなっていく気がした
学校の廊下も
教室の視線も
陽菜の笑い声も
何もかもが、ここでは届かなかった

翔は月を見た

紬も月を見た

さとうきび畑の方から風が吹いてきた
甘い匂いがした
潮と混ざって、独特の、宜野湾の夜の匂いになった

「共有プレイリスト、作るか」翔が言った

「え!?」

「お互いの好きな曲を入れていくやつ、聴いたことない音楽を知るのが好きだから」

紬は少し考えてから、「作る」と言った

翔がQRコードを生成して、紬のスマホにかざした
それだけで共有プレイリストができた 連絡先は交換しなかった
それでよかった
翔が選ぶ曲はアンビエント、古いブリティッシュロック、北欧のポストロック
紬が選ぶ曲は霞んだシューゲイザー、歌詞の鋭いJ-POP、ノイズとメロディーが混在するインディーズ
統一感はなかった。でも、そのチグハグさが、この海岸の夜に合っていた

翔はその夜、久しぶりに夜中の2時まで外にいた
翌朝、誠に「遅かったな」と言われた

「うん」

「誰かいた?」

翔は少し考えて、「クラスのやつ」とだけ答えた
誠は何も言わなかったが、薄く笑ったのを翔は見た


数日後、誠の店「月光堂」に、結が見慣れない客を連れて来た

東風平 紬だった

結が以前からたまに来ていたらしく、「友達連れてきたー」と言いながら店に入ってきた
紬は入り口のところで少し立ち止まり、棚のアンティーク雑貨を眺めてから、ゆっくり奥のカウンターに近づいてきた
棚には古いヨーロッパのブリキのおもちゃや、ポルトガルの陶器のコップ、スウェーデンの木のオーナメントが並んでいた
紬はそれを1つ1つ丁寧に見ていた
急がない
遠慮もしない
ただ、静かに見ていた

誠はその様子をカウンターの奥から眺めていた

翔の話は聞いていなかった
ただ、「クラスのやつ」という言葉と、この子が結と一緒に来たこと、それだけを頭の中でつなげていた

「翔の同じクラスなんだよ」と結が後で言って、誠は少し目を細めた

コーヒーを出しながら、誠はさりげなく言った

「あの子さ、最近よく笑うようになってきたんだよ」

「誰が」と結が聞いた

「翔が」

紬が顔を上げた

誠は紬を見て、続けた
「東京から来たときはずっとこういう顔してたんだよ」と言いながら、自分の顔を能面のように無表情にしてみせた

結がぷっと吹き出した

「でも最近、朝飯食うときとか、買い物から帰ってきたときとか、 ちょっと顔が柔らかくなってきてさ、俺、ほっとしてるんだよね」
「それに、最近夜が遅いんだよね、帰ってきたときに少し声をかけたら、 海岸で誰かと話してるって、ぼそっと言ってた」

「誰かって!?」と結が身を乗り出した

「さあ、俺にもよくわからん」と誠はとぼけた顔で コーヒーをもう一杯注いだ

「それって、もしかして」と結が紬を見た

紬はコーヒーカップを両手で持ったまま、何も言わなかった

でも、耳の先が少し赤くなっているのを、誠はちゃんと見ていた

夜の浜辺で、翔と紬の共有プレイリストは、少しずつ増えていった

ある夜、翔は珍しく先に話し始めた

紬が隣に腰を下ろして、イヤホンを耳に入れてすぐのことだった

「東京のこと、聞くか」

紬がイヤホンを片耳外した
「聞いていいの」

「聞いても聞かなくてもどっちでもいい、でも、なんか、話したい気分だった」

それきり少し黙って、翔は望遠鏡から目を離さずに話した
目を合わせないで話した方が、うまく言葉が出る気がした

「俺、向こうで進学校にいたんだけど、成績が全てみたいな場所で、俺はそれなりに上位にいたから、みんなから頭がいいって言われてたんだけど、それが本当に重かった」

「重かった?」

「期待される重さ、その期待に応え続けないといけない重さ、成績が少し落ちると親の顔が曇って、担任が心配して、塾の先生が声をかけてくる、俺自身のことを見てるんじゃなくて、俺の成績を見てる、そういう視線が、ずっと続いてた」

紬は黙って聞いていた
波が来た
引いた

「1番しんどかったのは、その重さじゃなくて、自分が何のために走ってるかわからなくなったことで、いい大学に行けって言われるけど、行ったらどうなるのかを誰も言わなくて、目的地がないまま、ただ速く走ることだけを求められて」

「……なんで言えなかったの、しんどいって」

「失望させるのが怖くて、親も、先生も、みんなが俺に期待してたから」

波の音が、2人のあいだを流れた

「それで、ここに来たの?」

「逃げてきた」と翔は言った
「かっこいいもんじゃない」

「かっこいいと思う」と紬は言った

翔が接眼レンズから目を離して、紬を見た

「逃げることができる人の方が、私はすごいと思う、逃げるって、選択肢があると知ってることが、まずすごい、私は逃げ方を知らなかったから、気づいたら動けなくなってた」

「動けなくなった?」

「笑えなくなった、みたいな感じで」紬は少し笑った
変な笑い方をしたと自分でわかった
「なんかうまく言えないけど」

翔は少し考えて、言った
「俺は逃げた先に誠がいたから、うまくいった」

「誠さんって、月光堂の?」

「ああいう大人が1人いると、全然違う」

紬は月を見た。翔も月を見た

「月のクレーターって、全部隕石の跡なんでしょ」と紬が言った

「そう」

「隕石が当たって、そのたびに傷ができて、それが月の顔になってる」

「天文学的には長い時間かけてできたものだけど、まあそういうことだな」

「翔くんの傷も、きっとそういうふうになるよ」

翔はしばらく黙った
それから「そうなるといいな」と言った
その声が、今まで聞いた翔の声の中で、1番静かだったと紬は思った


🎧 Track 03:スポットライトが痛い

9月になると、学校の空気が変わった

文化祭の準備が始まった

宜野湾高校の文化祭は「風と海の祭り」という名前で、毎年10月の第3週に2日間開催される
クラスごとに出し物を決め、展示や模擬店、ステージ発表などを行う
近隣の中学生も見学に来るし、OBや地域の人間も訪れる、学校で1年間で最も活気づく行事だ
2年B組は今年、喫茶店とクラス劇をやることになった
劇のタイトルは「夏の幽霊」で、ホラーコメディの台本を有志が書いた

準備委員が決まり、各担当が振り分けられる中で、紬は装飾担当になった
黒板アートや看板の制作、教室の飾りつけを一手に引き受ける仕事だ
絵が得意なわけでも、センスが突出しているわけでもないが、こういう縁の下の仕事は紬が「自然とそちらへ流れていく」タイプの仕事だった
目立たない
でも、なければ困る
誰かがやらなければいけないことを、気づいたらやっている
それが紬の在り方だった

劇の小道具担当は、翔と結を含む数名でグループが組まれた
初日の打ち合わせのあと、担当グループのメンバーで連絡を取り合えるよう、一斉に連絡先を交換することになった「じゃあグループ作るね」と結がさらっと仕切って、翔も無言でスマホを差し出した紬はその様子を装飾担当の席から遠目に見ていた

陽菜は当然のように、接客係のリーダーになった

誰かが声高に指名したわけでも、本人が真っ先に手を挙げたわけでもなく、 話し合いが始まった瞬間に、誰からともなく視線が陽菜に集まって、 自然と名前が呼ばれた、という感じだった

「やる!」と陽菜は明るく言って、すぐに役割分担を仕切り始めた

陽菜の隣で手際よくメモを取っているのは、知念美幸(ちねん みゆき)だった
陽菜とは中学からの付き合いで、真逆のタイプに見えて、 どこへ行くにも一緒にいる
「陽菜が暴走したら止める係です」と自己紹介するような子で、 今もちゃんと「それ、人数多すぎない?」と陽菜に突っ込んでいた

「じゃあ、シフトはこうしよう」
「お客さんを迎えるときはこういう声かけで」
「衣装は前日に試着して確認して」と次々と段取りを決めていく
その手際の良さが、またクラスに好意的な空気を生んだ

「陽菜ちゃんってさあ、なんで全部うまくできるんだろうね」

昼休みに結がサーターアンダギーをかじりながら言った
今日は1個しか持ってきていなかった
近所のおばあが手術で1週間入院しているからだ

「向いてるんじゃない」と紬は言った

「翔くんにアプローチするのも、すっごい堂々としてるよね、今朝も校門で、翔くんの前に立って『文化祭の劇、一緒に見ようよ』って誘ってたじゃん、翔くんがなんて答えたか見た?」

「……見てなかった」

「『考えとく』って言ってたよ、翔くん、基本断らないで保留にするんだね」

紬は弁当箱の蓋を閉めた
食欲がなくなったわけじゃないが、なんとなく食べ続ける気分じゃなくなった

陽菜のことを「嫌い」とは思えないのが余計につらかった
陽菜は嘘をつかない、計算高くない、本当に翔のことが好きで、その気持ちに正直に行動しているだけだ
それの何が悪いのか?
何も悪くない!
むしろ清々しいとさえ思う

だから紬は、ただ見ていた。遠くから

陽菜は眩しかった
声が通って、笑顔がきれいで、翔に話しかけるとき少しだけ頬が紅くなるのがわかる
それがまた可愛かった
翔がそれを見ていないはずがない

紬は自分の笑顔を思い出した
7歳のときの合唱発表会
あの引きつった顔

陽菜のように笑えたら、と思った
でも、思っても無駄なことも知っていた

文化祭の準備が進む中、紬は放課後の教室で黙々と黒板に絵を描いていた
テーマは「夏の宜野湾」
海と空と、フクギの木と、遠くに見える島の輪郭を、白と青のチョークで描いていく
誰も頼んでいないのに、細かいところまで時間をかけた
波の砕け方、夕焼けに染まった雲の形、海面に光が反射するときの白いゆらぎ

「紬って、絵うまいよね」

ある夕方、荷物をまとめながら結が言った

「全然」

「上手いよ、なんか、見てて落ち着く感じがする」

紬は手を止めた

落ち着く感じ

陽菜の笑顔は、見た人を元気にする
紬の描く絵は、見た人を落ち着かせる
それはどちらが優れているわけでもない、違う種類の何かだった
でも紬は、やっぱり「落ち着かせる」より「元気にする」側の人間になりたかった

翔の前に立ったとき、陽菜みたいに眩しい人間でありたかった

「紬、最近元気ないんじゃない?」

同じ夕方に、結が問い直した

「そんなことない」

「翔くんのこと、気になってるんでしょ」

「……別に」

「別にじゃないじゃん、好きなんでしょ」

紬は鉛筆を止めた

好きだと、声に出したことはなかった
でも、結にはバレていた
いつから、とは聞けなかった

「……紬だって、翔くんと夜の海岸で話してるじゃん」

「なんで知ってんの」

「月光堂のマコトさんが教えてくれた」

「あの叔父さん、べらべら喋るんだ」

「いいじゃん、距離近いじゃん、陽菜ちゃんより全然近いよ、翔くんと」

「……夜に会ってるのは、たまたまだよ、お互い場所が同じだっただけ、プレイリストを共有してるだけで」

「それって十分近いじゃん!」

結が少し声を大きくした
珍しく感情的な声だった

「紬ってさ、自分のことを過小評価しすぎなんだよ、翔くんが毎晩海岸に来てるのに、紬がいるときだけイヤホン貸してもらえるって、それ普通じゃないじゃん、なんで気づかないの」

紬は下絵の線を少し強く引いた
鉛筆の芯が、紙に深い溝を刻んだ

「……陽菜さんには勝てないよ」

「なんで勝ち負けで考えるの」

「陽菜さんみたいに笑えないから」

「笑えなくても好きって思っていいじゃん」

「……ちゃんと笑えない人間が、翔くんの隣に立てると思う?」

結が少し黙った
紬は続けた

「7歳のときの話、したことあったっけ」

「合唱のやつ?」

「うん、あれから、自分の笑顔が怖くて、うまく笑えなくて、鏡で見るたびにおかしい気がして、そういう顔で翔くんの隣にいるの、なんか違う気がして」

「全然違わないって」と結は言った
「紬の笑顔、可愛いって、私はそう思う」

「結は優しいから」

「優しいだけじゃなくてそう思ってるんだって」

紬は答えなかった

どう言われても、信じ切れない自分がいた
それが問題だと、頭ではわかっていた
でも、頭でわかっていても、7歳の記憶は消えなかった

結が帰ったあと、教室に陽菜が戻ってきた
残っていたのは紬だけだった

「黒板、すごいね」陽菜は黒板の前に立って、少し首を傾けた

「全然」

「全然じゃないよ、なんか、見てると落ち着く感じがする」

紬は手を止めた 落ち着く感じ、というのは、結にも言われた言葉だった

「紬ちゃんって、絵が好きなの?」

「好きかどうかより、描いてると頭が静かになるから」

「そっか」
陽菜はしばらく黒板を見てから
「私、ああいうの苦手でさ」と言った

「何が」

「静かになること、じっとしてると、いろいろ考えすぎるから、 動いてた方が楽で」

紬は少し意外だと思った

陽菜が何かを「苦手」と言うのを、初めて聞いた気がした

陽菜は一度だけ窓の外を見た
その横顔が、一瞬だけ、スポットライトの外に出た人の顔をしていた

笑っていなかった、でも、暗くもなかった

ただ、そこにいる顔だった 紬は黙って、その横顔を見ていた

「おやすみ」と陽菜は言って、教室を出た

その後ろ姿を見ながら、紬は思った
ちゃんと話したのは、初めてかもしれない

準備が進む中で、陽菜の翔へのアプローチはさらに積極的になっていった

「翔くん、文化祭のあとで一緒にどこか行かない?」と廊下で聞いたのを紬は偶然聞いてしまった
翔が「考えておく」と言ったのも聞こえた

その日の夜、海岸には行かなかった

翌日も、行かなかった

3日間、紬は夜の海岸に近づかなかった

翔から特に何もなかったスマホに連絡が来ることもなかった2人はSNSも電話番号も 交換していなかっただから、それは当然だった

1日目の夜、紬はベッドの上で共有プレイリストのアプリを開いた
再生ボタンの上に指を置いて、止めた 流したら、泣く気がした
アプリを閉じて、イヤホンをケースに戻した

2日目の夜は、開きもしなかった

3日目の夜、気づいたら自転車のカギを手に持っていた
どこへ行こうとしていたのか、自分でもわかっていた
でも、カギを引き出しの中に戻して、布団をかぶった

翔は3日間、浜辺で紬の自転車が来ない夜を過ごした

それは、孤独とは少し違った

何かが欠けていた

4日目の夜、翔は海岸へ行った

自転車はなかった

三脚を立てて、望遠鏡を組み立てて、接眼レンズに目を当てた
月が見えた
いつもと同じ月だった
クレーターの影が、いつもと同じ角度で落ちていた

でも、何かが違った

翔は接眼レンズから目を離して、波を見た

何が違うのかわかっていた
隣に紬がいないことが、こんなに気になるのは、翔には初めてのことだった
共有プレイリストを1人で再生してみた
シューゲイザーが流れた
悪くなかった
でも、片耳に入れた音楽を誰かに渡す先がないと、なんか変な感じがした

翌朝、学校で紬を見た
廊下を歩く彼女の横顔は、いつもと変わらなかった
目立たない
でも、翔には見えていた
少し目の下に疲れがあること
肩が少し落ちていること
何かを抑えている人間の顔だということ

声をかけようとして、やめた
どうかけたらいいかわからなかった
翔は自分が不器用なことを知っていた
感情を言葉にするのが苦手だった
ただ、星を見ることは得意だった
数億光年先の光を、ここで受け取ること

紬が来なくなったのが自分のせいだとしたら、何をどうすればいいかわからなかった
でも、何かが変わりたかった

それでも、時間は止まらなかった
3日が過ぎて、文化祭の朝になった

文化祭当日、翔は走ることになる


🎧 Track 04:レイニー・ディストーション

文化祭当日は、朝から雲が多かった

降る気配はなく、天気予報は「晴れのち曇り」だった
紬は朝7時半に学校に来て、装飾の最終確認をしていた
黒板アートはほぼ完成していたが、看板の角の塗りが甘いところがあって、そこを手直しすることにした
使っているのは100円ショップのアクリル絵の具で、乾くと少しくすんだ色になるのが難点だったが、重ね塗りすると深みが出た
紬はその「重ね塗りで深みが出る」感じが、なんとなく好きだった

「つむぎー、もう来てたの?」

結が来たのは8時過ぎだった
ちんすこうの袋を抱えている
「今日の差し入れ、おばあが昨日、退院したから買ってきてくれた」と言って袋を開けた
紬はちんすこうを1つもらって、看板に向かった
白ごまと塩の甘じょっぱい味が口に広がった
沖縄のちんすこうは、本土のお土産物のそれとは少し違う
もろくて、素朴で、食べたあとに粉っぽさが残る
それが紬は好きだった

「翔くんは?」

「知らない」

「ちゃんと話した方がいいよ、最近距離置いてるじゃん」

「置いてないよ」

「置いてるじゃん。文化祭の準備が始まってから、翔くんと全然話してないでしょ」

「それは、準備が忙しいから」

「そうかな」

結が少し黙った
紬は筆を動かし続けた

「文化祭が終わったら」と言った
「それからちゃんと話す」

「何を話すの?」

「わかんない、でも、何か話す」

結はしばらく紬の横に座っていた
それ以上は何も言わなかった
それが結の優しさだと、紬にはわかっていた

文化祭は10時に開幕した

廊下が賑やかになった
他のクラスや他学年の生徒たちが行き来して、2年B組の喫茶店には次々と客が来た
紬は教室の隅で看板を磨きながら、接客に走り回る陽菜を目の端で見ていた

陽菜は笑っていた
よく動いて、よく話して、よく笑っていた
その笑顔は本物だと、紬にはわかった
演じていない
ただ、今この瞬間を全力で楽しんでいる笑顔だ
喫茶店の衣装は陽菜が選んだもので、クラスのテーマカラーの淡いブルーのエプロンをつけて、髪を高めにまとめていた
それが似合っていた
何を着ても似合う人間がいる
陽菜はそういう人間だった

午前中、紬は黙々と仕事をこなした

看板の修正が終わると、教室の入り口の飾りつけの手直し、廊下側に貼るポスターの位置合わせ、ゴミ箱の場所の確認
誰も頼んでいないのに、見えているものを全部直していった
貼り直したポスターがあとで剥がれないように、テープを二重に貼った
入り口の装飾が引っかかりそうな高さだったので、少し上に上げた
細かい
自分でも細かすぎると思う
でも、気づいたら手が動いていた

「紬、全部1人でやってくれてるじゃん」

お昼前に同じ担当の女子が言った
「ありがとう、本当に助かってる」

「全然、気になったから」

「でも、疲れてない? ちゃんと食べてる?」

「平気」

本当は平気じゃなかった
体は大丈夫だったが、気持ちがずっとざらついていた
翔の顔を見るたびに、陽菜の声が耳に蘇った
「文化祭のあとで一緒にどこか行かない?」

翔の「考えておく」が、その後どうなったのかを、紬は知らない

午後になって、喫茶店の混雑は少し落ち着いた
紬はコーヒーカップの洗い物を手伝って、空いた時間に装飾の手直しをした
お客さんが「黒板アートすごいね」と言っているのを2回聞いた
担当が誰かは聞かれなかったし、紬も名乗らなかった
それでいい、と思っていた

お昼過ぎ、事件が起きた

紬が教室の入り口近くで、次の出し物の案内看板を壁に貼ろうとしたとき、手が滑って看板を落とした
床に当たって、角が少し欠けた
それだけならよかった
でも、看板は倒れながら、隣に置いてあった貸し出し用のコスプレ衣装のラックに引っかかり、衣装が何着かまとめて床に落ちた
その中の1着が、近くのテーブルに接触した
テーブルの端に残っていたコーヒーのカップが倒れ、衣装に茶色いシミが広がった

静寂が、そのあたりに落ちた

「……え、それ陽菜ちゃんが用意した衣装じゃん」

誰かが言った

「シミ、落ちるかな」

「白地の部分だし、厳しいんじゃない」

「誰が弁償するの」

「というか、誰が落としたの」

視線が紬に向いた

紬は動けなかった
頭の中が真っ白になった
膝が震えていた
口が開かなかった
謝らなければいけないのはわかっていた
「ごめんなさい」という言葉が、喉のすぐそこにあった
でも、声が出なかった

7歳のときの発表会が、フラッシュバックした

全員の視線が向いた瞬間
引きつった自分の顔

「は、ちょっと待ってよ」

声がした
結だった

「衣装は陽菜ちゃんに確認して、どうするか決めてもらえばいいじゃん、それより今、紬が一番しんどいと思うんだけど、そっちに向かってあれこれ言うの、やめてくれる、 誰だってミスするじゃん」

シュンとした空気が広がった
誰も反論しなかった
結の声の温度が普段より低かったから、みんなわかったのだと思う

結は紬の腕を取って、教室の隅に連れて行った

「つむぎ、大丈夫?」

紬は頷こうとしたが、うまく動かなかった
目が熱くなった
泣きたくなかった
泣いたら、また変な顔になる
必死で目を乾かした

「ちょっと外の空気吸ってきな、私、衣装のこと陽菜ちゃんに話しておくから」

「……でも」

「行きなさい、ほら」

結がそう言うとき、声がいつもより少しだけ低い
本当に怒っているわけじゃなく、本当に心配しているときの声だ

紬は教室を出た
廊下を抜けて、靴を履き替えて、校舎の裏手へ回った
体育館の裏は、文化祭の人波から少し離れた場所で、古い倉庫の壁にツタが絡んでいる
コンクリートの地面に、丸いドラム缶が転がっていた
空が少し暗くなってきていた

そこに先客がいた

2人いた

「……私、翔くんのことが好き」

声がした

陽菜の声だった

紬は足を止めた
倉庫の角から少し覗く形になった
足が動かなくなっていた

陽菜が翔の正面に立っていた
真っ直ぐ、翔の目を見ていた
淡いブルーのエプロンをまだつけたままで、文化祭の途中でここへ来たのだとわかった

「ずっと好きだった、転校してきた最初の日から、ずっと、はっきり言いたかったから、言う、私の隣にいてほしい、それだけを伝えたかった」

陽菜の声は震えていなかった
緊張しているのは声のわずかな高さでわかったが、視線は逃げなかった
それが陽菜という人間だった
どこまでも、正直で、怖いほど真っ直ぐだった

翔は少し黙っていた

紬は見ていた
見ていてはいけないと思いながら、足が動かなかった
心臓が速く鳴っていた

なにか言って、と心の中で思った
何でもいいから、早く言って

その瞬間、空が割れた

音だった

ゴロゴロ、という地響きのような低い音が来て、次の瞬間に空が暗くなり、大粒の雨が一気に降り始めた

カタブイだった

沖縄特有のスコール
突然来て、狭い範囲に激しく降る
空のどこかに穴が開いたように、雨が真っ直ぐ落ちてきた
体育館の屋根に雨粒が叩きつける音が轟音になった

紬は走り出した

理由はなかった
翔が何と答えたかも聞かなかった
聞けなかった
聞いてしまったら、その先で何かが取り返しのつかない形に固まってしまう気がして、ただ、走った

校舎の外に出た
雨の中に飛び込んだ
すぐに濡れた

自転車置き場から自転車を引っ張り出して、ペダルを踏み込んだ
雨が顔に当たる
視界が霞む
髪が額に貼り付く
制服のシャツが体に張り付く
ブレーキをかける気になれなかった

涙かどうかも、雨の中ではもうわからなかった

ただ、速く走りたかった
全部を置いてきたかった
陽菜の真っ直ぐな声も、翔の沈黙も、衣装のシミも、笑えない自分も、全部、雨の中に溶かして流してしまいたかった

海岸への道を、紬はひたすら走った

雨の音が、耳の中でひずんでいた

まるで、イヤホンの中に水が入ったみたいに
あるいは、世界が全部ノイズになってしまったみたいに
音楽がひずむとディストーションという
エフェクターをかけて、音を歪ませる
翔が「これ、好きなんだよな」と言って一度聴かせてくれた、古いブリティッシュロックのギターの音が、頭の中で鳴っていた

自転車のタイヤが水たまりを弾いた
飛沫が膝を濡らした。街灯の光が、雨の中でにじんでいた

信号が赤になった。止まった

横断歩道の前で、ハンドルを握りしめたまま、紬はうつむいた

雨粒が路面に跳ねていた
地面に落ちた雨が、小さな水の丸を作っては消えていた
生まれて、消えて、また生まれる
それを繰り返していた

涙が、雨に混ざって流れた

今度は、雨のせいにできなかった

自分の顔が、どんな顔をしているか、想像した
ぐちゃぐちゃだと思った
泣き顔は、笑い顔よりさらに醜い気がして、紬はずっと人前で泣くことを避けていた
でも今は、誰もいなかった
信号の前に自分だけがいて、スコールが降っていて、世界がノイズだった

青になった

紬はペダルを踏み込んだ

海岸への細い道に入ったとき、スコールはまだ降り続けていた
砂浜の手前で自転車を投げ出して、紬は波打ち際まで歩いた
砂が雨を吸って、重くなっていた
靴が濡れた
もうどうでもよかった

波打ち際の手前に座り込んだ

スカートが砂を吸って重くなった
風が冷たくなった

雨は、降り続けていた


🎧 Track 05:ムーンライト・スマイル

雨が、上がっていた

気づいたら、上がっていた

どのくらいの時間が経ったかわからなかった
全身がびしょ濡れで、スカートが砂を吸って重くなっていた
風が吹くたびに、濡れた制服が体に貼り付いて冷たかった
でも、動く気になれなかった。波が来るたびに靴の先を濡らしていた
砂の上に座ったまま、紬は膝を抱えていた

雲が動いていた

さっきまであれほど激しかったスコールが、まるで嘘のように止んでいた
空が少しずつ開けて、星がのぞいていた
その中のひとつがやけに明るいと思って見ていたら、それは月だった

ほぼ満月に近い、白くて大きな月だった

スコールが上がったあとの夜空は、どこか洗われたようにきれいで、月の輪郭がいつもよりはっきりしていた
クレーターの凹凸が、肉眼でもうっすらわかるほどだった

紬はその月を見上げながら、膝を抱えた

「……まぶしく生まれたかったな」
誰もいない夜の海岸で、声に出した

陽菜みたいに

太陽みたいに

でも、と思った 月は、太陽になろうとしない
ただ、受け取った光を、暗い夜へ向けて返す

それだけのことを、何十億年も続けている
それが、どういう意味を持つのか 紬には、まだわからなかった

「紬!」
声がした

砂浜の入り口の方から、走ってくる足音がした
砂を踏む、重い足音だった
紬は声の方を振り返った

翔が砂浜を全力で走っていた

制服が濡れていた
息が切れていた
髪が額に張り付いていた
白いシャツが雨で透けていた
転校してきた日から今日まで、紬が見た中で1番走っている翔だった

紬は立ち上がれなかった

翔は紬のそばまで来て、その場に膝をついた
膝がずぶずぶと濡れた砂に沈んだ
息を切らしたまま、翔は紬の両肩を掴んだ
強くもなく、弱くもない、確かな力で

「……なんで」

紬の声が掠れた
「陽菜さんがいたじゃん、陽菜さんの話、聞かなかったの」

「聞いた」

「じゃあなんでここに」

「断った」

紬は翔を見た
翔はまっすぐに紬を見ていた

「……なんて言って」

「好きな人がいるって言った」

紬は少し黙った
誰のことか、聞けなかった

「陽菜のこと、好きじゃないから」と翔は言った
声は静かだった
「陽菜が悪いわけじゃない、真っ直ぐな人だし、すごいと思う、ただ、好きじゃない」

「でも」

「紬のことが、気になってた」

雨上がりの波音が、静かに響いていた

「気になってたって……」

「ずっと、海岸に来なくなった3日間、ずっとそわそわしてた、何やってんだろうな、俺、って思ったけど、止まらなかった、一人で共有プレイリストを再生したら、なんか変な感じがして、イヤホンを誰かに渡す先がないと、音楽が半分しか届かない気がして」

翔は1度言葉を切って、軽く息を吐いた

「学校で衣装のことがあって、結から『紬が外に出た』って メッセージが来てた、陽菜に断ってすぐ、お前を探しに行ったら、 もういなくて、下駄箱を確認したら靴がなくて、自転車置き場に 行ったら自転車もなかった、あっちこっち探してたら結から電話がきて『海岸に行ったんじゃないか』って言われて、 そこかと気づかされて、走ってきた」

紬はしばらく何も言えなかった

「……結がいなかったら、来られなかったんだ」
「俺だけじゃ、たどり着けなかった」

「……アホじゃないの」

「かもな」

翔が笑った

こんな顔で笑う人だったのか、と紬は思った
不器用で、照れているような、自分の言動が少し恥ずかしい、という気持ちが滲み出た笑顔それがひどく、胸に来た

紬の目が熱くなった

「私なんか」と言った。声が震えた
「陽菜さんみたいにキラキラしてないし、うまく笑えないし……笑顔も変だし、背景みたいなもんだし、翔くんに何かしてあげられることなんて、何もなかったし……なんで」

泣いていた

雨の中で流れていた涙が、雨が上がったら急に止まらなくなった
拭こうとしても追いつかなかった
みっともないと思った
でも、止まらなかった

翔は紬の肩を掴んだまま、紬の目を見た

まっすぐ見た
逸らさなかった

「太陽は直視できないさ」と翔は言った
声は低く、静かだった

「え?」

「太陽のように輝いてる人は、眩しすぎてずっとは見ていられない、目が痛くなる、陽菜はそういう人だ、俺には眩しすぎる」

紬は泣きながら翔を見た

「でも、月はずっと見ることができる、だから俺は月が好きなんだ」

翔は空を見た
月を見た
満月が、雲の切れ目から出ていた

「暗い夜に、静かに光ってる。それがどれだけ助かるか、お前はわかってないんだよ、俺が東京でしんどかった夜、ここの海岸に来て月を見ることで、少しだけ呼吸できるようになった、でも、それだけじゃ足りなかった、お前がここに来るようになってから、それが変わった、お前が隣にいて、音楽を聴いてて、ときどき月のことを聞いてくる、それだけで、なんか、全然違った」

紬は言葉が出なかった

「太陽のように輝いている陽菜は直視できない、でも、月のような笑顔のお前が、大好きだ」

翔の声は、震えていなかった
静かだった
でも、確かだった

大好きだ、という言葉が、雨上がりの夜の空気の中に広がった
波音と混ざって、消えていかなかった

紬はしばらく動けなかった

「……うまく笑えなくても?」

「関係ない」

「背景みたいでも」

「お前は背景じゃない」翔は紬を見た
「俺にとって、お前はずっと見ていられる月だ」

「……笑顔が変でも」

「変じゃない」

「変なんだよ」と紬は言った。涙をぬぐいながら言った
「7歳のとき、合唱の発表会で変な顔して笑ったら、写真に撮られて、アルバムに残って、それからずっと自分の笑顔が怖くて、鏡で見るたびにおかしい気がして、ちゃんと笑えてる気がしなくて」

翔は少し黙った

「だから、笑うのを引っ込めてたら、いつの間にか誰かの背景みたいな人になってた、自分でもそれが嫌で、でもどうしたらいいかわからなくて」

翔はまだ紬の肩を掴んでいた

「お前が笑うとき」と翔は言った
「なんか、こっちがほっとするんだよ」

「……え」

「はっきり笑おうとしてなくて、でも、笑おうとしてる気配があって、それが俺にはすごくわかって、こっちまで少し穏やかになる感じがする」

紬は何も言えなかった

「変な笑顔なんかじゃない。ただ、繊細なだけだ」

月が、雲の切れ目から完全に出た

満月の光が、海岸を白く照らした
砂が光った
波が光った
翔の髪が光った
紬の頬を、涙の線が光った

「……翔くん」

紬は声を出した

「なに?」

「私も」

言えなかった。声が詰まった

翔は待っていた
急がなかった
ただ、そこにいた
砂に膝をついたまま、じっとそこにいた

「あなたが、好き」

紬は言った
泣きながら、月を見ながら、翔の目を見て、言った

声が震えていた
顔がぐちゃぐちゃだった
泣きながら言う好きなんて、どう考えてもみっともなかった

でも、翔が笑った

さっきよりも、ちゃんとした笑顔で
照れと安堵が混ざった、不器用で、でも本物の笑顔で

「俺も」と言った
「紬が、好き」

それだけだった

それだけで、十分だった

月が、満ちていた

翔と紬は、しばらく海岸に並んで座っていた

膝をついた翔が、砂に腰を落ち着けて、紬の隣に座った
どちらも先に動こうとしなかった
風が吹いた
雨上がりの海の匂いが、夜の空気に溶けた

「結に電話したら、『海岸じゃないか』って言われた」しばらくして翔が言った
「そこ以外に心当たりがなかったから、走ってきた」

「……あの子、なんでわかったんだろ」

「お前のことをよく見てるんだろ」

紬は少し笑った
翔もつられて笑った

「翔くんって、笑うと全然違う顔になるね」

「そうか」

「うん、いつもはどっか遠いとこ見てるけど、笑うと急にそこにいる感じになる」

翔は少し考えてから、「お前も笑うと全然違う顔になる」と言った

「変な顔に?」

「違う」翔は言った
「ちゃんとそこにいる顔になる、さっきまで背景みたいにいたのに、笑うと急に存在感が出てくる、月みたいに」

紬はしばらく黙った

「……月みたいに」

「そう 暗い夜に、突然ちゃんと見えるようになる感じ」

紬はスマホを取り出した
二人が共有していたプレイリストを開いた
あの夜、翔が紬にイヤホンを貸してくれた最初の曲から始まる、くちゃくちゃな順番のプレイリスト
シューゲイザーとアンビエントとJ-POPが混在している、統一感のないそのリストを、静かに再生した

イヤホンを片方外して、翔に差し出した

翔はそれを受け取って、耳に入れた

霞んだギターの音が流れ始めた
波の音と混ざった
月が海を照らしていた

「翔くん」

「ん?」

「月がこんなに明るいのって、今日だけ?」

「満月は月1回ある」

「じゃあ、また来月も?」

「来月も来るか?」

「……来る」

翔が少し笑った気配がした

紬も、少し、笑った

変な笑顔かもしれなかった
不自然かもしれなかった
でも、今夜はそれでいいと思った
誰かのためじゃなく、自分のために笑えた気がした
それが、7歳のときから数えてみれば、ずいぶん久しぶりのことだった

月が、変わらず輝いていた

太陽の光を受けて、暗い夜の拠り所になるために

それで十分だと、紬は初めて思えた

プレイリストが、静かにループ再生を始めた
海と月と2人を乗せて、宜野湾の夜は、そっと続いていった


Epilogue:次の月まで

あとから聞いた話では、陽菜は翔に断られたその日の夜、1人で泣いたらしかった

教えてくれたのは、陽菜の親友の知念 美幸だった
「陽菜ね、布団の中でめちゃくちゃ泣いてたよ、でも、翌朝にはケロッとしてたよ、あの子はそういうとこある」と、少し呆れたような、でも愛情のある声で言った

翌日、陽菜は普通に学校に来て、普通に笑って、文化祭の後片付けを真っ先に手伝った
シートを剥がして、テーブルを元の位置に戻して、黒板アートを消す係まで進んで引き受けた
衣装のシミのことも「クリーニングで大丈夫だったよ」と翌週の月曜日に紬に言いに来て、「あのときは心配した? ごめんね」と先に謝った

紬は驚いた

「謝るのは私の方で」と言うと、陽菜は首を振った

「衣装は結局大丈夫だったから、いいよ、それより」

陽菜は少し間を置いてから、「翔くんのこと、よろしくね」と言った

真っ直ぐな目で言った
嫌味じゃなかった

紬は少し固まって、それから「……うん」と言った

陽菜はそれを聞いて、照れたように笑った
「なんか負けた気がしてちょっと悔しいけど、翔くんが幸せそうなのは、なんかわかるし、というか正直、断られたときに『ああ、そっちか』ってなんとなく思ったんだよね、翔くん、紬のこと気にしてたじゃん、あの海岸のことも含めて」

「……知ってたの」

「なんとなく、ね、まあでも、告白しないと気が済まなかった私の性格だから、しょうがないじゃん」

紬はその言葉を、しばらく頭の中で転がした

「……陽菜さんって」

「なに?」

「すごい人だと思う」

陽菜はきょとんとして、それから声を上げて笑った
廊下まで聞こえそうな笑い声だった

「そんなこと言われたの初めて、ありがとう、なんかこそばゆい」

それから陽菜は笑顔のまま「じゃあ、またね」と言って、クラスに戻っていった
その後ろ姿を見送りながら、紬は思った

陽菜はやっぱり、太陽だ

でも、だからといって、自分が背景だとは、もう思わなかった


10月の終わりになると、空気が少しだけ変わった

沖縄の秋は本土より遅く来る
8月が終わっても夏が続き、9月に入ってもまだ暑い
10月になってようやく、夕方に風が冷たくなってくる
10月の終わりには、海岸の夜は夏よりずっと穏やかになっていた
虫の声が変わって、空気が少し乾いて、月が夏よりくっきり見えた

紬と翔は、相変わらず夜の海岸へ行った

違うのは、今は隣同士に近づいていること、1本のイヤホンを分け合うのが当たり前になっていること、そして、翔が望遠鏡を覗くとき紬が隣でスケッチブックに何か描いていることだった

「何描いてるの、今日は」

翔が接眼レンズから目を離して聞いた

「月」と紬は言った。「あなたが毎日見てるやつ」

「また月?」

「クレーターの形が日によって違うから。というか、月の向きが毎日微妙に変わるから、影の落ち方が変わって、見え方が変わる」

「詳しくなったな」

「翔くんが教えてくれたんじゃん」

翔は少し黙ってから、「見せて」と言った

紬はスケッチブックを差し出した。細い鉛筆で、時間をかけて丁寧に描かれた月の素描が、10枚以上あった
どれも少しずつ違う クレーターの陰影の付け方、縁の光の当たり方、月面の明暗の境界線

「……うまいじゃん」

「全然、でも楽しい」

「なんで楽しいの?」

紬は少し考えた
「同じものを毎日見てるのに、毎日違うから 変わらないようで、変わってるから」

翔はその答えを聞いて、少し表情が動いた

「それは、望遠鏡で星を見る理由と同じだ」と翔は言った
「毎日見ると、毎日違う、同じ星が、角度が変わって、明るさが変わって、季節が変わると見えなくなって、また戻ってくる、飽きない」

「飽きないね」

「お前のことも、飽きない」

紬はスケッチブックを胸に抱えて、少し俯いた
頬が少し熱くなった

「……急に何を言ってるの」

「本当のことを言っただけ」

「急すぎる」

「そうか」

翔はまた望遠鏡に目を戻した
紬はスケッチブックに鉛筆を走らせた
波音が続いた。さとうきび畑から風が来た

「翔くん」

「ん?」

「東京に帰るのって、いつ頃になりそう?」

翔は少し黙った。

「今のところ、考えてない」

「でも、いつかは帰るよね」

「いつかはな、でも今は、ここがいい」

「……そっか」

「お前は、ずっとここにいるの?」

「大学は出たいから、どこかに行くかもしれない、でも、帰ってくると思う、宜野湾が好きだから」

翔はしばらく黙って、「宜野湾のどこが好きなの?」と聞いた

「夜の海岸」と紬は言った
「月がよく見えるから」

翔は望遠鏡から目を離して、紬を見た

紬は月を見ていた
その横顔に、月の光が落ちていた

「……さっきから月のことしか言わないな」

「そうかな」

「そうだよ」

「まあ、翔くんが月のことをたくさん教えてくれるから、月のことを考えることが増えたんじゃないの」

翔は少し笑った
紬も少し笑った

共有プレイリストが流れていた
シューゲイザーが終わって、アンビエントが始まって、眠くなるような静かな音が夜の海に溶けた

「翔くん」

「ん?」

「私の笑顔、ほんとに変じゃない?」

翔は答える前に少し考えた

「正直に言うと、確かに笑おうとして力が入ってる感じはわかる」と翔は言った
「でも、それが変だとは思わない、むしろ、そこが好きだと思ってる」

「力が入ってるとこが?」

「そこに、お前がいるから、一生懸命、ちゃんと笑おうとしてる気配がある、それが温かい」

紬は少し黙った

「……結にも同じようなこと言われたことがある、落ち着く笑顔だって」

「落ち着く、か、俺はほっとする、と思う」

「同じじゃん」

「少し違う 落ち着くは静かな感じ、ほっとするは、なんか帰ってきた感じ」

紬は月を見た
翔も月を見た

帰ってきた感じ、という言葉が、頭の中でゆっくり広がっていった

月が、輝いていた 揺れる海面に映って、砕けて、また形を取り戻した

「……来月も、ここに来る?」

「来る」と翔は言った
「来月も、その次の月も」

「じゃあ、来月の月を描く絵のスペース、とっておく」

「うん」

プレイリストが、静かにループを始めた

最初の曲に戻った
あの夜、翔が最初に紬に貸したイヤホンで流れていた、霞んだギターの音が始まった

波の音が続いていた

紬のスマホの画面に、共有プレイリストが静かに回っていた

霞んだギターの音が始まって、波の音と混ざって、 宜野湾の夜の空気に溶けていった

翔の耳に、片方のイヤホンが届いていた

東風平 紬は、月を描き続けた
宇佐美 翔は、星を見続けた

宜野湾の夜が、静かにそこにあった

あとがき

「太陽は眩しすぎて直視できない。でも、月はずっと見ていられる。そんな月のような君の笑顔はずっと見ていたくなる」という言葉を思い付きこの小説を書いてみました。

by ボニさん


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