蘇我氏と物部氏の対立──物部守屋はなぜ蘇我氏を危ういと見たのか
物部守屋は、仏教に反対した敗者として語られやすい。しかし、587年の争いには、信仰だけでなく王位継承と豪族間の主導権も重なっていた。蘇我氏と物部氏の対立を守屋の行動からたどり、彼が何を警戒し、何を失ったのかを考える。
蘇我氏と物部氏の対立は、蘇我馬子が勝ち、物部守屋が敗れた出来事として語られやすい。そのため、守屋は「新しい仏教を理解できなかった古い人物」として扱われることがある。
しかし、物部守屋が仏教に反対した理由を、変化への嫌悪だけで説明することはできない。守屋自身の考えを直接伝える記録はなく、現在知られている姿は、主に後世に編纂された『日本書紀』の記述を通して見るものだからだ。
それでも、守屋が仏教礼拝に反対し、蘇我馬子と王位継承をめぐっても異なる側に立ったことは、この対立の背景を考える手がかりになる。守屋の行動からは、在来祭祀だけでなく、物部氏が朝廷で担ってきた立場まで失うことへの警戒が読み取れる。
物部守屋はどんな立場に立っていたのか
物部守屋は、『日本書紀』では大連(おおむらじ)として朝廷政治に関わった有力豪族として描かれている。物部氏は武器や軍事と深く結びつき、神事にも関わったとされる氏族だった。守屋の判断には、一人の信仰だけでなく、有力氏族を率いる立場が関係していた。
ただし、大連を大臣と並ぶ固定的な最高官職とみなすことには、現在の研究では慎重な見方もある。記紀が編纂された段階で、過去の政治体制が整理されて描かれた可能性があるためだ。それでも、守屋が敏達天皇や用明天皇の時代に、朝廷内で大きな発言力を持つ人物だったことは読み取れる。
また、物部氏と蘇我氏は、初めから一貫して敵対していたわけではない。蘇我馬子の妻は守屋の妹とされ、両者には婚姻を通じたつながりがあった。敏達天皇の治世が進むなかで、仏教への対応や王族との関係をめぐる違いが表面化し、対立が深まっていったと考えられる。
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