神奈川県・小田原城──関東の入口を押さえた城
神奈川県小田原市の小田原城は、北条氏が関東支配の本拠とした城だ。城下を囲む総構をたどると、東海道と箱根を押さえた要衝の姿が見えてくる。
神奈川県小田原市にある小田原城は、北条氏が五代にわたって本拠とした城だ。相模湾に近く、箱根を越える道を押さえる場所にあり、戦国時代の関東を考えるうえで欠かせない城だった。
この城を見るときは、天守だけでなく、町全体を囲んだ守りに目を向けたい。小田原城は、城郭と城下町を一体で守る総構を築き、関東へ入る道を押さえる要衝として発展した。
北条氏五代の本拠
小田原城は、15世紀中ごろに大森氏が築いたと考えられている。その後、明応4年、1495年に伊勢宗瑞、いわゆる北条早雲が小田原城に入り、城は戦国大名北条氏の本拠として発展していった。

北条氏は、早雲から氏綱、氏康、氏政、氏直へと続く中で、関東に勢力を広げた。小田原城は、その支配を支える中心だった。ただの居城ではなく、相模国から関東各地へ力を及ぼすための本城として整えられていった。
関東の入口を押さえた場所
小田原は、海と山の間にある交通の要地だった。西から東へ向かう人や物は、箱根を越え、相模へ入り、関東へ進んでいく。小田原城は、その流れを押さえる場所に築かれていた。
この地を押さえることは、関東の入口を押さえることでもあった。海に近く、箱根を背にし、東海道の動きを見られる小田原は、軍事だけでなく経済や情報の面でも重要だった。箱根と東海道に近いことが、小田原城を関東の入口にした。
総構が示した戦国最大級の守り
小田原城の大きな特徴が、城下町まで囲み込む総構だ。天正18年、1590年の豊臣秀吉による攻撃に備え、北条氏は城と町を一体で守る大規模な土塁と堀を整えた。総構は全周約9kmに及び、戦国時代の小田原城を最大級の城郭へ押し上げた。
ここで重要なのは、守ったのが天守や本丸だけではなかった点だ。町を囲むことで、城下の人々、物資、拠点そのものを守ろうとした。最終的に北条氏は降伏したが、小田原攻めで示された城下町ごとの防御は、戦国大名が城をどう考えていたかをよく伝えている。
近世城郭として残った小田原
北条氏の滅亡後、小田原城は徳川家康の支配下に入り、大久保氏が城主となった。江戸時代には城の規模が三の丸以内へ縮小され、のちに稲葉氏の時代に大規模な改修が行われ、石垣を備えた城へ姿を変えた。
その後、大久保氏が再び城主となり、小田原城は箱根を控えた関東防御の要として役割を持ち続けた。戦国期の大規模な総構の記憶と、江戸時代の近世城郭としての姿が重なっているところに、小田原城の面白さがある。小田原城は、時代が変わっても関東防御の拠点として意味を持ち続けた。
城下ごと守った北条氏の発想
小田原城の魅力は、天守の姿だけでは分からない。北条氏が重視したのは、城の中心だけでなく、城下町を含めた広い範囲をどう守るかだった。総構の城としての小田原城には、町と城を切り離さずに考える戦国大名の発想が残っている。
関東の入口を押さえる小田原では、人や物の動きがそのまま力につながった。だからこそ、北条氏はこの地を本拠とし、城を広げ、町を守り、関東支配の中心にした。小田原城は、北条氏五代の政治と軍事を支えた城だった。
関東の入口を押さえた城を歩く意味
小田原城は、北条氏の本城であり、豊臣秀吉の小田原攻めの舞台でもある。ただし、その歴史を「落城した城」とだけ見ると、城の本質を見落としてしまう。ここには、関東の入口を押さえ、城下町ごと守ろうとした大きな構想があった。
現在の城址公園を歩き、天守や堀、石垣を見たあとで、総構の跡へ目を向けると、小田原城の広さが少しずつ見えてくる。小田原城は、城だけでなく町そのものを守り、関東の入口を押さえた小田原城として、今も土地の形に記憶を残している。
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