駿府城と徳川家康の隠居地
駿府城は、徳川家康が晩年を過ごした静岡市の城だ。
将軍職を譲ったあとも、家康は大御所政治の拠点として駿府を動かした。隠居地という言葉の奥には、江戸幕府を支えたもう一つの政治都市が見えてくる。
静岡市の中心部に、広い堀と石垣を残す城跡がある。
そこが駿府城だ。今は公園として親しまれているが、ここは徳川家康が人生の大事な時期を何度も過ごした場所だった。
家康は幼年期、壮年期、晩年の三度にわたり、駿府と深く関わった。
晩年には大御所として駿府城に入り、江戸に将軍を置きながら、政治の大きな判断を握り続けた。
つまり駿府は、静かな隠居地ではなかった。
江戸幕府を後ろから支える、もう一つの政治都市だった。
駿河に置かれた家康の城
駿府は、現在の静岡県静岡市中心部にあたる。
駿府城公園の解説では、室町時代からこの周辺に今川氏の館があったと考えられている。
のちに徳川家康は、天正13年、つまり1585年から駿府城の築城を始め、天正17年、つまり1589年に現在の二ノ丸以内の部分を完成させたとされる。

この時点の駿府城は、家康が東海を押さえるための重要な拠点だった。
駿河は東海道に面し、東西の動きを見やすい場所にある。
だから駿河国の中心に城を置くことは、家康にとって軍事だけでなく、交通と政治をまとめる意味も持っていた。
将軍を譲ったあとの駿府
慶長8年、つまり1603年に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。
その後、慶長10年、つまり1605年に将軍職を徳川秀忠へ譲り、翌年から再び駿府城の修築に取りかかった。
駿府城公園の解説では、これにあわせて駿府の町割りや安倍川の治水事業も進められたとされる。
ここで大事なのは、家康がただ表舞台から退いたわけではない点だ。
将軍職は秀忠に移ったが、家康は大御所政治の拠点を駿府に置いた。
静岡市の解説でも、晩年の駿府では家康率いる大御所政権が、幕府の補助的な機関として大きな影響力を持ったと整理されている。
城下町を整えた大御所政治
駿府城に入った家康は、城だけでなく城下町の整備も進めた。
駿府城公園の解説では、駿府の町割りと安倍川の治水が進み、現在の静岡市街地の原型が作られたと説明されている。
大きな城と整った町は、家康がこの地を政治の場として使うために必要だった。

駿府には、家康に会うため多くの人が訪れた。
静岡市が紹介する駿府城御殿の絵図説明でも、家康やその後の城主が暮らした本丸内の御殿に、さまざまな人々が謁見のため訪れていたとされる。
つまり駿府城は、暮らしの場であると同時に、政治外交の窓口でもあった。
静岡に残った近世都市の骨格
家康が晩年を過ごした駿府は、単なる余生の場所ではなかった。
静岡市の解説では、家康は晩年の65歳から亡くなる75歳までのおよそ十年間を駿府で過ごしたとされる。
その間、駿府城下町は政治と外交の中枢都市として栄えた。
このため、静岡県の近世を考えるとき、駿府は外せない。
江戸に将軍がいて、駿府に大御所がいる形は、徳川政権の安定を支える仕組みでもあった。
駿府城は、家康の隠居地でありながら、近世都市としての静岡の出発点を作った場所だった。
その意味で、現在の静岡市中心部に残る堀や石垣は、江戸と駿府が結びついていた時代の名残ともいえる。
隠居地という言葉を読み替える
駿府城を読むうえで大切なのは、隠居という言葉に引っ張られすぎないことだ。
家康は将軍職を譲ったあとも、駿府城を拠点に政治へ関わり続けた。
その動きは、江戸幕府の中心が江戸だけにあったわけではないことを教えてくれる。
駿府には、城、御殿、町割り、治水がそろえられ、大御所政治を動かすための仕組みが置かれていた。
静岡の原点に残る駿府の役割
この回の核心は、駿府城を徳川家康の晩年の住まいとしてだけでなく、静岡県の近世都市を形づくった場所として読むところにある。
徳川家康はこの地で城を整え、町を整え、江戸幕府を支える政治の回路を残した。
駿府城は、戦国の城から江戸時代の政治都市へ変わる流れをよく示している。
現在の静岡市中心部に残る堀や石垣は、江戸時代の始まりに、この土地がどれほど大きな役割を持っていたかを今に伝えている。
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