愛媛県・松山城──山に広がる城の層
松山城は、山上に天守だけが立つ城ではなく、本丸から裾野へ広がる構えと城下町までを一体で築いた城になる。
そこを追うと、加藤嘉明の築城が、山の地形を生かした守りと町の骨組みを同時に形づくったことが見えてくる。
松山市の中心に立つ松山城は、高い山城というより、町の中で山全体を城に変えたような見え方をする。
標高132メートルの勝山に本丸があり、その裾へ二之丸と三之丸が重なるため、城は一点ではなく山の面で広がっている。

その面白さを強めているのが、現存する天守だけで終わらないところにある。
山上の構え、石垣、堀、そして周囲に広がった城下町まで見ると、松山城が町の骨組みそのものだったことが分かりやすくなる。
加藤嘉明はなぜ勝山に城を築いたか
松山城を築いたのは加藤嘉明になる。
関ヶ原の戦いのあと二十万石の居城として新しい城地を求めた嘉明は、1602年に勝山で築城を始め、松山平野の中央に新しい拠点を置こうとした。
この築城で大きかったのは、城だけを先に作らなかった点にある。
湯山川の流路変更や堀の整備と合わせて城下町形成が進められ、本丸・二之丸・三之丸を持つ近世城郭と町が同時に整えられていった。
連立式天守は何を見せるか
松山城が特別に見られる理由の一つが、現存十二天守の一つである点になる。
松山城は、姫路城と並ぶ連立式天守を持つことでも知られ、山上の構えに複数の建物が重なって見えるところに強い個性がある。
しかも今の天守は、江戸初期の姿をそのまま残したものではない。
1784年の落雷で焼失したのち、再建工事を経て1854年に落成し、現在の大天守を含む天守群の姿が整った。
山に重なる区画はどう守りを作ったか
松山城の構えは、山頂に本丸、その裾に二之丸、さらに平地に三之丸を置く広い平山城になっている。
山の高低差をそのまま城の層に変えているため、上へ行くほど守りが深くなるつくりが、歩くだけでもはっきり伝わる。
その守りを強く見せるのが登り石垣になる。
二之丸から本丸へ向かって登るように築かれたこの石垣が残ることで、松山城が山の斜面そのものを防御に使った城だと分かりやすくなる。

城下町松山はどう広がったか
松山城は山の上だけで完結する城ではなく、周囲の町を引き受ける城でもあった。
山頂の城郭整備と並行して松山平野に町が整えられ、平地の三之丸も含めて政治と生活の中心が組み立てられていった。
だから今の松山も、城と町が離れて見えにくい。
市街地の中に城山が残り、その西麓の堀之内まで含めて城域の記憶が続いているため、松山城は名城というより城下町の核として受け止めやすい。
山全体で読める城のかたち
松山城の重みは、天守の美しさだけでは足りない。
山上から平地へ重なる城の層まで見ることで、この城が守りと町づくりを一つにまとめた場所だったことが見えてくる。
町まで含めて完成する近世城郭
この回の核心は、加藤嘉明が築いた城を、山頂の天守だけでなく、二之丸・三之丸・城下町まで含めた構えとして読むところにある。
そこを押さえると、松山城が現存天守の城として有名なだけでなく、山に広がる層そのものが近世の都市設計を今へ伝えていることが分かりやすくなる。
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