宮崎県・今山大師──疫病から始まった町の大師信仰
今山大師は、1839年に疾病が広がった延岡で、城下の大師信徒が高野山から弘法大師像を迎えたことに始まる。延岡今山大師祭や高さ17メートルの銅像を通して、病気の平癒、家族の安全、商いの発展を願う信仰が町に根づいた歴史をたどる。
宮崎県延岡市の市街地に近い今山に、蓬莱山今山大師寺がある。今山大師寺は特定の宗派に属さない単立寺院で、弘法大師を本尊として祀っている。延岡駅から徒歩約15分という場所にあり、石段を上った先の境内からは市街地を見渡せる。
地元では、親しみを込めておだいっさんと呼ばれてきた。その始まりは江戸時代末期、疾病に苦しんだ城下の大師信徒が、家族や町の無事を弘法大師へ願ったことにある。今山大師が延岡の暮らしとどのように結びつき、春の大きな祭りへ発展したのかを見ていく。
疫病の中で建てられた大師庵
今山大師の縁起では、天保10年にあたる1839年、延岡で疾病が猛威を振るったとされる。城下の大師信徒たちは高野山金剛峯寺へ赴き、弘法大師の像を勧請して、大師庵を建てた。病を前にした人々が、遠く高野山まで像を迎えに行き、身近な場所に祈りの拠点を築いたのである。
迎えられた弘法大師坐像は、現在も今山大師の本尊として祀られている。人々が願ったのは、病が収まることだけではなかった。家内安全、息災延命、五穀豊穣、商工発展を祈り、城下での暮らしと仕事が続くことまで弘法大師へ託した。
延岡の町を見守る弘法大師像
大師庵から始まった信仰は、後の時代に境内の整備を伴って広がった。明治22年(1889)には今山に八十八か所が設けられ、大正7年(1918)には大師堂が建立された。今山大師は、弘法大師像を祀る小さな庵から、多くの人が参拝できる寺院へ整えられていった。
山上に立つ弘法大師銅像は、高さ17メートルあり、日本一高い弘法大師像として案内されている。昭和32年にあたる1957年に建立され、延岡の市街地を見下ろしている。町の中からも意識できるその姿は、暮らしを見守る「おだいっさん」という信仰を目に見えるものにした。

祈りが市街地へ広がる大師祭
毎年4月中旬に開かれる延岡今山大師祭は、弘法大師が入定した旧暦三月二十一日を供養と感謝の日とする祭りだ。現在は三日間にわたって開催され、境内では大法要や護摩祈願が営まれる。寺院の年中行事であると同時に、延岡の春を代表する祭りとして多くの参拝者を集めてきた。
祭りの期間には、参道や商店街にお接待の場所が設けられ、訪れた人へ食べ物や飲み物が振る舞われる。身近な材料で人物や世相を表す見立細工、市中パレード、物産市なども行われる。弘法大師への供養が境内の内側だけで完結せず、町の人々が参拝者を迎える行事へ広がっている。
日々の願いと供養を受け止める境内
境内には大師本堂や山門上の鐘楼があり、弘法大師への祈願と供養が続けられている。また、花塚・筆塚・髪塚が置かれ、それぞれの対象に感謝を捧げる供養も行われている。華やかな祭りだけでなく、使ったものや暮らしを支えたものへ手を合わせる場も設けられている。
祭りのない時期にも、毎月二十一日の縁日をはじめ、写経会や座禅会、各種の祈願が行われている。病気平癒、厄除け、家族の安全、子どもの成長など、その時々の不安や願いを持ち寄れるため、今山大師は特別な日にだけ訪れる寺ではなく、日常の暮らしに近い祈りの場となった。
疫病から始まった祈りが町を結ぶ
今山大師の始まりにあったのは、疾病を鎮めようとする疫病退散への願いだった。しかし、人々が弘法大師へ託したものは、病が収まることだけではない。家族が無事に暮らし、作物が実り、城下の商いが続くことまで含まれていた。
その祈りは、大師堂や銅像の建立、大師祭を通して延岡の暮らしへ広がった。寺を守る人、祭りで接待する人、商店街で催しを支える人、参道を上る人が関わることで、個人の願いが町全体で分かち合われるようになった。
延岡の暮らしに近いお大師さん
今山大師が地域で親しまれてきた理由は、寺が駅や商店街に近いことだけではない。病気や家族、仕事への不安を抱えたまま山へ上り、弘法大師へ手を合わせた後、再び日常へ戻れる関係が保たれてきたからだ。
高さ17メートルの銅像も、春に町を挙げて行われる祭りも、町の大師信仰を支える人々がいたからこそ続いている。宮崎県・今山大師は、山上にありながら市街地から離れず、延岡の人々が願いや感謝を持ち寄る場所として受け継がれてきたのである。
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