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一乗谷と朝倉氏の城下町

福井市の一乗谷には、戦国大名朝倉氏が築いた城下町の跡が谷全体に残る。館や山城だけでなく、武家屋敷、町屋、寺院、道路、庭園をたどると、越前支配の拠点となった理由と、職人や商人が支えた暮らしが分かる。

福井県福井市の一乗谷朝倉氏遺跡は、市街地の南東に広がる山あいにある。戦国時代、現在の福井県北部を中心とする越前国を治めた朝倉氏は、この細長い谷に当主の館、家臣の屋敷、町屋、寺院、庭園を集め、政治と暮らしの中心を築いた。

一乗谷という名から、山上の城だけを思い浮かべるかもしれない。しかし、遺跡の中心にあるのは、当主だけでなく、家臣、商人、職人、僧侶らが暮らした城下町そのものだ。なぜ朝倉氏は平野ではなく谷を選び、どのように町を守り、営んだのか。発掘で明らかになった町の姿から、その答えをたどる。

朝倉氏が一乗谷を選んだ理由

朝倉氏は但馬国朝倉庄を名字の地とし、南北朝時代に越前守護の斯波氏に従って越前へ入った。応仁の乱が始まると、初代朝倉孝景は西軍の将として戦った後、東軍へ転じて越前支配を進めた。文明3年(1471)に越前で挙兵し、国内の対立勢力を退けていく。以後、朝倉氏は一乗谷を本拠とし、5代、100年余りにわたって越前を治めた。

朝倉孝景

一乗谷は東・西・南を山に囲まれ、北側には足羽川が流れている。敵が攻め込みにくい一方、北側の安波賀には川湊があり、川舟で物資や大陸由来の品を運ぶことができた。越前は京都に比較的近く、北陸や山陰へ向かう交通の要地でもある。最後の当主朝倉義景は、後に室町幕府第15代将軍となる足利義昭を一乗谷に迎えた。一乗谷は山中の隠れ里ではなく、京都の政治や文化と直接結ばれた拠点だった。

谷を守りに変えた城下町

城下町の北端には下城戸、そこから約1.7キロメートル南には上城戸が置かれ、両城戸の内側が城下町の中核となった。下城戸には現在も高さ約4メートル、長さ約38メートルの土塁が残る。入口の通路は外から町中を見通せないように折り曲げられていた。上城戸にも大きな土塁と堀が築かれ、町中の道路には曲がり角、丁字路、行き止まりが設けられていた。

朝倉氏の当主は谷底の館で政務を執り、東側の山上には有事に備えた一乗谷城を築いた。山の尾根には、兵を配置する曲輪や、敵の移動を妨げる竪堀が設けられ、周囲の山々にも支城が配置された。谷底の館、南北の城戸、山上の城を組み合わせることで、日常の政治を行う場所と、戦いに備える場所を同じ谷の中に配置していた。

一乗谷城跡

武家と職人が暮らした町

谷の中心には、当主の住まいであり、政務や客人を迎える場でもあった朝倉館が置かれた。その周囲には一族や重臣の武家屋敷が並び、道路沿いには商人や職人の町屋が集まった。山際には40を超える寺院があったとされる。館や寺院に造られた庭園からは、祈りだけでなく、歌会や茶の湯など、客人をもてなす文化も大切にされていたことが分かる。

発掘された町屋跡からは、越前焼の大甕を並べた紺屋、水晶の数珠玉を作る職人、鋳物師、檜物師、鍛冶職人らの仕事場が確認されている。火縄銃の部品や300点を超える鉛の弾丸、薬の調合道具、医学書の一部も見つかった。職業ごとに町を分けた近世の城下町とは異なり、一乗谷ではさまざまな店や工房が隣り合っていた。朝倉氏の政治や軍事は、品物を作り、売買し、武家と町の暮らしを支えた人々によって成り立っていた。

焼失した町を発掘で取り戻す

天正元年(1573)、近江から越前へ退いた朝倉義景の軍は、刀根坂で織田信長の軍に追撃され、多くの将兵を失った。義景は一乗谷へ戻ったものの、まもなく大野郡へ逃れ、一族の朝倉景鏡に背かれて自害した。記録には、信長方が一乗谷の町に火を放ち、三日三晩にわたって焼き払ったとある。こうして、朝倉氏5代の越前支配と、朝倉氏の城下町としての一乗谷は終わりを迎えた。

本格的な発掘調査は1967年に始まり、1971年には278ヘクタールが国の特別史跡に指定された。1991年には4つの庭園からなる一乗谷朝倉氏庭園が国の特別名勝となり、2007年には出土品2,343点が重要文化財に指定されている。現在の復原町並は、戦国時代の建物がそのまま残ったものではない。発掘された道路、屋敷割、礎石、井戸などを基に、武家屋敷や町屋が並んでいた空間を立体的に復原したものだ。

谷に集められた政治と暮らし

朝倉氏は城戸の内に、命令を出す当主の館、家臣が暮らす屋敷、物を作って売る町屋、祈りや供養を担う寺院を配置し、それらを道路で結んだ。守りやすい谷を選んだだけではない。越前を治めるために必要な人と仕事を一か所に集め、政治、軍事、商業、信仰を同じ町の中で動かしていた。

染め物を作る者、数珠を仕上げる者、鉄砲の部品や弾丸を作る者、病を診る者、死者を弔う者まで、町を支えた人々の仕事が発掘によって確かめられている。戦国城下町は武将だけが暮らす場所ではなく、武士、商人、職人、医師、僧侶らがそれぞれの役割を担うことで成り立つ町だった。

焼けた町が福井の記憶になるまで

城下町の建物は焼失したが、一乗谷川に沿って造られた道路、土塁、石垣、礎石、井戸、庭園の石組み、生活道具は地上や地中に残った。その後、多くの土地が田畑となり、大規模な市街地に造り替えられなかったため、道路や屋敷割を含む戦国時代の町の跡がまとまって保存された。

城戸を抜け、復原された町屋を歩き、一乗谷朝倉氏庭園の石組みを見ると、一乗谷が防御だけを目的とした谷ではなかったことが分かる。朝倉氏がなぜこの谷を選び、どのような人々が越前支配を支えたのかを、実際の遺構から確かめられる。一乗谷は朝倉氏の滅亡だけでなく、一つの城下町がどのように築かれ、営まれていたのかを伝える福井の歴史である。

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