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米どころ越後と北前船の栄華

越後国は、豊かな水と平野を土台に米づくりを広げ、やがて日本海側を代表する港と結びついて力を持った。
そこを追うと、北前船新潟湊の繁栄が、米どころの歴史を海運と商いの歴史へ押し広げた流れが見えてくる。

新潟県の歴史を考えるとき、山や雪より先に見えてくるのが、広い田と海へ開く港の結びつきになる。
越後の米は内陸だけで完結せず、新潟湊から信濃川の水運とつながり、日本海交易の一部として動いていた。

そのため新潟の近世は、田が豊かだった話だけでは終わらない。
米が集まり、船で運ばれ、港町で売買される流れまで見ると、越後の力がどこで形になったのかが分かりやすくなる。

越後はなぜ米どころになったか

越後が米どころになった土台には、広く低い越後平野と、上流から雪解け水を運ぶ信濃川や阿賀野川の存在がある。
新潟県の米づくり案内でも、これらの川が肥沃な粘土質の土壌と豊かな用水を平野部にもたらしたことが、稲作の発達を支えたと説明されている。

越後平野

その条件の上で県内各地に米づくりが広がり、新潟の食文化はいつの時代も米とともにあったと農林水産省は整理している。
つまり越後は、作物の産地というだけでなく、暮らしそのものが米どころとして積み重なった土地だった。

新潟湊はどう物流の拠点になったか

新潟の港の古さは、927年の延喜式に越後国の国津として記された蒲原津までさかのぼる。
新潟市の港史では、この港が敦賀を経て京都へ貢納物を運ぶ積出港の役目を担ったと説明されている。

江戸時代に入ると、信濃川河口の町は新潟湊としてにぎわいを増し、のちには江戸時代から物流拠点の機能を生かして栄えた町だと新潟市自身が位置づけている。
米や物資が集まる港になったことで、越後の豊かさは海の商いと切り離せなくなった。

河村瑞賢と北前船は何を変えたか

1672年、河村瑞賢は幕府の命を受け、お米や大豆を下関経由で大阪・江戸へ運ぶ西回り航路の安全性を高めた。
国立国会図書館の展示解説でも、この航路整備が米を年貢として大量輸送する時代の全国的な海運を押し広げたと説明されている。

河村瑞賢

その後、日本海沿岸の港は広く結ばれ、新潟町は多くの廻船が行き交う繁華な港町として発展した。
北前船は自ら商品を仕入れて運び売る商いで利益を上げたため、越後の米や産物も、そのネットワークの中で広い商圏へ結びついていった。

米と湊の繁栄は何を今へ残したか

湊の繁栄が今に見えやすいのは、北前船に関わる廻船問屋の歴史が具体の文化財として残っているからになる。
新潟市の案内では、旧小澤家住宅は廻船業にも携わった商家であり、白山神社所蔵の大船絵馬には御城米積み出しの風景が描かれている。

旧小澤家住宅

さらに北前船の隆盛は古町の花街や湊祭・住吉祭の由来にもつながり、港のにぎわいを町の文化へ押し広げた。
新潟の歴史を見る面白さは、米と船が通ったあとに、商家、祭り、芸能まで重なって残っているところにある。

米と船が同じ歴史を動かした

越後の強さは、田の広さだけでも、船の数だけでも語れない。
年貢米新潟湊へ集まり、そこから日本海へ開いたことで、県の歴史は米どころと港町の両方の顔を持つようになった。

田と海を一緒に見ると新潟が深くなる

この回の核心は、新潟県の歴史を農業史と海運史に分けず、同じ流れとして読むところにある。
そこを押さえると、越後国の豊かさは田だけでなく港でも形になり、日本海交易の中で県の個性が育ったことが見えやすくなる。

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