蘇我氏と物部氏の対立──蘇我馬子はなぜ仏教受容に賭けたのか
蘇我馬子は、父・稲目から仏教受容の立場を受け継ぎ、物部守屋との争いの後、本格的な寺院である飛鳥寺の造営を進めた。ただし、彼の内心を直接伝える史料はない。仏教受容を選び続けた行動から、信仰・外交・王権を結ぶ判断の意味を考える。
蘇我氏と物部氏の対立は、仏教に賛成した蘇我氏と、反対した物部氏の争いとして語られやすい。たしかに、仏教を朝廷で認めるかどうかは大きな争点だった。
しかし、587年の武力衝突は、宗教上の意見だけから起きたわけではない。用明天皇の死後、誰を次の大王に立てるのかという問題と、有力豪族の主導権争いが重なっていた。蘇我馬子と物部守屋は、仏教だけでなく、王位継承をめぐっても異なる側に立った。
そのため、馬子が仏教を選んだ理由を考えるには、信仰だけを見るのでは足りない。父から受け継いだ立場、朝鮮半島との交流、王族との関係、寺院造営によって生まれる新しい仕組みまで含めて、その行動を追う必要がある。
蘇我馬子はどんな時代に立っていたのか
蘇我馬子が大臣となった時代には、仏教公伝をめぐって生じた対立がまだ続いていた。『日本書紀』では、百済からもたらされた仏像や経典を受け入れるかどうかをめぐり、蘇我氏と物部氏・中臣氏が異なる意見を示したと伝えられている。
馬子の父である蘇我稲目は、仏像を預かって礼拝した人物として描かれる。馬子もその立場を受け継ぎ、私的な礼拝にとどまらず、寺院を建てて仏教を定着させようとした。ただし、『日本書紀』の仏教伝来記事には後世の仏教的な表現も含まれており、記述のすべてを当時の出来事そのものとして受け取ることには注意が必要だ。
さらに、馬子は大臣として朝廷政治に深く関わっていた。用明天皇が亡くなると、王位継承をめぐる対立が表面化する。守屋は穴穂部皇子に近く、馬子は後に崇峻天皇となる泊瀬部皇子を支えたとされる。仏教をめぐる意見の違いは、次の大王を誰が支えるのかという問題と結びついていった。
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