栃木県・宇都宮城跡──街に残る土塁
宇都宮城跡は、栃木県宇都宮市の中心部に残る城跡だ。
建物の多くは失われたが、復元された土塁と堀をたどると、宇都宮氏の本拠、江戸時代の藩政、戊辰戦争の傷までが街の中に見えてくる。
栃木県宇都宮市の中心部に、宇都宮城跡はある。
現在は宇都宮城址公園として整備され、復元された土塁や堀、清明台、富士見櫓が街の中に姿を見せている。
この城を読むとき、天守の有無だけを追うと見誤る。
宇都宮城は中世には宇都宮氏の本拠であり、江戸時代には譜代大名の城となった。
さらに幕末には、戊辰戦争の戦場にもなった。
宇都宮市の解説でも、城は戊辰戦争で建物の大半を焼失したと説明されている。
その後、堀も埋められ、かつての面影は少なくなっていった。
宇都宮氏の本拠だった城
宇都宮城の始まりは、11世紀の平安時代に、藤原秀郷または藤原宗円が築いたと伝えられる。
はっきり一人に決めきれない部分はある。
それでも、この城が長く地域の政治と文化を支える拠点だったことは確かだ。
宇都宮城址公園の解説でも、宇都宮城は約900年にわたり、宇都宮の政治と文化の中心だったと紹介されている。
中世になると、宇都宮城は宇都宮氏の居城として重みを持った。
宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力御家人だった。
5代宇都宮頼綱は、百人一首の成立にも関わった人物として知られる。
城は武力だけの場所ではなく、下野国の支配と文化を支える本拠でもあった。

江戸時代の城と日光社参
近世に入ると、宇都宮城は譜代大名の居城となった。
なかでも本多正純は、城と城下町の大改造を行った人物として説明されている。
その整備は、現在の宇都宮中心市街地の骨格にもつながっている。
江戸時代の宇都宮城には、もう一つ大きな役割があった。
将軍が日光東照宮へ参拝する日光社参の際、宇都宮城は宿泊場所になった。
本丸には、将軍のための御成御殿も置かれた。
つまりこの城は、藩の政庁であると同時に、幕府の威信を通す場所でもあった。
宇都宮城は、地域を治める城でありながら、江戸幕府の大きな儀礼にも関わる城だった。
戊辰戦争で焼けた城
宇都宮城の歴史に大きな傷を残したのが、1868年の戊辰戦争である。
旧幕府軍と新政府軍が宇都宮をめぐって戦い、宇都宮城の戦いによって城の建物の大半が焼失した。
宇都宮市は、戊辰戦争で建物の大半が焼け、堀も次第に埋められたと説明している。
そのため、当時の面影はほとんど失われていった。
この焼失は、城だけの問題ではなかった。
戦のあと、城跡は払い下げや市街地化の中で姿を変えた。
建物の焼失に加えて、堀や土塁も削られていった。
栃木県教育委員会の解説でも、明治期以後に堀や土塁が埋め立てられたり、削られたりしたとされる。
宇都宮城をしのぶものは、ほとんど姿を消した。
城の消失は、街の再編と一体で進んだ。
土塁と堀が街に残す輪郭
現在の宇都宮城址公園は、江戸時代中期の本丸の一部を復元した公園である。
園内には、発掘調査や歴史資料をもとに復元された土塁、堀、清明台、富士見櫓がある。
歴史資料館の清明館も置かれている。

ここで重要なのは、復元された姿をただ新しい施設として見ないことだ。
堀の線や土塁の高さをたどると、かつて城が街の中でどのような輪郭を持っていたのかが分かる。
復元された清明台や富士見櫓は、失われた城の全体を完全に戻すものではない。
しかし、街に埋もれた城の記憶を、見える形にしている。
街の中に残る守りの線
宇都宮城跡の重みは、立派な天守が残っていることではない。
街の中に、城の輪郭を読み取れる点にある。
街の記憶として残る土塁と堀は、宇都宮氏の時代、江戸時代の藩政、戊辰戦争後の変化を一つにつないでいる。
復元された公園を歩くと、宇都宮城が消えた城ではなく、姿を変えて街の中に残った城だと分かる。
宇都宮城跡は、完全な古城ではない。
だからこそ、失われたものと残されたものの両方を考えさせる場所になっている。
土塁が示す宇都宮の時間
この回の核心は、宇都宮城跡を「復元された公園」としてだけ見ないところにある。
街の中に残る歴史の輪郭として読むと、この場所の意味は見えやすくなる。
土塁は小さく見えても、かつてそこに城があり、人の動きと政治が集まっていたことを示している。
宇都宮城は、宇都宮氏の本拠から譜代大名の城へ変わり、日光社参を支えた。
そして最後は、戊辰戦争の中で大きく傷ついた。
今の城下町に残る土と堀の線をたどると、宇都宮という街が城とともに形を変えてきたことが見えてくる。
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