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武蔵野台地と近代都市化の歩み

武蔵野台地の上に広がった埼玉の近代は、農村の延長としてではなく、鉄道と都市の結びつきで大きく形を変えていった。
そこを追うと、埼玉県は川越・浦和・大宮を軸に、東京近郊の都市県へ歩みを進めたことが見えてくる。

埼玉の近代史は、山に閉じた地方の近代化とは少し違う。
東京に接する武蔵国の一部として、台地と低地の上に町が広がり、鉄道が通るたびに暮らしの重心が動いていった。

その流れを人物で見ると渋沢栄一が立ち、都市で見ると川越・浦和・大宮が並ぶ。
だから埼玉の近代史は、一つの城下町の物語ではなく、地形と交通が何度も町の役目を書き換えた歴史として読むと分かりやすい。

武蔵野台地はなぜ近代化の土台になったか

埼玉の中央部から南西部にかけては武蔵野台地が広がり、その地表は関東ローム層に覆われている。
埼玉県の説明では、この台地は中世以来しばらく広い原野のまま残り、飲み水も得にくかったため、近世初期まで大規模な開発が進みにくかった。

関東ローム

だが、徳川氏の関東入国後、河川改修や用排水の整備が進むと、低地の開発に加えて台地側でも新田開発が広がった。
近代の都市化は鉄道から一気に始まったように見えやすいが、その前提には、まず台地を生活の場へ変えていった長い開発の積み重ねがあった。

鉄道は浦和・大宮・川越をどう変えたか

近代の埼玉で町の役目をはっきり変えたのは鉄道だった。
1883年に浦和駅が開業すると、浦和は県庁所在地であることに加えて、停車場のある町として発展した。
さらに1885年に大宮駅が高崎線と東北線の分岐点として開業すると、鉄道工場や事務所、運送業者が集まる鉄道の町へ変わっていった。

一方の川越でも、1895年開業の川越鉄道と1914年開業の東上鉄道が流通網を広げ、町の発展を押し進めた。
県都の浦和、鉄道の結節点となった大宮、流通で勢いを増した川越が並んだことで、埼玉の近代都市化は一つの中心に集まるのではなく、複数の町が別々の役目を持ちながら進んでいった。

川越鉄道

渋沢栄一と近代埼玉はどうつながるか

埼玉の近代を人物で見たとき、外しにくいのが渋沢栄一になる。
栄一は1840年、現在の深谷市血洗島に生まれ、明治以後の日本経済の発展に大きく関わったと埼玉県は紹介している。

渋沢栄一

とくに大きいのは、栄一が生涯に約500の企業育成と約600の社会公共事業に関わった人物として、県の外へ伸びながら埼玉の名を背負った点にある。
埼玉の近代は、鉄道や住宅地の広がりだけでなく、近代日本経済の父と呼ばれる人物を生んだ土地として見ると、地元の変化と全国の変化がつながって見えやすくなる。

東京近郊の住宅地化は何を残したか

鉄道が町を変えた流れは、やがて埼玉を京浜東北線や幹線鉄道沿いの通勤圏へ組み込んでいく。
埼玉県立歴史と民俗の博物館の解説では、1932年に赤羽・大宮間が電化されると、大宮は東京への通勤・通学圏内の町として強く意識されるようになった。

さらに、さいたま市の関連資料では、浦和から大宮にかけての地域で郊外住宅地化が早く進んだことが示されている。
つまり埼玉の住宅地化は、戦後に突然始まったのではなく、県庁所在地、鉄道の分岐点、近郊の生活圏という条件が近代のうちに重なった結果として育っていったと読める。

台地の上で町の役目が入れ替わる

埼玉の近代の面白さは、鉄道が通るたびに台地の上の町の役目が入れ替わっていくところにある。
だから台地の地形と駅の位置を一緒に見ると、川越・浦和・大宮がそれぞれ違う顔で伸びた理由が見えやすくなる。

東京の隣で終わらない近代

この回の核心は、埼玉県の近代を東京の隣としてだけでなく、武蔵野台地の開発、鉄道の結節、渋沢栄一のような人物の広がりが重なった歴史として読むところにある。
そこを押さえると、埼玉は近代の通過点ではなく、地形と交通が何度も町を作り替えた地域だったことが分かりやすくなる。

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