【わかりやすい高遊外 売茶翁の偈#5】
『対客言志』において売茶翁は、
「是レ余ガ素懐(そかい)ニ愜(かな)ヘリ、売茶ハ児女独夫ノ所業ニシテ、世ノ最賎(もっともせん)スル所《もっともいやしいとするところ》ナリ、人ノ賎スル所、我レコレヲ貴(たふと)シトス、即 吾(わ)ガ吾レヲ快(こころよ)シトスル所以(ゆえん)ノ者ナリ《お茶を売ることが私にには貴く、快いものに感じられます》。」
「余云ク、苟(いやしく)モ取捨好悪(しゆしやかうを)ノ心ヲ泯(なく)セバ、屠家婬室(とかいんしつ)ノ施財(せざい)モ、悉(ことごと)ク正命清浄ノ物ニシテ、何ゾ浄穢(じやうえ)ノ相ヲ見ン《仏教修行を本当に行い、好悪の心を相対化することができたならば、全ての施し物が清浄なものになることはよく理解できる》。」
然リトイエドモ、如上(じょじやう)ノ説話、畢竟是(ひっきやうこ)レ眼中ノ翳(かげ)ナリ《とはいうものの自活の問題は、いわば私にとって眼の中にあって、どうしても取れないゴミのようなものである》。」
「若シ此ノ翳を脱得(だつとく)セバ、長河ヲ撹(まぜ)テ酥酪(そらく)ト成シ、大地ヲ変ジテ黄金ト作(な)スモ分外ニアラズ《もし眼中の翳を取り去ることができるのであれば、長河を酥酪となし、大地を黄金にするというように、何事もできないことはないのだが》」、余未此翳ヲ除クコトヲ得ズ《私は、いまだにこの翳を取り除くことができないままでいる》」といっております。この告白こそが売茶翁たる所以であります。売茶翁は嘘をつきません。自活の問題が仏道修行の上で、永遠の絶対矛盾の問題である以上、私にはどうすることも出来ないのだ。だから私は一番快しとするお茶で自活を得ることを選んだのだと主張していたのです。
