初めての村上龍 『限りなく透明に近いブルー』
著者:村上龍(むらかみ・りゅう)
初版発行:1976年
出版社:講談社
受賞歴:第75回芥川賞受賞(1976年)
あらすじ:
1970年代の米軍基地の町・福生(ふっさ)を舞台に、若者たちの退廃的な生活を描いた物語。ドラッグ、性、暴力といった衝撃的な描写が特徴で、主人公のリュウはその世界に身を置きながらも、どこか冷めた視線で日々を眺めている。登場人物たちは夢も希望も持てないまま、ただ刺激や破壊のなかに身を沈めていく。
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この本を読んでいる時、次のページを捲るのがしんどくてしんどくてこれ以上読み続けようか何回も悩んだ。
寝不足の頭で読むと更に気持ちの悪さが私を包んで、どうして自分がこれを読んでいるのか分からない、そういう気分にさせられるのだった。
でもこの本はそういう気分で読むのが正しいのではないか思った。この本の登場人物たちも同じような訳のわからない、たまらないような気分で自分の生活を送っているのだろうという気がしたからだ。
だからあえて体調が良くない時にこの物語を読んでいた。

この本の中で回っている世界はずっと異常なはずであるのに、淡々と進み続ける感じ。登場人物全員がそれを受け入れているのか、もしくはその異常性を正しく認識することができないのか。
おそらく彼らは自分たちの現実を正しく理解しているはずである。だからこそ彼らは無視しなければならなかったのだろう。無視し続ける間に彼らおかしな世界を作り出す一員となり、無意識のうちに自分たちを自ら傷つけ破壊していく。
私がそういう彼らを見ていてしんどいと感じたのはその描写のえぐさからではないと認識している。おそらく生々しくその異常な描写の中から自分の現実が顔を出したからだろう。
誰の日常にも潜んでいるであろうあの不快感が存分に与えられる。人生で感じられる嫌悪感をこの本一つが大体紹介してくれている。そしてこの世界におけるそれらの現実は私を捉えて離さなかった。
暴力で満ちているこの作品、暴力なんてどこにも存在していないように見える私の現実。けれど、直接的には何もされていなくてもいつでも人から与えられる痛みを感じている。
暴力的な感情を向けられていることはいつでもわかる。感情をかき乱す。顔面にヒヤッとする気味の悪い風があたったと思う。脳にも伝わる。頭が間接的に冷やされてどうすればいいかわからない。直せない。人はまたどうにかしようとする。拒む。相手は自分の頭の中で私の胸ぐらを掴む。胸ぐらよりももっと奥にあるものを潰そうとする。私は相手の腕に噛み付く。
主人公リュウの頭の中を表す文章の中での、彼の周りに存在しているものに対する言葉からは彼自身の何となくの嫌悪感が漂っているように感じられた。
そしてそれ自体の描写もリアルで丁寧で、真摯ささえ感じられた。しかし人を見ている時の彼の脳内で語られる文章には、無関心さがむき出しであり、それは面白くない映画を自ら見ることを選んで退屈しているような感じだ。ただ場面が移り変わるのを待っている。
リュウはそんな現実に満足いっているのか。いや、そんなはずはない。リュウやめてくれ。このままでいいはずがない。このままで終わってしまうのか。ダメだ。
だからリュウは鳥を殺したかったのだ。あり得ていいはずのない現実を、訳のわからない現実を、含ませてしまった全ての違和感を、取り除くために!
見えてしまうものをいつでも見えないことには出来ないのだった。全てを見ようとすればするほど、綺麗に見えるものがあった。誰かの暴力的な感情を感じれば感じるほど、優しく見える顔があった。暴力によって生まれる何かがあるとすれば、それは次の暴力と、皮肉なことに人生への希望であった。
そしてその希望は、限りなく透明に近いブルーという色をしているのだった。
