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サンサーラとの25年 11 IBM「PS FEEL」の創刊と大和研究所通いのころ

 IBMのパソコン販売戦略の提案コンペで、電通・博報堂と戦うと聞いて、これは勝てるかもしれないと思った、と前回書きました。理由は3つ、1つめは、IBM自身が、メインフレームの商売から、パーソナルユースのパソコンへのビジネスマインドの転換ができていなかったこと。2つ目は、だから当時IBMが国内向けに発売したパソコン5550の広告戦略が的外れだったこと。3つめは、私が宝島で作った『機械オンチに捧げるパソコンブック』で、新しいパソコンユーザーの心を知っていたから。

時代とかみ合わなくなっていた5550


 IBMのこれまでのメインフレームの顧客は、基本大企業の管理部門の人たちと、経営者だった。それがインテルの半導体の高性能化で、小型でもワークステーションなみの性能をもつPCが誕生して、しかもDOS言語が共通化されて、プログラミングも容易になった。そこに関心をもつのは、直接自分の業務に使いたい、圧倒的に若い世代だ。ところが、IBMは依然として企業の管理部門のおじさんをターゲットにしていた。だから渥美清のトラさんをつかって、「時は熟した」とかやっていた。当然販売成績はパッとしなかった。

5550のイメージキャラクターは渥美清(寅さん)


 IBM社内でも、さすがにこれはまずいと思った人たちがいた。それで、オープンコンペになった。そしてこのコンペの責任者が女性の取締役の内永ゆか子さんだったことが大きい。だから澤登信子さんにも声がかかった。
 私が提案したことは、広く浅く広告を打つのではなく、現在のIBMユーザーのなかに強固なIBMのフアンを作りましょう、ということ。そこを固めてファンクラブ化して、その人たちの力を借りて、これから展開しょうとしているIBMソリューションの丁寧で親切な解説を行い、その人たちに使ってもらい、その企業の内部で販促しようということでした。
 そのためには、まず情報誌を発行しましょう、とまあ、結局は得意なとこに落とすのですが。
 IBM社内でどんな議論が行われたかは知らない。しかし、結果、私の提案が採用された。
その結果を内永さんが直接私の電話に伝えてくれた。そして「お願いします」と丁重な挨拶をしてくださった。きっと、彼女の中でも賭ける部分があったと思う。電・博をけって、名も知らない連中に任せることに、きっと社内でも抵抗があったと思うし。
 当然、澤登さんは大喜びで、私も、これで多少の恩返しができたかと。かなりの額の契約金だったと思う。

IBMの大和研究所通いが始まる
 その当時、つまり1992年あたり、日本IBMの研究部門は田園都市線の終着駅の東林間にあって、ここに通うのは一日仕事でしたが、それも楽しかった。しかし、一抹の不安もあった。多少パソコンの知識はあるといっても、相手は天下のIBMの研究所の人たち、この人たちと情報誌の企画を作らなければならない。ここで、彼らにこの人は、コンピュータをわかったふりはしているが、底は浅いと見抜かれるのは時間の問題。それ以降の関係性がここから始まってしまうのはまずい。
 そんな心配を抱えて、とりあえず河津くんといっしょに研究所に行きました。ところがこれが大正解。河津くんは高専でロボットのプログラミングをやっていた。
 先方の研究員の人と挨拶もそこそこに、よもやま話に、パソコン周りの噂話。まあ、マウントの取り合い。そこで河津くん、お見事。相手を立てて、さりげなくこちらの立場をアピールする手際、そしてすぐに相手と仲良くなる人柄のよさ。
 こうして、私の企画した情報誌「PS FEEL」が、IBMの大和研究所の方達の深い知識と、私たちの編集技術の結晶として誕生しました。

PS FEEL表紙


 


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