東京レディコング秘話 1 幻の女性向け夕刊紙は、バブル時代の徒花だったのか? ―なぜ、女性向けの夕刊紙なんて、考えたのか
私が創刊して、僅か3ヶ月で休刊した、女性も読める夕刊紙「東京レディコング」について、お話しましょう。
「東京レディコング」とは何だったのか
「東京レディコング」というのは、その名の通り、女性向けの夕刊紙です。レディコングという名前は、女性のキングコングという意味なんですが、現在から見たら、どうでしょうね。最初にこの名前を提案したのは電通でしたが、いかにも、あの時代の発想ですよね。博報堂はもっと女性ぽい「桜新聞」とか、それっぽい提案でしたけど、やっぱり電通は乱暴だけど、一発抜けてると思って、決めました。
創刊準備を始めたのは1990年、あるいは89年の終わりぐらいからだったかもしれません。そこから1年以上、創刊準備をして、1991年11月27日に創刊した。
そして、翌年のバレンタインデーの日に休刊しました。
本当に短命で、あっという間に消えてしまった媒体だったんですけれども、当時、話題にはなったんですね。
今日は、その話を少ししてみたいと思います。
なぜ、そんな企画が成立したのか
まず、そもそもどうしてあの当時、女性向けの夕刊新聞なんていうものが、売れたかどうかはともかく、企画として成立して、資金が集まり、創刊まで行けたのか。そこから話した方がいいと思うんですね。
これは、日本のバブル経済の時に、メディア業界で何が起こっていたのか、その一つの実例になると思います。
当時、私はそれ以前は宝島という出版社にいて、『別冊宝島』とか、自分のガイドブック・シリーズとかをやっていたんですね。そこを退社して自分の会社を作ったんです。
編集者同士のつながりが
その段階でたくさんの仲間がいたわけです。
いちばんの親友だったのが、当時ダイヤモンドにいた岩田くん、通称ガンちゃんですね。ダイヤモンドには『BOX』というちょっと面白い雑誌があって、編集者同士いろんな意味で付き合いがあった。一緒に遊んだり、飲んだり、そんな関係が続いていた。まだ若造ですから、いろんなところで夜中まで酒を飲んで騒いでいる。
そういう中から、「俺たちもそろそろ何かやろうぜ」という話が出てくるわけです。
海外のシティ・ペーパーのようなものを東京で
その頃、みんな結構海外旅行をしていましたから、ニューヨークとかパリとかで、シティ・ペーパーというか、その街の中で「今週こんなことがある」「今週はこんなファッションショーがある」といった情報を載せた新聞が出ているのを見ていたわけです。多くは夕刊紙でしたね。デザインもオシャレで、ファション広告も載っていて、女性がメイン読者であることがわかります。記事も、いわゆる社交欄がメインで、どこそこのパーティにはだれがどんなスタイルできていたとか、新しくできたレストランのオープニングパーティの料理を、レポーターが論評したり、当然、お芝居、映画の批評ページが、有名なコラムニストの記事で構成されていたりした。
「東京にも、こういうものが欲しいよね」という話になった。
当時は、原宿を中心に女性ファッションブランドが元気いっぱい時代ですし、女性の消費動向が注目されていた。バブル経済は女性が牽引してきたとまで言われた。
だから、大げさに言えば、「女性」という冠を付けて企画提案を作ればすれば、とにかく投資資金は出てくる。そういう時代だったんですね。
女性向けでありながら、男も読める夕刊紙
そこで私は、紙面デザインは女性向けの媒体なんだけれども、実はユニセックスで、男も読める、コラム記事中心の夕刊新聞ができたら面白いんじゃないか、という話を周りにしたわけです。
すると、「それは面白いね」ということになった。
当時というか、今でもそうですが、日本の夕刊紙というのは、タブロイド判で、印刷も汚くて、おっさん向けの競馬だの風俗情報だのが多くて、当時の自分たちが買いたいと思うようなものではなかったわけです。
だから、自分たちのための夕刊新聞が欲しい、という気持ちもそこにはあった。
女の人も読めるし、男も読める。東京都いう都市でおこる様々な話題を共有できる。そういうメディアが欲しいと思ったんですね。
バブル期には、意外なところから金が集まった
それをいろんなところに話していくと、意外なところから「面白いですね、創刊資金を出しましょうか」という話が、あっという間に出てくる。
本当にね、バブルの頃って面白かった。
声をかけてきたのは、みんなノンバンクとか証券会社とか、つまりそれまでメディアとはあまり関係のなかった金融系の人たちだったんですよ。
これはすごく象徴的だと思うんですね。
それまで出版業界とか新聞業界って、割と閉鎖的だったわけです。たとえば講談社が株式公開をしていない、というようなことも含めて、外の資本が入りにくい世界だった。その意味でも、ちょっと特権的な業界だった。
でも、金融系の人たちも、メディアに進出したいという思いを持っていた。
特に熱心だったのがOコーポレーションでした。じゃあ何のために女性マーケットに注目したのかといえば、カード事業ですよ。女性たちに金を貸したかったわけです。
だから、その女性市場につながる新聞という媒体が、ものすごく魅力的に見えた。
ほかのノンバンクもそうでした。
1か月でまとまった7社出資
結局、大きなところが7社、「資金を出します」という話になった。
しかも、たしか1か月ぐらいで話がまとまったと思いますよ。
もちろん、みんな単純に面白いから金を出すわけじゃない。女性マーケットに紐づけて、金融商品やカード事業に結びつけて、新しいネットワークでの事業展開したいという思惑があったわけです。
こちらもそれは分かっていた。
だから、むしろ「こういう紙媒体を作りましょう」「それだけではなく、当時は携帯電話が出てくるころ頃ですから、「携帯電話と紙媒体と金融をどう結びつけるか」という話をした。
そうすると、みんな大喜びなわけですね。

ダミーを作り、あっという間に資金が集まる
最初は、こういうダミーをたくさん作ったんですけれども、あっという間に企画書ができあがって、「よし、じゃあやろう」ということになった。
最初のスタートアップ資金は、当時4000万円でしたね。関係者、もちろん私も出資して4000万円が、あっという間に集まった。
もちろん創刊には、これで足りる訳がないので、最終的な必要資金は8億円と計算したんです。
広告に頼らない、という発想
どういう計算をしたかというと、まず広告収入に頼らないでやろう、そう考えたんです。当時、バブル経済の末期ですが、誰もそんなこと思っていなかった。雑誌の創刊も続き、みんな元気なアパレル広告収入を期待していた。でも、私は、これは難しいと思いました。なぜかといえば、印刷の制約で当初予定した、オフセット印刷が無理で、従来通りのタブロイド輪転印刷しかできなかった。するとどうしても印刷が汚い。写真のクオリティが大切なアパレル広告は、これで苦労することがわかっていました。もし広告費を過大に計算したら、成立しない。
ただ、希望は日刊新聞は日銭商売だということでした。定価100円で売ったとして、流通経費、印刷費、制作原価を引いて30円くらいが利益とすると、仮に5000部販売できたとすると日銭15万、1ヶ月で400万くらいの純利益が確保できる。これが仮に月刊誌の場合だと5000部の販売では立ち行かない。やはり日刊という日銭商売は強いなと思いました。
なぜ5000部としたかというと、日刊ゲンダイの方から、自分たちも立ち上げのころは売れなかったと。でも5000部売れ始めてから、なんとかなったと。だから、そこまでは自力で耐えられる資金計画をつくった。すると広告費を当てにしないで、約10ヶ月耐える資金として8億必要だったんです。この8億を4年で回収する。この4年を耐えれば、あとは大丈夫と。
その資金が集まった。岩ちゃんが手帳を開いて、鉛筆ナメナメ、どこが幾ら、ここが幾らでと、ノンバンクの名前を並べて、嬉そうに言ってる姿を今でも思いだします。
