北日本文学賞に受かるための必要十分条件を、数学で本気で考えてみた。なお太宰治は反則とする
私は以前、北日本文学賞で四次選考まで残った。
しかし、最終選考には進めなかった。
かなり残った。
でも落ちた。
これが微妙なのである。
一次選考で落ちたなら、
「まだ全然足りなかった」
と考えやすい。
受賞したなら、
「届いた」
で終わる。
でも四次選考。
通用しなかったとは言い切れない。
かといって、受賞レベルだったとも言えない。
では次に受賞するには、何が必要なのだろうか。
「もっと面白い小説を書けばいい」
それはそうである。
あまりにもそうである。
しかし、
面白い小説とは何なのか。
どこまで面白ければ受賞するのか。
そこが分からない。
そこで今回は、小説を文学として考えるのを一度やめる。
集合論。
確率論。
統計学。
そういうものを無理やり持ち込んで、
「北日本文学賞を受賞するための必要十分条件を求めよ」
という数学の問題として考えてみたい。
なお、現在書いている作品についてはまだ出さない。
今は作品そのものを公開するより、その前の問題を考えたい。
そもそも「必要条件」「十分条件」って何だ
数学が苦手な人向けに、まずここから説明する。
例えば、
東大に合格した。
とする。
当然、
「東大を受験している」
ことは必要である。
受験していない人が、突然合格者名簿に載ることは普通ない。
つまり、
東大合格
→
東大を受験した
は成立する。
こういう、
結果が成立するために絶対必要な条件
を「必要条件」という。
でも、
東大を受験した
→
東大に合格した
ではない。
そんな大学だったら東大の倍率は1倍である。
だから「受験した」は必要条件だけれど、十分条件ではない。
十分条件は逆である
十分条件とは、
それを満たしたら結果まで行ける条件
である。
例えば暴論だが、
「全国模試で毎回ぶっちぎり1位、東大模試も全科目ほぼ満点で、当日も普通に実力を出した」
という人間がいたとする。
これは東大合格のかなり強い十分条件だろう。
もちろん現実には100%ではない。
試験当日に高熱を出すかもしれない。
交通事故に遭うかもしれない。
試験会場に隕石が落ちてくるかもしれない。
突然テロリストが侵入してきて試験どころではなくなる可能性も、数学的に完全な0とは私には証明できない。
そこまで言い始めたら何も100%とは言えない。
だから普通は、
「そんな異常事態を除けば、まず受かるだろ」
という条件を強い十分条件として考える。
大学教授を連れてくるという暴論
さらにひどい例を考える。
「東大数学で合格点を取る方法を教えてください」
と言われたとする。
そこで、
数学の大学教授を連れてくる。
これならかなり強い。
数学だけなら、さすがに解ける可能性は高い。
でも参考にならない。
受験生が知りたいのは、
「大学教授になれば解けます」
ではない。
どうやったら今の自分が解けるようになるかである。
もっとひどくすると、
その問題を作った東大教授本人を連れてくる。
もう終わりである。
答え知っているじゃん。
「東京大学の数学で高得点を取る十分条件を求めよ」
答え。
問題作成者を連れてくる。
数学的には強い。
実用性はゼロ。
今回の太宰治も、ほぼこれである。
文学賞でも同じことをやってみる
全応募作品をひとまとめにして、
「応募作品の集合」
と考える。
その中には、
規定違反の作品
一次で落ちる作品
二次まで進む作品
四次まで進む作品
最終選考へ行く作品
受賞する作品
が含まれている。
そして受賞作品は当然、
「応募規定を満たした作品」
の中に存在する。
つまり、
受賞した
→
応募規定を満たしている
である。
だから、
応募規定を守ることは必要条件。
しかし、
応募規定を守った
→
受賞する
ではない。
当たり前だ。
応募要項を完璧に読めば文学賞が取れるなら、文学より国語の説明文読解の方が重要になる。
「1位になる」は必要条件なのか
最初、私は、
「1位になることはかなり強い必要条件なのでは?」
と考えた。
でも違った。
入賞だけでなく選奨まで「受賞圏」とするなら、必ずしも1位になる必要はない。
2位相当でも選奨に入れば目的達成である。
だから、
受賞した
→
1位だった
とは限らない。
むしろ逆で、
本当に圧倒的1位なら、
1位だった
→
受賞する
の方が近い。
つまり1位は必要条件ではなく、
かなり強い十分条件側
なのである。
必要条件と十分条件、名前が似ていて人類を長年苦しめているが、向きが逆なのである。
ここで太宰治を召喚する
さて。
ここまで真面目に考えてきたが、もっと簡単な解法がある。
太宰治を召喚する。
終わり。
北日本文学賞の募集要項を渡す。
「この枚数です」
「未発表作品でお願いします」
「締切はここです」
と説明する。
そして、
「一本、本気で書いてください」
と頼む。
私は思う。
取るだろ。
さすがに。
これはもう、
「東大数学で高得点を取りたいので数学教授を連れてきました」
と同じ暴論である。
参考にならない。
だが強い。
太宰治を数式にするとどうなるのか
太宰治が本気で規定に合わせて書くことを D とする。
受賞することを W とする。
この記事では思考実験として、
P(受賞|太宰治)=100%
と置いてしまう。
つまり、
太宰治が書く
→
受賞する
と仮定する。
これは十分条件である。
非常に強い。
というより強すぎる。
ただし厳密な数学では、
受賞した
→
太宰治が書いた
ではない。
当然、太宰治以外も受賞できる。
だから、
「太宰治であること」は本当の意味での必要条件ではない。
しかし私は太宰治を「ほぼ必要十分条件」と呼びたい
数学的には間違っている。
分かっている。
でも感覚としては、それぐらい強いと思っている。
では、
太宰治でも落ちる状況
を考えてみよう。
何が必要なのか。
普通の応募者が相手では足りない。
普通の選考者でも足りない。
かなり状況を壊さないといけない。
太宰治を落とす方法
まず選考者を、
川端康成
にする。
さらに応募者一覧を見る。
そこに、
志賀直哉
がいる。
太宰治 vs 志賀直哉。
選考者・川端康成。
やっと少し怪しくなってきた。
もはや新人文学賞ではない。
日本近代文学のチャンピオンズリーグである。
ここまで条件を盛れば、
「太宰なら100%」
という仮定を疑ってもいい。
逆に言えば、
太宰治条件を崩すために、川端康成と志賀直哉まで召喚しないといけない。
それぐらい私は強い十分条件だと思っている。
東大で言えば、
「全国で一番頭のいい東大受験生なら受かる」
という話に近い。
そいつを落とそうとしたら、
交通事故。
隕石。
テロ。
試験中に何かとんでもない事件。
そのレベルの例外を持ってこなければならない。
つまり太宰治は、
文学賞版・隕石が落ちなければ受かる条件
なのである。
でもこれでは何の参考にもならない
ここが問題だ。
「文学賞を取るにはどうしたらいいですか?」
答え。
太宰治になってください。
終了。
役に立たない。
「東大数学で点を取りたいです」
答え。
数学教授になってください。
役に立たない。
「もっと確実にお願いします」
答え。
問題を作った教授本人になってください。
答え知ってるじゃん。
これが「強すぎる十分条件」の欠点である。
正しいかもしれない。
でも、
普通の人間がそこへどう行くかを全く説明していない。
文学賞には「合格最低点」が見えない
大学入試なら、まだ考えやすい。
例えば合格最低点が300点だったとする。
301点なら受かる。
299点なら落ちる。
境界が見える。
文学賞はそうではない。
仮に作品の評価を Q とする。
そして受賞ラインを T とする。
なら、
Q が T を超えれば受賞する。
ここまでは分かりやすい。
問題は、
T が分からない。
しかも毎年動く可能性がある。
なぜなら競合作品が変わるからだ。
今年、志賀直哉が応募してきたら嫌だ。
普通に嫌だ。
受賞ラインが突然とんでもない場所へ飛ぶ。
さらに選考者によっても評価は変わる。
つまり文学賞は、
「作品が70点なら受賞」
という固定された試験ではない。
そこで確率になる
絶対に受賞する条件が分からないなら、
次は確率で考える。
ある作品 X を書いたとき、
P(受賞|作品X)
つまり、
「この作品を出した場合の受賞確率」
を考える。
もちろん実際に何%なのかは分からない。
そんな便利な装置はない。
しかし発想としては使える。
目標は、
「100%受賞する作品を作る」
ではない。
それは太宰治召喚ルートである。
普通の人間がやるべきなのは、
今より受賞確率を上げること
になる。
私には一つだけデータがある
私には以前の応募作がある。
そして結果がある。
四次選考までは通った。
最終選考には進まなかった。
これを数学っぽく考える。
四次選考を突破する最低ラインを T4。
最終選考へ進む最低ラインを TF とする。
以前の作品の評価を Q0 とすれば、単純化すると、
T4 ≦ Q0 < TF
だったと考えられる。
要するに、
四次の線は超えた。
でも、
最終の線には届かなかった。
正確な点数は知らない。
でも、どの辺にいたのかという範囲だけは分かる。
これは意外と大事な情報である
以前の作品について、
「駄目だった」
だけで終わらせるのは雑である。
少なくとも四次まで残った。
なら、
「最初から全く評価されなかった作品」
ではない。
一方で、
「ほぼ受賞だった」
とも言えない。
そこまでの情報はない。
分かっているのは、
四次は通過した。最終には進まなかった。
それだけだ。
この「それだけ」を守ることがかなり重要である。
統計学を使うと、むしろ分からないことが増える
例えば、
「この作品は文章が良かったから四次まで行った」
と言いたくなる。
でも本当にそうか?
分からない。
人物かもしれない。
構成かもしれない。
題材かもしれない。
複数の組み合わせかもしれない。
あるいは自分が重要だと思っていない部分だったかもしれない。
なぜ分からないのか。
データが一作品しかないからである。
標本数は、
n=1。
一個。
統計学者が見たら静かに資料を閉じる数字である。
有意水準5%とか言ってみる
統計学には「有意水準」という考え方がある。
例えば5%。
ざっくり言えば、
「偶然だけでは説明しにくいと言える基準を、どこに置くか」
という話である。
では、
「この書き方をすると文学賞に通りやすい」
という仮説を検定できるか。
無理である。
データがない。
一作品を見て、
「p値0.03なので、この文体は文学賞に有効です」
とか言い始めたら、それは統計学ではない。
数字を使った占いである。
では統計学は役に立たないのか
逆である。
統計学を使うと、
何が分からないのかが分かる。
これはかなり重要だと思う。
四次まで進んだ。
これは事実。
なぜ進んだか。
分からない。
最終に進めなかった。
これは事実。
なぜ落ちたか。
分からない。
この区別をする。
それだけでも、かなり違う。
人間は結果を見ると、ものすごい勢いで原因を作りたがる。
でも結果が一つ出ただけでは、原因まで分かったことにはならない。
ベイズ的に考えるとどうなるか
難しそうな名前だが、考え方は単純である。
最初、
「自分の作品がどれくらい通用するのか分からない」
と思っていた。
そこへ、
四次選考まで進んだ
という新しい情報が入った。
なら、自分についての見方を少し更新していい。
少なくとも、
「何を書いても最初の選考で消える」
という考えは弱くなる。
でも、
「次は受賞できる」
まで行くのは飛躍である。
一つ情報が増えた。
だから考えを一段だけ更新する。
それがベイズ的な考え方に近い。
結局、求めるべきものは何なのか
ここまで考えて、一つ分かった。
本当に探すべきなのは、
受賞の必要十分条件ではない。
普通の人間には求められない。
求めるべきなのは、
受賞する可能性を最大にすること
である。
作品を X とする。
その中で、受賞する可能性が最も高い作品を X* とする。
数学では、
X* = 受賞確率を最大にする作品
くらいの意味になる。
数式を知らなくても、言っていることは単純である。
絶対に受かる方法は分からない。だから少しでも受かりやすい方へ動く。
そして「全部直せばいい」でもない
以前の作品は受賞しなかった。
なら欠点はあったはずだ。
でも、
「全部駄目だった」
ではない。
全部駄目なら四次まで行っていない可能性が高い。
だから、
「落ちたから全部変える」
も危険である。
四次まで進ませた長所まで消すかもしれない。
必要なのは、
何を変えるか
だけではない。
何を残すか
でもある。
ここはかなり重要だと思っている。
そして必要十分条件を本気で求めると、とんでもない答えになる
数学的に完全な必要十分条件を求めること自体はできる。
答えは、
受賞する作品とは、受賞する作品である。
以上。
完璧である。
受賞する作品なら受賞する。
受賞した作品は受賞作品である。
反論不能。
そして何の役にも立たない。
これはもう、
受賞するということはですね、受賞するということなんです。
である。
数学と文学を延々こね回した結果、小泉構文に到達した。
究極の循環論法
問。
「北日本文学賞を受賞するための必要十分条件を求めよ」
答。
「北日本文学賞を受賞することである」
問。
「では受賞するにはどうすればいいですか」
答。
「受賞する作品を書けばいい」
問。
「受賞する作品とは何ですか」
答。
「受賞した作品です」
完全な円が完成した。
集合論も確率論も統計学も全部使ったのに、
最終的に一歩も進んでいない。
美しい。
だから普通の人間は確率を上げるしかない
太宰治なら話は簡単である。
召喚。
執筆。
応募。
受賞。
ただし川端康成が選考者で、志賀直哉が横にいた場合のみ再計算する。
普通の人間はそうはいかない。
だから、
過去の結果を見る。
何が分かるか考える。
何が分からないかも考える。
仮説を作る。
作品を書く。
読み直す。
他人の作品も読む。
必要なら壊す。
また作る。
そうやって、
受賞確率を少しでも高い方向へ動かしていく。
結局やることは地味である。
結論
北日本文学賞を受賞するための必要条件はいくつか分かる。
応募規定を守ること。
作品を提出すること。
選考対象になること。
しかし、
「これを満たせば絶対受賞する」
という実用的な十分条件は分からない。
太宰治を召喚する、という反則を除けば。
そして、
「これさえ満たせば受賞する」
という条件を強くしすぎるほど、
大学教授を連れてきて数学を解かせるような、
正しいけれど何の参考にもならない答え
になっていく。
だから私が今やるべきなのは、
「絶対に受賞する方法」を探すことではない。
一度四次選考まで行ったという数少ない観測結果を使って、
次の作品が最終選考、その先へ行く可能性をどう上げるか
を考えることだと思う。
作品そのものは、まだ出さない。
今はまだその段階ではない。
なお、太宰治の霊を呼べる方がいたら、この議論は全部撤回する。
ただし選考者が川端康成で、対抗馬が志賀直哉だった場合のみ、統計学の教科書をもう一度開く。
