仮谷野奇譚~熊神と波知彦と鯨神~
かつて、山と海はどちらが前とも後ともつかぬ兄弟であったと言う。
山は海に、海は山にその豊かさを分け与え、互いに讃えあった。
そして、海が荒れれば山がそれを諭し、また山が荒めば海がそれを助けたとも伝えられている。
そんな山の恵みを受け、山神に感謝して、静かに暮らしていた集落のひとつに「仮谷野」という地があった。 この地に人が根を下ろしたのは、はるか昔のこと。遠い祖先はその際にこう宣言した。
「この地に我らは住まうこととなったが、山野に川の恵みは神々から仮初めにいただくものである。故に必要以上に採ってはならぬ。獲った命に感謝を捧げ、祀り、いただくべし。この誓いを神々に捧げ、我らの子らがその心を忘れぬよう、この地を"仮谷野"と名づける」
時が経てば経つほどに子らの末長い繁栄を願った祖先の思いも、いつしか薄れ行くもの。 それは、この仮谷野とて例に漏れなかったのである。 山野の恵みは集落を豊かにしたが、また人の心の"傲慢"も育てていった。
集落の人々は、土地を切り開き田畑を作り、自らの食い扶持を確保するようになった。 山の実りの乏しい折には、山の生き物たちと、それらの作物を分け合ってもしてきた。
しかし、いつの頃からか、一部の者はそれを快く思わないようになっていった。
「我らが苦労して切り拓いた土地で、手ずから育てた実りをなぜ、何もせぬあやつらに食われなくてはならないのだ—」
これまでも、山の生き物たちを狩ることはあったが、その折にはきちんと祈りを捧げ、祀り、その命が再びこの地に恵みをもたらすようにと送ったものだが、考えを変えた一部の者は山の生き物を「命」として見ず単なる「的」として見るようになった。
そして、ただただ「的」を狩ることを楽しみとして、十分な祈りも祀りをしないまま、その亡骸を山野に野ざらしにするようになっていった—。
祀られることのない亡骸の魂は行き場を失い、声なき叫びをあげて、仮谷野の山野を彷徨い始めた。 やがて野ざらしになった亡骸に群がり、それを喰らう生き物が出始めた。祀られることもなく、無念を遺した屍は噛み砕かれるたび、滴り落ちる血で山野の土を穢し、砕かれる骨の音を呪詛のごとく響き渡らせた。 そうして、山野は次第に荒れ始め、かつての美しさと恵みは失われ、生き物たちは目を爛々とさせて血肉をもとめるようになったのだった。
穢れと呪いが満ち満ちた森、それは山を護り、森を育んできた神、熊神を赫怒させた。熊神は猛り狂う自らの怒りを懸命に押し止めようとしたが、山野に満ちた穢れと呪いは、いよいよその御心を蝕み、熊神は荒御魂となって姿を変えた。
その怒りは、祈りと祀りを疎かにし、山野を穢した仮谷野の人々に向けられていった—。
山には、妖ともつかぬ者たちが猖獗を極め、人々は山に入ることはおろか、その妖に襲われ命を落とすものまで出始めた。山が穢れたことにより、山野の実りは失われ、清流は濁流へと変わり、仮谷野の人々は恐怖に震え、飢えに苦しむ日々を迎えることとなった。 —命を蔑ろにし、祀りを怠った報い。
何より、祖先の教えを守らなかった罰が、この時まさに下されたのだった。
そして、それを招いたのは—
他ならぬ、己らの所業であったのだ。仮谷野の人々は飢えに苦しんだが、ただただ熊神を畏れるばかりで、何ひとつ成す術も持たず、虚しく時は過ぎていった。
しかし、ある日のこと。遠い槌前の古木津から、一人の真っ黒に日焼けをした逞しい若人がやって来て、こう言ったのだ。
「この山と、古木津の先に広がる海とは、かつて兄弟の契りを交わした仲と聞く。ならば、海に住まう鯨神に、この山の怒りを鎮める術があるやもしれぬ」そう語った若人は、自らを「浪比古」と名乗った。
彼の声にはどこか、静かな波のような心地よさが不思議とあった。
浪比古は仮谷野の人々に向かい、こう言う。
「鯨神に会いに行ってはどうだ。手をこまねいて、ただ熊神の怒りを恐れているだけでは何も変わらぬ。兄弟である海の神に、せめて救いを求めてみようじゃないか」
仮谷野の人々は、藁にも縋る思いで浪比古の申し出を受け入れ、何人かの若い衆が浪比古と連れだって古木津へ向かった。
やがて古木津にたどり着いたものの、眼前に広がる海は果てしなく、その遥かな海原の何処に鯨神はいるとも知れぬことを考えると、仮谷野の若い衆は言葉なく立ち尽くした。 だが、浪比古はからからと笑って
「なあに、見当たらなければ、探し求めて漕ぎい出すまで。飢えに苦しむ年老いた父母も幼き童も—、共に救おうではないか!」
こう言って、若い衆を励ましたかと思うと、浜近くに植わっている樺の大木を一本、また一本と引き抜き始めた。

あまりの出来事に、若い衆は驚いた浪比古のただならぬ怪力に心強さを覚え、浪比古と共に彼の引き抜いた樺の木で舟を拵えた。
舟を拵えると、浪比古は若い衆に問いかけた。
「鯨神はことに力比べを好まれるとも聞く。一つ、綱でも結って儂とぬしらで力を合わせて、鯨神に挑んでみんか?」
浪比古の並々ならぬ怪力を目にした若い衆は互いに顔を見合わせて力強く頷いた。こうして、彼らは舟を拵え、綱を結い、古木津から鯨神を求めて舟を漕ぎ出していったのだった—。
浪比古と仮谷野の若い衆は、広い広い海へ樺の舟と樺の皮で結った綱を手に漕ぎい出す。 あるところに、差し掛かると浪比古はこの広い広い海の隅々まで響き渡るほどの大きな大きな声でこう叫んだ 。
「おぉーい!海の神よ鯨神様よぉ、あんたの兄弟の仮谷野の熊神が人の有り様に大いに腹を立ててるんだ。人も悪りぃけれども、一つ助けてはくれねぇかなあ」
しばらくすると、海が盛り上がり、海面から高々と一筋の潮が吹きあがった。
「熊神にかこつけて、儂を呼びつけるのは、何処の誰か?助けてくれろと願いがあるか。ならば、お前は儂に何をくれるのかね」
すると、海の底より現れ出たのは、仮谷野の若い衆が生まれてこのかた見たことのない、山をも越えるほどの真っ黒な鯨であった。そのあまりの大きさに仮谷野の若い衆は腰を抜かして「アワアワ」と震えるばかりであったが、一人浪比古は堂々と鯨神にこう言いはなった。
「ここに若い衆と結った、樺の大綱がある。わしゃ、この若い衆らとあんたと力比べをしてやろうと思っとる」
鯨神は「その心意気や良し。その綱を儂の尻尾に結ぶと良い」と浪比古に言い、浪比古が結び終えるや否や「さあ、ぬしらの力と思いと願いを試してやろう」 と鯨神が言ったかとおもえば、舟が水底に沈むのではと思うほどの力で引っ張られる。
しかし、舟は大きく揺れはするものの沈むことはなく、仮谷野の衆の思いがつまった綱は鯨神の強い引きにも不思議と千切れない。
「よいさ、よいやさ」と浪比古と若い衆は鯨神と綱を引き合い、行っては戻り、戻っては行ってを繰り返した。
そうして、何度も何度も繰り返していくうちに日は海の向こうに沈み、月が水面を照らし、また月が眠って、日が目を覚ますを数百度となった。 さすがの仮谷野の若い衆も、クタクタになったが、浪比古は最初と変わらず、その樺の木の幹のような太い腕に筋を滾らせて、ぐいぐぃと鯨神を舟に引き寄せ始めた。 それを見た若い衆も負けじと、額に汗を滲ませながら綱を引いた。 すると、次の瞬間、鯨神は水面から大きくはね上がった。はね上がりながら、「ぬしらの願いを叶えよう。儂の髭と骨を持っていくがよい。それで弓をと矢を作るのじゃ。それで熊神を射よ。荒御魂を刺し、熊神は鎮まるであろう」と鯨神は言ったのだった。

浪比古と仮谷野の若い衆は鯨神に御礼を言って別れを告げると、エイコラエイコラと時を急いで槌前の古木津へ舟を漕いだ。
鯨神に会うまでは、かなりの時を要したはずが不思議と一日もかからないうちに槌前が見えてきた。
古木津から仮谷野までの道中も不思議と足が軽い。
これまた、一日とかからずに仮谷野についてしまったのだった。 若い衆はこれまでの顛末を古老たちに話した。
「なるほど、鯨神の髭と骨で弓矢を作れとな…。じゃが、その骨を曲げられるか?髭をかけられるか?」
と古老が言うもので、試しに一人が髭を引っ張ったが伸ばすことも縮めることもできない。骨に至ってはどんなに力をいれても、しなるどころか軋む音さえしないのである。互いに顔を見合わせ、落胆したが、若い衆の一人が
「なあに、俺らは鯨神との力比べにかったんだ、今度は仮谷野の衆みんなでやりゃあ、なんとかなるべ!」
というと、若い衆は口々に「そうだ!そうだ!」と言うのだった。
海から戻った若い衆の顔立ち、そして浪比古を見た人々は
「そうだな、やってみなけりゃわかんねえ」
「やるべ、やるべ!」
と猛り狂う熊神への畏れなど忘れたかのごとく、仮谷野は久しぶりに祭のような活気に溢れたのだった
じい様もばあ様も、ワラシも男も女もなく、誰もが弓矢作りに参加した。 水を運ぶもの、火の番をするもの、湯を沸かすもの、縫い物、食事の支度… 誰もが自分の出来ることをそれぞれがしたのである。 すると、今まで消えてしまったと思っていた鳥や兎や狸たちなどの山野の生き物も集まってきた。 何をするわけでもなかったが、ただ黙って鯨神の髭と骨を一心に見つめている。
「あいつら、"祈って"いるんでねえか?あいつらだって、熊神様に戻ってきて欲しいんだよ」とある者が言った。
「そうだな、そうにちげえねえ。ほら、おまえらもこっちきて、一緒に飯でも食おう」と別のものが言う。
その夜から仮谷野に住むすべての生き物が熊神を取り戻すための弓矢作りに参加した。
骨は次第にしなり始め、弓の形へと姿を変え、また鏃となった。
髭は皆で「ヨイサ!ヨヨイサ!」と捻って結って、弦に相応しいものとなった。
始まりから九晩十日を数えた朝のこと「さあ、最後に弦を張るぞぉ!浪比古は弓を押さえてしならせてくれ。儂らは弦をみんなでかけるで」
人だけでなく、兎も狸も鳥も弦を引っ張った。
「ヨーイサ、ヨーイサ!」
まさに人と山野が和したときであった。 「びーん、びーん」海なりのような大きな音がしたかと思うと、弦は骨にかかり立派な弓となった。
人と山野の生き物たちの歓声が「どわーっ!」と仮谷野に響き渡った。
「できた!できたぞぉ!」
「やった、やった!」
中には涙を流しながら、兎と抱き合うもの、狸と肩を叩きあう若い衆もあった。
こうして出来上がった弓と矢は合わせて「破濤の神弓」と名付けられた。
ただ、恐ろしいほどの強弓で誰も引くことができない。さすがに皆で引くというわけにはいかなかったが、すっと浪比古が進み出る。
「よし、儂が試しに引いてみよう」
というやいなや蜘蛛の糸でも引いているかと思うほど簡単に弾いてしまった。
「やはり、浪比古だ。おれたちゃあ、なんどもこいつの力を見た。鯨神様に会えたのも、こうして弓矢ができたのも浪比古のお陰だ。どうか、熊神様を鎮める役は浪比古に任してもらえねえか」
浪比古は言う。
「ありがたい事だ。余所者の儂を信じて海まで来てくれたと思えば、熊神様を鎮める役まで。ただ、この弓矢は儂一人でつくったものではない。若い衆よお前らも共に来てはくれないか」
若い衆は「誰が断ろうか」と口々に言い、浪比古と「破濤の神弓」を携えて森の奥深くへむかったのだった。
妖が跋扈しているかと思われた森は不思議と静かだった。 破濤の神弓がほんのりと輝いていることと、無関係ではないことをその場にいた若い衆は感じていた。そして、森に入ったときから弓は小さく振るえて「ひーん、ひーん」と小さな音で鳴いた。それが熊神を呼んでいるのだとも、誰も言わなかったが分かっていた。 浪比古と若い衆は音を頼りに奥へ奥へと進んでいく、最初は小さな音だったが次第に「ぴーん、ぴん」、「びん、びーん」、「びわーん、びわーん」と音を変えていく。 間違いなく、熊神に近づいている。
皆に緊張が走った。
その刹那、木々の間から浪比古の上背をゆうに越える、それはそれは大きな大きな塊が躍り出てきたのである。
それは、大きな一頭の羆であった—。
かつて神としての美しかった毛は逆立ち割れ、眼は血を流したような真っ赤な色をしていた。誰もが、あの穏やかであった熊神の変わり果てた姿に息をのんだ。
これまでの経験で胆力が備わった若い衆ではあったが、熊神のあまりの姿に身がすくんだ。 熊神の吐く息から瘴気が漏れ出ているのかとも思われるくらい、身動きが取れなくなったのだ。

若い衆も 「浪比古!射てくれ!熊神様を鎮めてくれ」と叫ぶ。
ある若い衆はこう言いつつ願いの姿を取った。
「神様、儂らが神様を苦しめて、こんなんにしてしまった。赦してけれ、戻ってきてけれ—」
その言葉が終わるや否や浪比古は弦から手を離した。
放たれた矢は「ひょう、ひょう」と風を切り裂き、一直線に熊神めがけて飛んで行く。
心の臓か、あるいは魂のありか、方寸のあたりか。矢は深々と熊神の身体に突きたった—。
「ぐおぉーん」
熊神は一つ大きな咆哮をあげた。
矢の突き立った場所からは血ではなく、沢山の光が漏れ出していて、その光にふれた箇所から熊神の毛は元の神々しく美しいものへと変わっていく。
血を流したよう赤色だった瞳も、いまは栗色の優しい色へと変わり、穏やかな神気が周囲を包んだ—。
しかし、光に包まれた熊神は眩い光の中へ溶け込んでいき、姿が見えなくなってしまったのである。 若い衆は落胆したが、天から声が降ってくる。
「そのような顔をするでない、余はもう一度生まれ変わる必要があるのだ。おまえたちが自らをあらためたように余もまた—」
熊神は消えてしまった—。
だが、誰もが絶望に曇った顔をしてはいなかった。
「神様はきっと戻ってくる。だって山が、山が穏やかだもの」
熊神は一時の眠りのため、姿を顕すことはなくなったが、仮谷野の山野はかつての人と生き物が恵みを分かち合う地へと戻っていった。 浪比古は仮谷野の人々に引き留められたが、笑いながらこう言ったのだった。
「儂は風が呼べば東に、雲が誘えば西への根なし草。…いつか、会うこともあろうよ」
そう言い残して、彼は何処へともなく旅立っていった。
人々は「浪比古もまた、神様の遣いだったのでは」と言いあい、仮谷野を救った者として「波知彦」と呼んで小さな祠に祀り、鯨神との力比べや皆で作った破濤の弓矢のことを忘れまいと神事として、樺の皮で結った綱で毎年仮谷野をあげて綱引きをするようになった。
浪比古は、他の地において干潟を拓いたとも、暴れ川を鎮める堤を作ったとも、仮谷野の近郷には彼の逸話が幾つも残っていると言う。
その後、仮谷野は「神と人と生き物が和して野の恵みを刈り取る地」としての人々の新たな祈りから「刈和野」とその名を変えた。
—浪比古、鯨神、熊神との出来事があってから、どれだけ実りの季節を迎えただろうか。
ある日のこと、村の童が山から一頭の子熊を連れて帰ってきた。 その熊の胸には、まるで満ちる月が宿ったようなような白い斑点があったと言う。
ある古老は、涙ながらに子熊に語りかけた。
「よう、お戻りに、なられましたなあ—。」
