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【ランニング/お仕事小説】ここから先は、私の想い 第2章 はじめての取材

前回の話 第1章:思いがけないメール

第2章 はじめての取材

3月に入ると、東京の空気は目に見えて柔らかくなってきた。街路樹の枝先には小さな緑の芽が膨らみ始め、朝5時の空にも、冬の頃のような肌を刺す張り詰めた冷たさは薄れつつある。
それでも美由紀の朝のルーティンは変わらなかった。

目覚まし時計が鳴る前に正確に起き、静かに身支度を整え、ランニングウェアに着替える。玄関でシューズの紐を丁寧に結びながら窓の外を見ると、街はまだ深い眠りの中にあった。
この静かな時間が、美由紀は何より好きだった。
誰からも電話は鳴らないし、仕事の数字のことも考えなくていい。ただ「走ること」だけに自分のすべての意識を集中できる、1日の中で唯一の、自分だけの神聖な時間だった。

ゆっくりと走り始める。最初の1kmは身体を優しく起こすように。呼吸が整ってきたら少しずつストライドを広げ、最後は心地よいスプリントを交えて10km。
帰宅するとシャワーを浴び、朝食を済ませて大手町の証券会社へと向かう。そんな、他人から見ればストイックすぎる毎日を繰り返しているうちに、山田と調整した取材の日がやってきた。

取材日は土曜日の午後。場所は神保町にある『爽』編集部。
「藤崎様のご都合に合わせます」という言葉通り、美由紀が午前中に練習をこなせるよう、午後遅めの時間を提案してくれたのだった。そのさりげない気遣いが、まだ見ぬ編集者への確かな安心感につながっていた。
土曜日の駒沢公園。午前中は予定どおり20kmのロング走。少し風が強かったが、春の匂いを含んだ空気は心地よく、大阪国際を経て進化した美由紀の身体は驚くほどスムーズに動いた。

帰宅してシャワーを浴び、クローゼットの前で美由紀は少しだけ迷った。
スーツで行くべきだろうか。それとも完全な私服だろうか。
会社の取引先へ行くわけではないけれど、初めてお会いする相手に失礼があってはいけない。結局、美由紀は淡いベージュのジャケットに白いブラウス、濃紺のパンツという、洗練された落ち着きのある服装を選んだ。証券営業という仕事柄、派手さはないが相手に信頼感を与える清潔感のあるコーディネートは、すでに骨身についていた。

約束の時間より15分早く神保町駅へ着いた。三軒茶屋から半蔵門線で一本。
編集部は駅から歩いて2分ほどの場所にある、趣のあるオフィスビルの中だった。エントランスの案内板には、『爽 編集部』という文字が小さく掲げられている。
深呼吸をひとつ。
受付で名前を告げると、若い女性スタッフが笑顔で応対してくれた。
「藤崎様ですね。山田がすぐ参りますので、こちらでお待ちください」
待合スペースの棚には、これまで発売された『爽』のバックナンバーが美しく並んでいた。美由紀は自然と、その中の1冊を手に取った。
ページをめくると、世界的なトップランナーのインタビューだけではない。子育てをしながら走る女性、60歳を過ぎて初マラソンへ挑戦した男性、そして自分と同じように仕事とランニングを必死に両立する会社員の姿。どの記事も、単なる「速さ」のデータではなく、その人が「走る理由」が温かい筆致で丁寧に描かれていた。
(この記事、覚えてるなあ……)
ランニングを始めた頃、初のマラソン目指して試行錯誤しながら走っていた頃、この雑誌を何度もボロボロになるまで読み返した。知りたかったのは機械的な練習方法ではない。自分と同じようにランニングを続けている人たちが、日常の中で何を思い、何を感じながら走っているのか、その心の形を知りたかったのだ。

そのとき、背後から穏やかで通る声が聞こえた。
「藤崎さんでしょうか」
振り返ると、一人の男性が立っていた。40歳手前くらいだろうか。紺色のジャケットにパリッとした白いシャツ。派手さはないが、どこか知性と柔らかな雰囲気をまとっている。
「はじめまして。『爽』編集部の山田です。本日はお忙しい中、遠くまでお越しいただき本当にありがとうございます」
山田は軽く頭を下げた。美由紀も慌てて姿勢を正して頭を下げる。
「こちらこそ、この度はお声を掛けていただいて、ありがとうございます」
名刺を交換しながら、美由紀の心臓は少しだけ緊張で早く脈打っていた。だが、山田の表情には取材相手を品定めするような鋭さは一切なく、一人の魅力的なランナーに会えたことを心から喜んでいるような温かさがあった。

その空気に触れた瞬間、美由紀の肩の力はすっと抜けた。
山田は笑顔のまま言った。
「実は、今日は堅苦しい取材というより、まず藤崎さんというランナーのお話を、ゆっくりと僕に聞かせていただきたいと思っています」
その一言に、美由紀は静かにうなずいた。この人なら、飾らずに自分のすべてを話せるかもしれない――そんな予感が、春の柔らかな陽射しのように胸の中へ広がっていった。

山田に案内され、美由紀は編集部の一角に設けられた小さな応接スペースに入った。木目調のテーブルには、湯気の立つ丁寧にいれられたコーヒーが用意されている。
テーブルの上にはノートパソコンと、小さなICレコーダー。
「録音させていただいても大丈夫でしょうか。もちろん、記事にするときは事前に内容を確認していただきますので」
「はい、大丈夫です」
レコーダーの赤いランプが静かに灯る。だが、山田はすぐには質問を始めなかった。大阪の当日の天気の話、美由紀が東京へ戻った翌日の凄まじい筋肉痛の話で笑い合い、お互いの距離が少しずつ縮まっていく。
美由紀は心の中で思った。
(まるで、優秀な営業マンみたい)
初対面の相手の緊張を完璧にほぐし、自然に話しやすい空気をつくる。それは、証券会社で自分が毎日死に物狂いで心掛けているコミュニケーションの本質と、驚くほどよく似ていた。

「では、そろそろ始めましょうか」
山田はレコーダーへ目を向けることもなく、美由紀の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「最初に、一つだけ抽象的なことを聞いてもいいですか」
「はい」
「藤崎さんにとって、ランニングって何ですか」
美由紀は、一瞬だけ言葉に詰まった。
もっと具体的な質問を想像していたのだ。いつから走り始めたのか、月に何キロ走るのか、どんな練習メニューをこなしているのか――。ところが山田が最初に尋ねたのは、数字ではなく「何のために走るのか」という、彼女の心の核心だった。
美由紀は少しだけ視線を落とし、白いコーヒーカップから立ち上る湯気を眺めた。それから、少し困ったように小さく笑った。
「……うーん、難しい質問ですね」
「難しいですよね。でも、そこが僕が一番知りたかったんです」
山田は決して急かさない。答えを待つ沈黙の時間すらも、大切に楽しんでいるようだった。
美由紀はゆっくりと息を吸う。
「最初は……ただの運動不足解消、だったはずなんです。あ、でも、違いますね」
自分で言って、すぐに首を横に振って訂正した。
「自由、だからだと思います。走っている間って、完全に自分の自由じゃないですか。どこを走るかも、どれくらいのペースでいくかも、全部自分次第。それに気づいてから、朝の時間が何より楽しみになったんです」
「自由、ですか」
「はい。仕事へ行く前のほんの1時間くらいなんですけど、その世界だけは、誰にも絶対に邪魔されないんです。スマホの通知も鳴らないし、お客様のことも考えなくていい。昨日より少しだけ呼吸が楽だなとか、季節の匂いが変わったなとか、本当に小さなことなんですけど……」
美由紀は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「気が付いたら、その時間が一日の中で一番好きになっていました」
山田は静かに頷きながら、手元のメモ帳へペンを走らせた。そこには『自由』『朝5時』『誰にも邪魔されない時間』とだけ書かれていた。
「自分だけの時間、ですか。いいですね」
山田は穏やかに笑う。
「タイムや記録の話ではなく、まず『自由』という言葉が出てくる市民ランナーの方には、実はなかなかお会いできないんです。僕が大阪で藤崎さんの走りを見て惹かれた理由が、いま分かった気がします」
これまで周囲から「何時間で走ったの?」「どんな練習をしてるの?」と機械的に聞かれることはあっても、「なぜ走るのか」をこれほど深く、真剣に尋ねてきたのは、恋人のサトシや父親だけだった。山田の言葉は、美由紀の胸の最も深い場所に、温かな灯火となって残り続けた。
山田は手元のメモ帳を閉じると、一度コーヒーを口に運んだ。
「実は、もう一つ本当に驚いたことがあるんです。藤崎さんがランニングを本格的に始めてから、大阪国際女子マラソンのスタートラインに立つまで、まだ2年も経っていないですよね。これ、データとして見たらちょっと異次元です」
美由紀は少し恐縮したように笑った。
「そうですね……。自分でも、必死すぎてあっという間だった気がします」
「普通はそこまでの短期間で、あのエリートの舞台へはたどり着けませんよ」
山田はランニング雑誌の編集者らしく、事実の重みを淡々と口にした。
「サブ3を目指して何年も血の滲むような努力を続けている人も、故障を繰り返して夢を諦めていく人も、僕はたくさん見てきました。特に女性にとっては、サブ3はもの凄く高い壁です。だからこそ不思議だったんです。藤崎さんは、なぜそこまでのスピードで成長できたのか。ご自身の『才能』について、どう思われますか?」
美由紀は少し考えてから、明確に首を横に振った。
「才能、ですか?……いや、そんな大層なものは全然ないです」
「本当に?」
「はい。ただ……信じられないくらい、走るのが好きなんです」
即答だった。迷いのないその瞳を見て、山田は思わず深い笑みを浮かべた。
「即答ですね」
「はい」
美由紀は少し遠くを見るような目になった。
「もちろん、練習はきついですよ。水曜日の夜は陸上競技場でインターバルをやりますし、土日は20キロのロング走です。朝も5時に起きます。でも、不思議なんです。今日は走りたくないな、体が重いなって思う日はありますけど、走り終わったあとに『走らなきゃよかった』って思ったことは、一度もないんです。ただそれが、愚直に積み重なっただけなんだと思います」
美由紀は少し懐かしそうに言葉を続けた。
「初めてのフルだった静岡マラソンなんて、30キロ過ぎから本当に地獄で、ゴールした時は『二度と走るか!』って思ったんですよ。なのに、一週間もしたら次はどの大会に出ようかってスマホで調べてる。たぶん、私、相当な負けず嫌いなんです。とりわけ、自分に負けるのが嫌なだけなんですけどね」
窓の外では、春の明るい日差しが向かいのビルの壁面を黄金色に照らしていた。その飾りのない言葉の強さに、山田は深く惹きつけられていた。
「藤崎さん。今日、お話を聞いてよく分かりました。もちろん素質もあるんでしょうけど、それ以上に、あなたは『毎日を美しく積み重ねることができる人』なんですね」
美由紀は小さく吹き出した。
「私のやってる証券営業の仕事も、実は全く同じなんです。一日だけ猛烈に頑張って大きな数字を上げても、それだけじゃお客様との信頼は作れません。何度も何度も足を運んで、少しずつ関係を築いていく。すごく泥臭い仕事なんです。だから、走ることも同じ感覚なのかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、山田の中で、ランナーとしての藤崎美由紀と、会社員としての彼女の姿が一本の強固な線でカチリとつながった。
地道な積み重ねが、いつか大きな成果につながる。だから彼女は、練習も仕事も全く同じ姿勢で、真摯に向き合えるのだ。
山田は心の中で静かに確信した。この人は、まだ速くなる。それは単なるタイムの話ではなく、一人の人間としてのスケールの話だ。
「藤崎さん、もう一つ。普段の練習は、どなたかと一緒にされているんですか? ランニングクラブとか」
「いえ、ずっと一人です」
「メニューも全部ご自身で?」
「そうです。SNSの動画を見たり、まさに『爽』のような雑誌をたくさん読んで、今の自分にはこれが必要かなって、パズルみたいに考えて組み立てていました。一人だから逆に気楽なんです。誰かと比べることもありませんし、全部自分で決められますから」
山田は思わず椅子にもたれ、感嘆のため息をついた。
「一人で考え、計画を立てて、毎日積み重ねて、大阪国際までたどり着いた。そんなランナーには、僕は滅多にお目にかかれません。一本、見事な芯が通っている」
山田はバッグから、一枚の綺麗にプリントされた企画書を取り出した。
「藤崎さん。今回の取材、もちろん素晴らしい記事にします。でも、正直に言って、一回きりで終わらせるのはもったいないな、と」
美由紀は目を瞬かせた。
「えっ……終わらせたくない、ですか?」
「はい。これ、まだ僕の頭の中にある段階なんですけど」
山田は企画書を美由紀の前へそっと置いた。そこには仮タイトルとして、印象的な文字が躍っていた。
『ある女性ランナーのサブ3日誌』
「毎月2ページずつの定期連載です。仕事とランニングの両立に励む一人の女性が、再びあの舞台を目指し、今度こそサブ3を達成していくリアルな過程を、そのまま毎月読者に届ける企画です。読者が本当に知りたいのは、雲の上のすごい人ではなく、自分と同じように働きながら、一人で積み重ねる藤崎さんのような人の『時間』なんです」
山田の声には、一流の編集者としての熱い魂が宿っていた。
美由紀は企画書を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
「私なんかで、本当にいいんでしょうか」
「その言葉を言うと思っていました」
山田もつられて嬉しそうに笑う。
「僕は、『速いから記事にしたい』わけではありません。藤崎さんがこの先、どんな素晴らしいランナーになっていくのかを、一年間、特等席で追いかけたいんです」
その言葉には、打算など微塵もない、一人のランナーに対する純粋な期待が込められていた。
美由紀は企画書から顔を上げた。まだ明確な答えは出せない。けれど、自分が一人で孤独に走ってきた時間を、こうして誰かが大切に見つめ、価値を見出してくれた。そのことが、何よりも誇らしく、嬉しかった。

次の話 第3章:新たな出会い


本小説は「ここから先は、私の時間」の続編です。

証券会社で働く藤崎美由紀は、何気なく参加した労組のイベント「皇居ラン」を機にランニングの世界へ。仕事と違って自分の意思で自由に走れる魅力に惹かれた彼女は、地道な練習を重ねるうち、低心拍数のまま高いペースを維持できる「天性の心臓の強さ」という眠っていた資質を覚醒させる。着実に実力をつけた美由紀は、ついにエリートランナーの証である最高峰の舞台「大阪国際女子マラソン」の出走権を掴み取る。
だがその裏で、親友の梨沙や家族の日常に予期せぬ影が差し込む。激しい葛藤のなか、美由紀は彼らに明日を生きる勇気を届けるため、「サブ3」を掲げて大阪のスタートラインに立つ。
レース終盤、猛烈な疲労と激しい向かい風の壁に阻まれながらも、大切な人たちの祈りを背に死力を尽くしてゴールへ突っ込み、倒れ込んだ。目標に僅かに届かなかったものの、全てを出し切った美由紀は、病床の梨沙に完走タオルを手渡し、次の未来へ走り出す。

小説「ここから先は、私の時間」 ダイジェスト

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