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【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第29章 消えない灯

ここから先は、私の時間

前の話 第28章:揺らぐ日々

第29章 消えない灯

十二月に突入した瞬間、東京の街は、待ってましたとばかりに一気に華やかな年末の衣装をまとい始めた。

丸の内のメインストリートを彩る並木道には、冷たく澄んだ夜気に映える白銀のイルミネーションが一斉に灯され、仕事を終えた恋人たちや楽しげなグループが、肩を寄せ合いながら足早に行き交う光景が、当たり前の幸福として広がっている。

しかし、藤崎美由紀にとってのその景色は、まるで色褪せた無声映画の背景のように、自らの意識の遥か外側を通り過ぎていくだけのものだった。
水戸黄門漫遊マラソンで大阪国際女子マラソンへの切符を手にしたのは、時計の針をほんの数週間巻き戻しただけの過去に過ぎない。それなのに、今の美由紀の心のキャパシティを満たしているのは、目標を達成したあの瞬間の達成感などではなく、底なしの沼のようにじわじわと広がる不安と無力感だけだった。どれほどランニングに意識を向けようとしても、シューズの紐に手をかけようとしても、脳の防衛本能が働くように、病室のベッドの上で必死に笑顔を作っていた梨沙の姿と、実家の母親から定期的に送られてくる父親の容体に関する短い連絡の文字が、思考の最前列を占拠してしまうのだ。

久しぶりに長期の出張から帰ってきたサトシとの夕食で、美由紀は梨沙のこと、父親のこと、母親のことを話していた。
「それは大変だったな、そばに居てられなくてごめん」
サトシが美由紀を労ると、美由紀は首を振って、
「ありがとう。ちょっとあまりにもショックでメールする気にもなれなくて」
来年一月の大阪国際女子マラソンの号砲までは、もうそれほど時間がない。
サトシが言った。
「無理に大阪走る必要ないでしょ、来年も再来年も大会はあるわけだし。」
「私もそれ考えていたんだ。今のメンタルでモチベーション保つのも難しくて。ありがとう。」
美由紀が言うように、彼女の身体は、凍りついたように動かなかった。
走るという行為そのものが嫌悪の対象になったわけではない。心のどこかでは、走りたいという衝動はくすぶっていた。だが、気持ちがついてこない。
病室の真っ白な光のなかで、少しだけ痩せた手で本をめくっていた梨沙の姿。父親のがん細胞に関する医師の乾いた言葉。
「私がこんな風に、自分の趣味や夢のために快楽を貪っていていいのだろうか。最愛の人たちが苦しんでいるというのに、自分だけが前を向いて走るなんて、それは不義理で傲慢なエゴではないのか」
その倫理的な罪悪感が、彼女の足首に、目に見えない強固な鎖となって絡みついていた。

ある日の夕暮れ、美由紀は定時とともに丸の内のオフィスを飛び出すと、皇居とは真逆の方向にある、梨沙が入院している病院へと向かった。
面会の受付をして、病室へと足を踏み入れると、梨沙は窓際のベッドの背もたれに身を預け、文庫本をめくっていた。入院した当初よりも、頬のラインが心なしかシャープになり、皮膚の白さがどこか痛々しさを孕んでいるようにも見えた。しかし、美由紀の姿を認めた瞬間、彼女の唇はパッと柔らかく、いつもの形へと解けた。その表情の作り方、瞳の奥で踊る悪戯っぽい光だけは、あの大学時代のサークル棟の部室の中から、何一つ変わっていないように思えて、美由紀は胸の奥がキュッと締め付けられた。

二人は、意識して重い話題を避け、まるで学生時代に戻ったかのような他愛のないお喋りに終始した。最近のサークル仲間の間で巻き起こっているくだらない離婚騒動の噂話や、ネットで話題になっている海外ドラマのあまりにも荒唐無稽な結末、卒業旅行で行ったバルセロナの路地裏で、二人して猛烈に道に迷って泣きそうになった時の話。言葉を交わし、互いの笑い声を響かせている間だけは、美由紀も束の間、自らの心を押し潰し続けていた巨大なプレッシャーの存在を忘れることができた。
しかし、ふとした瞬間に、会話のラリーが途切れた。

部屋を包んだ短い沈黙のなかで、梨沙は視線をゆっくりと窓の外、遠くに見える東京タワーの赤い光へと向けたまま、何気ない調子を装って静かに口を開いた。
「そういえばさ、美由紀。大阪国際女子マラソンって、もうすぐなんだよね」

その名前が親友の唇から零れ落ちた瞬間、美由紀は思わず視線を床へと落とした。
本来であれば、その大会名を耳にするだけで、全身の血流が沸騰し、武者震いが止まらなくなるほどの憧れのマイルストーン。それなのに今の自分にとっては、その言葉はただただ、自らの不甲斐なさと焦燥感を逆撫でするだけの、重苦しい十字架でしかなかった。
「うん……近い、ね」
美由紀は、喉の奥に引っかかる言葉を絞り出すようにして答え、それから自分を取り繕うように、力なく小さく笑ってみせた。
「でもね、最近、全然走れてないんだよね。」
その告白を聞いた梨沙は、驚く風でもなく、ただ少しだけ困ったように眉の端を下げ、静かに頷いた。

そこには、美由紀を責めるようなニュアンスは1ミリも含まれていなかった。美由紀がなぜ走れなくなっているのか、その理由を、誰よりも深く、正確に理解している人間の、あまりにも優しく、すべてを受け入れるような眼差しだった。
だからこそ、美由紀の胸には、鋭いナイフで抉られるような痛みが走った。
「私の入院のこともあるしさ。それに、お父さんの手術のことも重なっちゃったから。気になっちゃうよね、どうしても」
梨沙の言葉に、美由紀はただ唇を噛み締め、苦い笑みを浮かべることしかできなかった。
本当であれば、今この瞬間、最も励まされ、慰められ、周囲からのエネルギーを必要としているのは、他ならぬ梨沙自身のはずなのだ。得体の知れない病魔と闘い、先の見えない治療の恐怖と向き合っているのは、ベッドの上にいる彼女なのだ。それなのに、どうしてこうして、健康なはずの自分が、病人の側から壊れ物を扱うように気遣われ、慰められてしまっているのだろう。その役割の逆転が、自分自身の心の弱さを証明しているようで、美由紀はたまらなく情けなかった。

病室を包む、不自然なほどの静寂。点滴の機械が刻む、微小な駆動音だけが規則正しく響く。
しばらくの沈黙の後、梨沙は窓の外から視線を戻し、美由紀の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「でもね、美由紀」
その声は、決して大きなものではなかった。病院の防音壁に吸収されてしまいそうなほど、穏やかなトーン。それなのに、その言葉は不思議なほどの質量を持って、美由紀の鼓動の最も深い場所へと、遮るものなく突き刺さってきた。

「私ね、絶対にこの病気には勝つよ。負ける気なんて、1ミリもないから」

美由紀は、言葉を失ったまま、親友の瞳を見つめ返すことしかできなかった。

「だからさ――美由紀も、絶対に諦めないで」
病室の張り詰めた空気のなかに、その梨沙の決意の言葉だけが、光の粒子のように長く、長く漂い続けた。

美由紀の口からは、すぐに「うん、分かった」という安易な返答は出てこなかった。
嬉しかったからではない。その言葉で救われたからでもない。むしろ、自らの不甲斐なさと、親友の圧倒的な強さの対比に、胸の奥が引き裂かれるような切なさに襲われたからだ。
梨沙は今、まさに闘いの最中にいる。これからどんな苦難が待ち受けているかも分からない、暗闇のロードのスタートラインに立っているのだ。父親の手術のカウントダウンも、すぐそこに迫っている。現実の生活のなかでは、何一つとして問題は解決していないし、好転もしていない。
それなのに――目の前にいる親友は、自分のちっぽけな未来の心配ではなく、藤崎美由紀という一人のランナーの夢の灯を消さないために、その細い身体から、命を振り絞るようなエールを送ってくれている。
そのあまりにも純粋で、巨大な愛情の重さが、ありがたくて、そして狂おしいほどに苦しかった。

病院を後にし、最寄り駅へと続く冬の夜道をゆっくりと歩きながら、美由紀は何度も、何度も脳内で梨沙のあの言葉をリフレインさせていた。しかし、だからといって、映画の主人公のようにその瞬間にすべての迷いが吹っ切れ、猛烈にポジティブな感情が湧き上がってくるような、そんな都合のいい奇跡は起きなかった。
現実の手元を見つめれば、父親の来るべき手術の日程は容赦なく迫っている。梨沙の病状の行方だって、依然として予断を許さないグレーな状況のままだ。大阪のスタートラインまでの砂時計の砂が、音もなく滑り落ちていく焦燥感のなかで、「今の私には、ただ祈ること以外、何もできない」という圧倒的な無力感の重さは、依然として彼女の肩にのしかかったままだった。

帰宅し、明かりもつけないリビングで、美由紀はやはりランニングウェアに着替えることはなく、コートを着たままソファへと横たわった。そして、ぼんやりと天井の闇を見つめ続けた。
走らなければならない。今走らなければ、大阪の舞台で恥を晒すことになる。そんなことは、誰に言われなくとも分かっている。だが、どうしても心のギヤが噛み合わない。そんな自らの脆弱さに激しい苛立ちを覚えながらも、どうしても精神のスイッチを「ランナー」へと切り替えることができなかった。

それでも。
彼女の心の最深部には、確実に、消えない一つの「灯火」が灯されていた。

梨沙は、諦めていない。あの白い、四角い病室のベッドの上という、世界の狭い片隅から、それでも自らの未来を信じて、前を向こうとしている。
その親友の凄絶なまでの気高さだけが、美由紀の心のなかに、かろうじて一本の細い光の糸を繋ぎ止めていた。
それはまだ、彼女の重い腰を上げさせ、極寒の夜のロードへと弾き出すほどの爆発的な力には達していなかったかもしれない。しかし、人生の荒波に揉まれて完全に消滅してしまいそうだった「希望」という名の最後の火種を、灰の底で静かに、しかし絶やすことなく守り続けてくれるには、十分すぎるほどの、温かい灯火だった。

次の話 第30章:長い一日

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viva la vida いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。