「いきものがかえった」日のはなし【短編小説】
「そんなことよく覚えているね」
どうやら私は人より記憶力がいいらしく、子どもの頃にこんなことがあったね、あの時こんなことを思っていたの、という話をすると驚かれることがしばしばある。幼稚園の入園式の日に見た光景や気持ちの温度を今でも鮮明に思い出せるけれど、もしかしたらそれは父や母がこまめに記録してくれていたビデオカメラの映像で観たものとない交ぜになっているだけなのかもしれない。
ゴールデンウイークに帰省して、父とラーメンを食べに行った。帰り道すがら、熱帯魚店を訪れた時に父が言った。
「いつか、あの店にメダカを買いに行ったことがあるよね」
小学校の理科の授業でヤゴやメダカを育てる課題があった。三年生で育てたヤゴも、五年生で育てたメダカも、なぜだか私が育てていた個体がクラスで最初に孵化した。不思議なことに、ヤゴがトンボになった日も、メダカの卵が割れた日も、私は学校を欠席していた。私のいない教室で、私以外のクラスメイトが教室ではじめて生まれた、生まれ変わった命を目の当たりにした。
「ゆき(私の名前)のヤゴがトンボになったらしいよ」
双子の弟が学校から帰って来るなり、布団で寝込んでいる私に話しかけてきた。
「らしいよって、何?とうま (弟の名前)は見なかったの?」
「見なかった!でも、ゆきのクラスで騒ぎになってたよ。明日、楽しみだね!」
弟は明朗な調子でそう言って、部屋にランドセルを投げ捨てるように置くと、ドッヂボールをするためのマイボールを抱えて、公園に出かけていった。
朝から布団にうずくまって天井を見つめてばかりいる私は、そんな弟の態度にもの申したいことがたくさんあった。弟は、羽化したばかりのトンボを見てみたいと思わないのか。風邪をひいて学校を休んでいる姉のために、少しでも早く見せてやろうと家に持って帰るという発想はないのか。「トンボになったらしいよ」と言ったって、もしかしたら明日、元気になって学校に行ってもトンボになっていない可能性があるということ?というか、せっかく羽化したトンボは、私が学校を休んだ挙句、弟が持ち帰らないせいで羽を広げたまま小さな虫かごの中に閉じ込められているということだ。
弟のせいで、トンボが可哀想だと思った。せっかく同い年なのに。せっかく隣のクラスなのに。せっかく同じ家に住んでいるのに。せっかく双子なのに。弟は、私と双子であるという特権をことごとく放棄している。それも、なんの悪気もなく。
ピンポン。
弟にイライラしながら、布団を頭まで被ってぐずぐずしていたら、玄関のチャイムが鳴った。扉を開ける音がして、母が何やら歓声をあげている。間もなく、母が階段を駆け上がる時の、スリッパで床を打ちつける音が近づいてくる。
「ゆき、ゆき!見て、ほら。同じクラスの○○くん?がアキのトンボを持って来てくれたよ」
部屋の入口に現れた母の手には、教室のロッカーの上に置いてあるはずの私の虫かごがあった。虫かごの中には、昨日まで私が飼育していたヤゴの姿はなく、代わりに割り箸に捕まって羽を広げているトンボがいた。……本当に羽化したんだ!
「○○くんが持って来てくれたの?どうして……」
○○くんの家は確か、学校を挟んで、私の家と反対方向にあったはずだ。弟が持って帰って来てくれなかった私のトンボを○○くんが持って来てくれた。それも遠回りをして。
「ゆきが学校を休んでたけど、早く見たいだろうって、持って来てくれたんだって。トンボになっているのを最初に見つけたのも○○くんらしいよ」
「○○くん、まだ玄関にいるの?」
せめて、お礼を言うべきだと思った。
「ううん、もう帰っちゃった。お大事にって、言ってたよ。明日、学校に行けたらお礼を言いなね」
父の運転する車の助手席で、私のヤゴがトンボになった日のことを思い出していた。
「いつか、あの店にメダカを買いに行ったことがあるよね」
父が言っているのは、トンボに引き続きクラスで最初にメダカを孵化させたことで生き物の飼育に味を占めた私が、課題を終了した後もメダカの飼育に凝って、飼育数を増やしたいと懇願した時のことだ。
「そうそう。小学校の授業でメダカと、ヤゴも育てたことがあったんだよね。……どちらも私の子が教室で最初に孵ったの」
「そんなことよく覚えているね」
ヤゴがトンボになった日、○○くんが私の家に来てくれたのは、父の知らない話だ。弟は、母は、○○くんは、あの日のことを覚えているだろうか。たぶん、覚えていないだろう。
人より記憶力がいいというのはいいことなのか、どうなのか。あの頃、あの日、あの時の記憶や気持ちを思い出すことは嬉しいことのようで、ちょっぴり寂しいような、そんな気がする。
