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なぜ「異世界転生」は流行り、「事業承継」は難しくなったのか

 「事業承継」と「異世界転生モノの流行」
 全く無関係と思われるこの2つの事象について、筆者也に見出した「繋がり」を考察してみます。

1 「跡継ぎ問題」増加のわけ


 筆者は本業で「事業承継」に関する仕事に携わることがある。昨今の経営者の高齢化とそれにともなう後継者不足の問題を受け、中小企業庁が本格的に事業承継に関する支援に動き出したのは、この10年くらいの出来事と思われる。では、なぜ昨今になって、この問題が急浮上してきたのだろうか。

(1)高度経済成長期に創設された中小企業


 今現在、跡継ぎ問題に直面している経営者の多くは、70代だと思う。いわゆる団塊の世代という人口ボリュームの一番多い世代。この世代が、高度経済成長期に創業し、今の今まで経営者として敏腕を振るっていた。筆者も接していて思うのだが、この世代の人たちは、とても強い。強いというのは、メンタル的にも、フィジカル的にも、だ。自分が70歳を超えた時にこれほど元気な状態でいられるかというと大変疑わしい。それくらい、昭和世代の皆様はエネルギーに満ち溢れているように感じる。
 しかし、そういった人たちもいよいよ体力や気力の衰えを感じ始めているのが昨今なのであろう。人口ボリュームの多い世代が一斉に引退間近になるのだから、跡継ぎ問題が急浮上するのは当然といえば当然なのだが、この問題は、それこそ50~60年前に起きていたら、そもそもほとんどの人が気にもしなかったかもしれない。

(2)「家」意識の崩壊


 この事業承継の問題、おそらく50~60年くらい前であればおそらくこの一言でほとんど片付いてのではないだろうか。
 
「お前、長男やんか」

 戦国時代であれば、その家の跡継ぎなんて、誰が何かを言うまでもなく決まっていた。長らくの間、わが国では、「家督相続」制度が当たり前であり、家業は長男が継ぐものだった。そこにおそらく悩みというものはなかったはずだし、「家」のために「個」である自分が尽くすのは当然という考え方ですらあったのだと思う。
 家督相続については、昭和22年に法律上の制度改革がなされ、概ね現在の相続制度となった。相続権は兄弟姉妹であれば平等で、必ずしも長男が先祖代々の土地などを相続する必要もないし、墓守も長男がしなければならないわけではない。とはいえ、法律が変わったからと言って、全ての人の意識がそのようになるわけでもなく、しばらくタイムラグがあり、法制度上も、人々の意識からも「家督相続」が当たり前でなく、相続権は平等だという意識が広まり、定着していったは、昭和40年代か50年代くらい、あるいは遅くとも昭和末期くらいだろうか。
 このころくらいになると、家業を継ぐのは必ずしも長男である必要はなく、子育て中の親の心境としても

「子どもは子どもの人生がある。自分の好きな人生を選べばいい」

という考え方が一般化されてきていたように思う。もちろん、そうではなく、家業を継ぐことを幼少期から強いられていたという人も一定数いたとは思うが、まさしく団塊の世代の経営者の皆様が、子育てをしながらも自分の子どもたちに抱いていた価値観も、概ねこういうことなのではないだろうか。

「お前には、お前の人生がある。お前が必ずしも継いでくれる必要はない。継いでくれると、それはそれで嬉しいんだけれどね」

 実際、筆者が接する経営者たちの考え方は、ほとんどこれに近い実感だ。子どもが自発的に継いでくれると嬉しいけれど、それを強要したりしたくはない。自分の人生を大事にしてほしい。そう思って、特に家業を継がせたいとは思わず、今日まで自分の仕事を全うしてきたのだが、その結果、後継者がなかなか見つからない…
 もちろん、少子化とか日本特有の下請元請の共同体で成り立っている経済構造とか、そういった要因も色々あるとは思うが、「個」の人生を尊重し「家」意識が薄くなっていったことも、この問題の一因なのではないだろうか。

2 「個」の行きつく先


 「長男が家業を継ぐ」という常識が打ち破られたことは、世の長男たちが自由な生き方を手に入れたという意味ではよかったといえる。しかし、他方で、これがきっかけとなって「家」というものの存在意義も薄れていってしまったように思う。「核家族化」なんてことが言われて久しいけれど、家業を継ぐ意識も薄くなれば、先祖代々の家や土地を引き継いでいくという意識も薄れてきて、「住みたい場所に住む」のが当たり前になってきている。そうすると、家族全員住む地域も習慣もばらばらになってきて、家族全員一堂に会すのはお盆と正月だけ、あるいはもはやそれすらもない、というところが増えてきている。墓じまいを検討しているご家庭は少なくないはずの昨今、「核家族化」はどんどん確実に広がっていて、「家」というものを意識しながら生きている人はどんどん少なくなってきているように思う。「個」の自由を優先していくと「家」という集合体への意識は失われ、次第になくなっていく。当然と言えば当然の帰結かもしれない。
 しかし、「個」の独立性は、自由を得る一方で「寂しさ」も生み出す。「家」が寄り辺となっていれば、家族の誰かに何でも相談したり助け合ったりできる。でも、「個」が独立しすぎてしまうと「干渉しないでくれよ」「関係ないでしょ」「自分のことは自分で何とかしなさいよ」ということになっていってしまいかねない。

「人はひとりでは生きていけない」

「個」が独立し、一人ぼっちになってしまうと最終的に行き着くのは「寂しさ」という無重力地帯である。
 無重力の自由に気持ち悪さを感じ始めると、今度は着地点としての重力や引力を求め始める。それが人間ではないだろうか。
 昨今は、SNS、シェアハウス、オンラインサロン等、価値観が共有できる者たちで集まる多様なコミュニティが誕生している。「家」は、いわば「地域」や「血縁」といった重力で結ばれたコミュニティだったが、これら新しいコミュニティは、「共感」「価値観の共有」というキーワードを引力として生まれている。「家」の崩壊と新しいコミュニティの誕生は、見えない部分で繋がっているように感じられる。

3 流行りの異世界転生モノは世相の現れか


 さて、全く話が変わるが、昨今はいわゆる「異世界転生モノ」が流行っている。異世界モノが流行り出したのも、事業承継の問題と同様、この10年かそこらのことではないだろうか。今の人生に不満を持っている人が、異世界で新たな人生を送ってみたい!と願うのは至極当然のことであり、そういった心境がこうしたシリーズの人気を後押ししているのは間違いないと思われるのだが、この「異世界転生」という物語の発想自体は、筆者の幼少期から色々なシリーズで表現されており、何も最近突然始まったというものでもない。筆者が幼少期に夢中になっていた「魔神英雄伝ワタル」「天空戦記シュラト」だって異世界転生からスタートする。少女向けシリーズでいえば「不思議遊戯」だってそうだし、なぜか最近新作が発表された「魔法騎士レイアース」だってそうだ。「主人公が異世界に行って活躍する」という設定に、特段目新しさはないにも関わらず、ここまでの異世界ブームになったのはなぜなのだろうか。
 筆者が幼少期に見ていたこれらの異世界シリーズは、だいたい主人公が異世界で「英雄」になったり、世界を救うという物語だ。異世界に転生したばかりの時、何かしら特殊能力に目覚めたりしているのだが、「転生して即最強!」みたいな設定ではなく、異世界で何かしら努力し、辛い経験もしながら成長していき、最後は英雄として世界を救う!というのが王道だ。しかし、昨今の異世界シリーズは、転生した瞬間最強だったりする。「強くなる」とか「努力する」というプロセスはそもそもあまりなく、そこが面白いというより、何かしらの能力を使って「コミュニティを構成していく」というところに面白さがあるように感じられる。筆者が観たことのある中でいえば、「転生したらスライムだった件」とか「オーバーロード」とかは、「転生した瞬間なぜか最強!」で、もちろん、いきなりその世界の理不尽を粉々にするという爽快感はあるのだが、それだけではなく、というか、筆者としては、「最強であること」はひとつの手段であって、主眼はその人物がいかに異世界の中で自らの「国」や「場所」を生み出し、守り育てていくのかという方にあるように感じられる。

 その時代に多くの人が共感する物語には理由があるし、その時代を映す鏡ともいえる。筆者の幼少期は、「人生の中で努力して英雄になる」という「個」の生き方とか夢が魅力だったし、そういう時代だったのだろう。でも、今の世の中は、それだけでなく、先ほど事業承継問題の中で考察したように、寄り辺を失った「個」が自分の居場所を探したり、求めたりしている時代だ。そうであるからこそ、異世界転生シリーズの中で、「居場所(=家)を作り上げて育てていく」という展開が人を惹きつけているのではないだろうか。
 事業承継が社会問題化するのも、異世界転生シリーズが人気となるのも、人々の意識や価値観の変化から自然と導かれることなのかもしれない。

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園木まさ【弁護士×作家 二刀流】 「木になる絵本屋さん」では、誰かの人生をヒントにした創作絵本を創っています。頂いたチップは絵本創りの志金(資金)とさして活用させて頂きます!応援頂けたら嬉しいです!