ロッククライミング:メインロープでセルフを取る習慣を付けましょう

こんにちは。クライマーのKinnyです。

この言葉の意味が分かるか?分からないか?が、すでにGoodクライマーとBadクライマーの切り分け、になってしまうという状況ですが。

マルチピッチのクライミングに行く、ということが、形骸化した目標となっており、技術的根拠に基づかないでマルチに行ったという結果だけを求めるクライマーが多いんですよね。

それは、小さいところから、大きなところまで、「行ったという結果だけ」を求めるという行為は変わりがありません。そうなると、事故が増えます。

どんなちっぽけなマルチに行こうととも、必要となる技術は同じです。

人は誰でも、フォローからスタートしてリードへ行くわけですが、前提条件として、全体像としての技術的内容を双方が知っている必要があります。

ロープのまとめ方、ダブル、シングル、ツインなどの基礎知識
鶴瓶の仕方(支点構築を含む)、
懸垂下降、
セルフレスキュー、

です。これらは、人工壁でもリハーサルできます。習熟してから出かけないと岩場でぶっつけ本番で、-20度の阿弥陀北稜でクローブヒッチが結べないと言って四苦八苦している若い人を見たことがあります。

メインロープのセルフが結べるか?は、クライミングシステムを理解しているかどうかの最初の関門です。

なぜなら、これは、クライマーとして最低限の自分の命を守る技術を持っている、ということを示す最初の技術だからです。PASなどのランヤードの数をいくら増やしても、メインロープで他者とつながっており、それがクローブヒッチで強固な視点とつながっていなかったら?相手が落ちたら、自分も引きずり込まれます。

世の中には有資格者で、他者のメインのセルフを解除してしまうような人もいる。

資格の意味をなしていないです。そのような間違った技術をさせないための資格ですが、まったく、密室殺人の抑止力になっていません。

というわけで、メインのロープでセルフを取る、ということの意味をわかっているかどうか?というのは、その人がリードを取るにせよ、フォローをするにせよ、きちんとクライミングシステムを理解しているクライマーかどうか?ということの良いテストピースになります。

分かっていない人は、自分が密室殺人者だということをみずから宣伝してしまいます。それがかっこいいと思っているからです。

武勇伝化


分かっていない恥ずかしいミスを武勇伝化してしまう、という現象は、こういう人たちをまともなクライマーと切り分けるために存在する、と言うことが今分かるようになりました。

いや…長かったなぁ。それだけ、私は相方を深く愛し、相手を無条件に受け入れてやっていた、と言うことですね。

私の相方が犯したミスを列記しておきます。

1)カムのプレースメントができなくてロープがスタックしてもそれが致命的で、自分のリードが完結できなきなくなるミスと理解ができない。

2)人のロープでオンサイトしようとする。

3)ロープの足し算ができない。ロープが足りなくなる。

これはリードクライマーとしての能力の欠如を示すものです。

ロープシステムへの理解のなさと武勇伝化の関係

考えてみたら、そもそもロープに対するリスペクトが全くないのですが、それはどういう仕組みでロープがクライマーの命を守っているのか?という理解がそもそもないからです。

彼は落ちたときに、カムが3つ飛んで、4つ目で何とか止まったことがあったそうですが、それは「武勇伝」として語られたものでした。これは、”失敗”ですので、明確に「恥ずかしいこと」として語られる必要があります。ところが、そうではなくて、”強運の俺”みたいなことになっていると、この人はクライマーのパートナーとしては、最も適さない人、と言うことになります。1対1でクライミングに出かけるのは、やめておきましょう。

そういう人をなんとか「男にしてやる」立役者に選ばれたら、たまったモノじゃないですよね。これは、私の亡くなった弟に対する深い愛と悲しみが弱点となって、この男性に利用されてしまったものでした。

リスペクトという観点で見てみると?

ロープに対するリスペクト、
自分の命に対するリスペクト、
相手の命に対するリスペクト、
そして、
クライミングに対するリスペクト、

の多数のリスペクトが欠如しています。

現代クライミングは、岩に対するリスペクト、心の側面を教えていません。(山岳総合センターでは教えています)
登れさえすればなんでもいい、と言う風になっています。

どうも、それはアメリカの文化的没落から来ているようです。アメリカはSNS社会になり、自分を映し出す鏡としてのクライミングしか行われていないもののようです。なんと国際政治や地政学の専門家からも指摘が行われ、それらは、イスラエルによる、パレスチナ人へのジェノサイドの遠因になっているのです。そりゃ命に対してリスペクトがなく、自分さえよければいいというエネルギーの究極の形が、民族浄化・無差別殺人、と言うことなのです。

表現を見る:5.12レッドポインターか、5.11ノーマルか?

しかし、相方のクライミング能力が5.12RPだったということを考えると、相方のクライミング能力が優れているとは言えない。5.12RPって、5.11クライマーって意味です。

私は5.11をレッドポイントする能力がありますが、自分を5.11レッドポインターと称したことはないです。5.10ノーマル、と言う自意識しか持てません。

つまり、5.12がギリギリ登れるくらいで、5.11なら大体登れるという力を表現するのに、2つの方法があるということです。そのどちらを取るか?ということで相手の自己認識力を見ることができます。グラスに水が半分、入っっているときに、半分も入っている!とみる人と半分しかない、とみる人の2パターンでは、クライミングの場合は、”しかない”とみる人のほうがセーフクライマーです。

理由は、自己PRクライマーは、できていることだけを見て、できていない面はスルーするからです。できていないことが穴となって、足をすくわれます。そのクライマーがリスクが多いことは当然の帰結でしょう。

つまり、5.12RPと自称するか?5.11ノーマルと自称するか?で、相手がセーフクライマーなのか?リスククライマーなのかの切り分けができます。

セーフクライミングで行こう!の言葉が真に意味するもの

今までがセーフクライミングをしていなかったということかもしれません。

というのは、クライミングが、リスクを起点にしてセーフクライミングであることは、必要最小限の条件であり、AかBか選べるというようなものではないからです。

ボルダラ―との兼ね合い

昔から山をやっているアルパインクライマーにとっては、ボルダラ―になることは、堕落や、挫折、とみなされてすら、いるのが山梨や長野での在り方でした。

大きいことはすごいことだ、と言う価値観が基本ベースにあります。

しかし、ボルダリングって、難しさを味わうもので、大きいのに登ってヤッホーというのとは違う価値観です。だから、アルパインの観点からは、ちっぽけなもの、と言う扱いです。

一方ボルダラ―の側からすると、アルパインクライミングのロープに関するリスペクトは神経質すぎるとしか感じられないのではないでしょうかね?というのは、そもそもロープがどのような仕組みでクライマーの命を守ってくれているか?という理解自体が、ムーブがこなせることだけを喜びにしている人にはないからです。支点にぶら下がったら、その支点が壊れたら、一巻の終わりです。ここまではみなわかります。

支点の事例は最も分かりやすいです。しかし、その支点に経年劣化が加わることを加味すると99%の人が理解できなくなります。なぜなら、自分で支点を作る経験がないからですね。

支点は自分で作るもの、強固にしておくべきものです。

相方はボルダーへ転身したので、もう人を殺すようなことにはならないだろうと思います。いやー私は人身御供にされようとしたんですよ。

この人危険、と言うことを世の中に知らしめるために。死んで証明する?そのような事例は、クライミング界では頻繁です。

そんな自己犠牲をさせられそうになり、本人が気が付けないということは、どれだけ私の心の病が深刻だったかと言うことです。

心の灯台は、リスペクト、です。リスペクトがないところには、ミザリーしかありません。


アイスを登っている当方






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