「虚しさの輪郭」── 痛みが記号になるまで
どれだけ「個」を定義しようと試み、自身を言葉で掬い、
文章として固めようとしても、言葉にした瞬間、それは私の手を離れる。
そこに残るのは、誰のものでもありうる形だけ。
私だけの「いたみ」、私だけの悩み。
そう信じていたものは、言葉という型に流し込まれた時点で変質する。
それはもはや私の内部にはなく、他者の視線を映す器になる。
どう拾われ、どう解釈されるのか。
その行方を、私は選べない。
この時点で、言葉の中身が「私」である必要はあるのだろうか。
外からの照応によって、何かが在ったと証明される。
だが、どれほど証明を重ねても、残るのは普遍的な文脈の表層だけ。
内側にあったはずのものは霧散し、触れようとした指の間から流れ落ちる。
言葉にできなかったもの。
表現から零れ落ちたもの。
その奥にこそ、人としての、個としての姿があるのだと、私は思っている。
だから、この承認欲求は、言葉そのものを見てほしい欲求ではない。
言葉という限界をあえて作り、その向こう側にある何かを、
あるいは「見えない個」を、見てほしいという欲求。
私は今、ここで「いたみ」と書いた。
だが、この三文字の中に、私の感じる体験は含まれていない。
ここにあるのは、ただの記号。
もし、あなたがこの言葉に触れ、何かの疼きを感じたのだとしたら。
それは、あなたがこの言葉の器に、あなた自身の記憶や感覚を流し込んだから。
そうでなければ、ありえない…
言葉はすべて、過去の引用から意味を借りてきているに過ぎないのだから。
そこに私の体温が宿る余地はない。
だから、もしこの文章に何かを感じたのなら。
今だけは、その中にあなたを入れないでほしい。
届かなかった、その感覚。
触れたはずなのに、何も掴めなかったという感覚。
それが、今の私の虚しさに、いちばん近いと思う。
