見出し画像

レバノン滞在記2002

まえがき

 この滞在記は2002年、私が学生時代に参加したレバノン国の遺跡調査時の滞在記を当時在籍していた考古学研究会報に掲載したものの書き直しです。それから20年以上経ちますが、考古学経験を活かせることもなく過ごしてまいりました。昨今のイスラエルによるレバノン爆撃の報を受けて、この時のことを思い出したので公開するに至りました。プライバシー保護の観点から実名は仮名にするなど変更を加えております。

レバノン滞在記

 8月15日から29日の間、〇〇大学のI教授を団長とするレバノン・ティール遺跡調査にボランティアとして参加してきた。
 この調査の目的は縦穴墓・地下墓の発掘調査と、ティールにおける文化財調査と分布調査におけるGIS手法の確立、遺跡の三次元表現手法の実験である。私の参加目的は海外での発掘調査を通して経験を積むことと、そこには水中遺跡があると聞き、見てみたいと思ったからだ。
 私は同級生2名と院生の先輩1名とともに第3隊として8月14日に関西国際空港を出発した。全員海外旅行の知識もなく、英語も喋れず……というメンバーだったが翌15日には無事にベイルートへ到着することができた。

8月15日
 朝7時にベイルートに到着すると、I教授が空港まで迎えに来てくれていた。日本との時差は7時間で、時差ボケになっているはずなのだが気が張っているせいか、さほど疲れは感じられなかった。そして車で1時間ほど走るとティールに入った。この国の車はベンツやトヨタの中古車が多い。しかも日本では廃車扱いされかねない外観で、ガタガタと音をたてながら荒々しく走る。最初はシートベルトもなくヒヤヒヤしていたが時間とともになんともなくなってしまった。慣れとは怖いものである。

途中で見かけたシドン港(のはず)

 ティールの小さな店で搾りたてのフルーツジュースを飲んだ後、宿舎に向かった。宿舎は白いアパートの1階と2階に借りられた部屋で、風通しがとても良いところだった。宿舎で少し休憩を取って、作業現場に向かった。
 発掘現場にはティール市郊外ラマリ地区にあり、バナナ畑と工場と高圧電線のそばで、土壌は石灰質という環境であった。現地の研究者でともに発掘に参加しているA氏とN氏に遺跡の概要を説明してもらい(もちろん英語で)、私たちは明日から仕事をすることになった。
 夜は明日旅立たれるK大学イラク古代文化研究所共同研究員のT氏とお話しすることができた。水中考古学の話題では、エジプトで活躍する老女性水中考古学者のことをなどを聞かせていただいた。

8月16日
 朝7時に宿舎を出発し、一同バスに乗って現場へ向かった。私は平板をすることになったのだが、すぐ崩れる石灰質の土の上に平板は立てにくく、悪戦苦闘した。何とか立てて平板を開始したものの私の作業はかなりのんびりしていたらしく、平板作業は予定通りに終わらなかった。現場作業は午前中で終わり、昼食は宿舎で現地コックのH氏が作ってくれたホムスなどを食べる。
 昼食後しばらく休憩してから整理作業に取り掛かる。主に男子は遺物洗い、女子は遺物の一つ一つにネーミングをした。整理作業が終わると次は自由時間。この日はみんなで買い出しに出かけた。スーパーは宿舎からしばらく歩いたところで、中に入ると独特のスパイスのような匂いがする。雰囲気も日本のスーパーとそんな変わらないがどこかが違う。買い出しはスーパーの他にスーク(市場)にも行く。ここは以前家の近くにあった市場を思い出すほど日本のものと近い雰囲気であった。水を張ったステンレス槽に白く四角いものが浮いている。みんな「豆腐ではないか?」と怪しんだが、その正体はチーズであった。
 そして買い出しの帰りにはアラブ風サンドイッチを食べた。鶏肉と羊肉の2種類があり、肉を回転棒に刺して焼いている状態で店頭に置かれて、そこから肉を切り取り、サンドイッチにしている。かなりポピュラーな食べ物らしく、あちこちでこの光景が見られた。

8月17日
 土日は作業は休み。N氏の案内でベイルートの国立博物館とハムラ通りに行くことになった。朝の9時に出発したのは良いが、途中で車のキーが鍵穴に刺さったまま根元から折れてしまうというハプニングが発生した。しかしレバノン人はたくましく、慌てず対処して15分後には復旧させてしまった。国立博物館に行く前にN氏が以前館長を務めていたという銃器博物館に寄った。敷地には戦車が多数埋め込まれたタワー状のものがあり、Yさんがいたら喜ぶだろうなと思った。

銃器博物館のオブジェ

 銃器博物館をあとにし、国立博物館に行った。ここは内戦で建物も収蔵品も大きな打撃を受けたが、周囲の協力により見事復活したという歴史がある。今は紛争の面影が感じられないほどとてもきれいになっている。収蔵品も水浸しになっていったとは思えないほど丁寧にクリーニングされていた。特に金製品は私が卒論テーマを水中遺跡から威信財・装飾品に変えようと思うほどの魅力であった。
 そして次にハムラ通りに向かった。ここにはアントワーヌという考古学などの学術文献が揃っている本屋があり、中にはアントワーヌ目当てできたメンバーもいた。しかし昼食をとっている間に店が閉まってしまった。アラブ圏だけではないだろうが、ここは日本と違って店を閉めるのがとにかく早い。午後3時時点でハムラ通りの店はかなり閉まっていたのだ。アントワーヌのために来たメンバーたちはかなり残念がっていた。

8月18日
 この日はベイト・エディーンとバール・ベックに大人数で行った。バール・ベックはレバノン人にとって特別なもので、機会があれば行きたいところらしい。だから現地でお世話になっているひとの家族や友達などが付いてきて大勢での観光になったのである。
 ベイト・エディーンは19世紀の初頭、50年以上レバノンを治めたエミール・べシール・エル・シェハービによって建築され、1943年の独立後は大統領の夏の宮殿となった。しかし1983年、ドズル軍によって「人民宮殿」と名付けられ、そしてカルチャーセンターと博物館を設けられて現在に至るという経歴がある。そのモザイク博物館に見学に行った。モザイクだけでなくアンフォラなども展示されていた。

モザイク博物館の展示物

 次にバール・ベックへと出発した。ベカー高原に入ると雰囲気が変わってきて、シリア軍の姿が目撃されるようになる。途中で世界最大といわれるバール・ベックの切り石に寄ることになった。長さ21.51m、幅4.80m、高さ4.20m、重さ1000tという大きさで、上に上ることができるので記念に上ってきた。

でかい

 昼食は奮発してバール・ベックの近くにある屋外レストランで取った。アラブ料理のコースはとても量が多く、途中でお腹がいっぱいになってしまった。そこで休憩がてらに先輩が吸っていた水タバコを吸わせてもらったのだが、これが間違いだった。私はみるみる水タバコの虜となり、先輩から奪って吸い続けたのであった。
 そしていよいよバール・ベックに到着。この建造物の巨大さには圧倒されるばかりであった。外観はギリシャのパルテノン神殿のようでありながらそのスケールは比べ物にならないほどである。バール・ベックの壮大さに感動の余韻を感じながら、恐ろしい渋滞が待ち受ける帰路につくのであった。

多分バール・ベック。ビブロスの可能性もある

8月19日~23日
 この一週間の間にいろいろなことがあった。落ち込むこともあったけれどそれを打ち消すような嬉しいこともたくさんあった。先輩にケーキを奢ってもらったり、はじめは子供用風邪薬のような味で苦手だったミリンダというジュースが休憩時間には欠かせない存在になったり、爆撃かと思ったら結婚式の花火だったとか電線がスパークしただけだったり……。
 そして私たちより一足先に来ていた第2隊が帰国した。彼らは前場の草刈りばかりでほとんど地下墓の発掘に参加できず残念そうだった。
 また、滞在も一週間もすればなんとか現地の英語が聞き取れるようになっていた。同じく宿舎に泊まり込みで発掘に参加している現地の大学生、DNさんとHD君とお互いの文化について話し合った。といっても私はジェスチャーと筆談がメインだったが。しかし英語を使う環境下にいると、忘れていた中高生の頃に習った英語の構文や単語がスルスルと芋づる式に思い出された。まだこの段階で使いこなせてはいなかったが、「勉強はして損はないなぁ」と思った。私が日本で使っていたアラビア語のテキストに載っていた「春の歌」について、彼らが言っていたことが印象深い。アラビア語にも方言があって、公式に使われるのはエジプトで使われているもので、「春の歌」に出てくる「美しい─ジャミール」というのはそちらの言葉。私たちの言葉では「美しい─ヘル」と言う──めちゃくちゃ発音が難しく、とうとう合格はもらえなかった。

8月24日
 N氏の案内で私たち第3隊のメンバーだけでビブロスとドッグ・リバーへ観光に行った。ビブロスは地中海を望む土地に新石器時代の住居跡から紀元前14世紀末に建てられた神殿跡・復元された騎士の城・ローマ劇場など多数の時代に渡る悠久の時を感じる遺跡である。見学を終えるとおみやげ屋に寄り、私はお約束の水タバコを3ドルで購入した。そして昼食を取ったのだが……なかなか注文したものが出てこない。一方、N氏は私たちより高価な食事をすでに食べ始めていたので皆で抗議した。
 一応ちゃんと食事を取ることができた私たちは次の目的地、ドッグ・リバーに向かって出発した。しかしそこには川らしきものはなかったので、夏の間は川が枯れていると指摘されるまでそこがドッグ・リバーだとわからなかった。冬になると水が満ちてきて川になるという。ドッグ・リバーにあるがけには4000年に渡り数々の支配者や英雄が刻んだ碑文が存在する。古くはエジプトのラムセス2世のものからバビロニア・ギリシャ・ローマ・トルコの統治者やナポレオン3世のものまであり、最近のものでは1964年のレバノンから外国人撤退を祝うものがある。ここでこの日の観光は終わった。

8月25日
 本当はエジプト港という水中遺跡がある海に泳ぎに行く予定だったが、都合が悪くなり行けなくなった。そこでI教授は午前中に私たち第3隊のメンバーをシティ・サイトに連れて行ってくれた。シティ・サイトは宿舎から徒歩で行ける距離にある野外遺跡で、円柱道路や大理石の棺、ローマの浴場、劇場などがある。円柱道路の柱はコリント式の柱頭で、道路はビザンチン時代のもの。その下からローマ時代の道路がのぞいていた。またガラス工房跡にはこびり付いたガラスが現在も残っている。劇場はあまり例のない方形で横には貯水施設があり、もしかすると水を使った演劇が行われていたかもしれないという。そしてなんといっても地中海を背景にしたモザイク道路の景観が一番素晴らしかった。
 午後は近くの海へ海水浴に行くことになった。厳粛なムスリム女性は服のまま泳いでいる。早速持参のシュノーケルを装着して泳ぎに海に入った。しばらくみんなと泳いでいたが一人になった時、現地の人らしい男性が声をかけてきた。「日本から来たの?」という問いかけをはじめに「チョップスティックス?」と繰り返し聞いてきて、私が困っているとI教授とN氏が助けに来て追っ払ってくれた。I教授に「話しかけられても相手にしないように」と言われた。この後休憩をして先輩と泳ぎに行くと、先ほどの男性が十数人で取り囲んできた。先輩は慣れているのか動じなかったが、私はさすがに怖かった。今度は近くにいた現地の協力者A氏に助けを求め、追っ払ってもらった。夕方になると人々が散歩しだす。この光景はシリアでも見られたことからアラブ圏の習慣らしい。

美しい地中海の青

8月26日
 この日はなんと地元のテレビ局が発掘現場に来て取材をしたのです。運が良ければ私も映っているはず。今日から仕事が終わってから観光することになった。今回はラッサー・ラインというローマ時代の水道橋を見学した。最初に見た箇所はもう機能してなかったが、次に見た水源とその周辺の水道橋は見事に現在も生きていた。水源横の貯水池は地元の子供たちがプールとして使っていて、私たちが来たので自慢の飛び込みを次々と披露してくれた。

8月27日
 今日の現場では大きな事件が起きた。なんと地下墓の発掘中に不発弾が発見されたのだ。すぐにレバノン軍爆弾処理班に連絡を取り、処理してもらった。発見者である院生の先輩はそうとも知らずスコップで突いていたため、血の気の引いた顔をしていた。不発弾は無事に撤去され、イスラエル製の手榴弾と判明した。
 そして宿舎の帰り、途中で第3隊のメンバーはバスから澱でI教授にアルーバス・サイトを案内してもらった。アル‐バス・サイトはネクロポリス(死者の街)で、家に見立てた石棺が街を形成している。石棺は元々ローマ式だったが後世にビザンチン式の装飾が加えられていた。次に戦車競技場に行き、まず観客席に上った。そこから見る競技トラックと中央にそびえるオベリスクは映画『ベン・ハー』そのものである。感動を胸に宿舎へ帰り、昼食後おみやげを買いにメンバーたちと出かけた。現地の名物酒『アラック』や考古学関連の本、そして水タバコの葉などたくさん買い物をした。アラックは水を入れると白く濁り、味は消毒液のようなお酒で、私たちが食中毒防止になると信じて飲んでいたものだ。

8月28日
 とうとう水中遺跡『エジプト港』に行くことになった。私は普通なら海に入られる状態ではない上、この日は調子が悪かった。しかし半分この遺跡を見るためにやってきたのだからと自分を奮い立たせる。エジプト港はシドン港と対になり、エジプト港は城壁の外にあったがシドン港は内側にあったという。ペルシャ期から古典ギリシャ期(B.C.5世紀~4世紀)には2つの港をセットで作る流行があることから、この2つの港はその頃のものだとされている。ついこの間までフランスの調査隊が来ていたが現在は調査も終えて彼らのブイが浮かんでいるだけである。以前レバノン考古総局のA-B氏に現場見学の是非を聞いたことがあったが、「私の英語がわからないようでは駄目」と言われてしまった。
 昼食はエジプト港のレストランで取ることになり、料理が出来上がるまで時間があるので何人かが泳ぎに行った。先述のA-B氏に遺跡を案内してもらうことになった。海岸は岩礁のため裸足のままだと怪我をするのでサンダルを履いたまま泳ぎに行った。岩が黒曜石みたいで先輩が流血しているのを見たからである。
 これがダメだったのか、体調が悪かったからなのか、元々かなづちであるからなのか……体を浮かそうとしてもシュノーケルの先まで沈んでしまう。呼吸ができない。体はどんどん沈む。そう、私は水中考古学を目指す身でありながら溺れたのだ。ブクブク沈むのをA-B氏に度々引き上げてもらいながら朦朧とする意識の中で、岩礁と人工物で作られた堤防らしき遺跡を案内してもらった。説明が終わるとすぐ岸に上がった。地中海の海水はとても塩辛いなぁと思いながらしばらく休憩した。

堤防の跡らしきもの
人工的な柱の土台

 しかしエジプト港は本当のところ「港」ではないという。海底で見た人工物は柱の土台で、街の一部が何らかの理由で沈んだものらしい。フランスの調査隊もその方面で調査をしていたかもしれないとのこと。またなぜエジプト港と呼ばれるようになったのか、この遺跡の正体や本当のエジプト港はどこにあるのか等を卒論のテーマにしてみてはどうかとI教授から指導があった。私は大変な思いをしたにもかかわらず、面白そうなので研究しようと決心した。
 こうしてレバノンでの最後の観光が終わったのだった。

8月29日~31日
 とうとう帰国する日がやってきた。帰るのは私たち第3隊と第2隊の長期滞在をしていた2名が加わった6名。皆に別れを告げ、第4隊に挨拶をしてからバスに乗り込み空港に向かった。飛行機はなんとクアラルンプールまでではあるが、ビジネスクラスに乗ることができた。私たちはエコノミーとは比べ物にならないほど格の高いサービスを受け、映画を見たりお酒を飲んで足を延ばして寝たりして、それぞれのビジネスクラスを楽しんだ。
 次の便までクアラルンプールに滞在しないといけないので、それまで第3隊のメンバーでツインタワーを観光した。そこそこに時間つぶしもできて良い時間になったので空港に戻って日本行きの飛行機に乗り込んだ。
 31日朝7時25分、無事帰国。今回のレバノン滞在で多くのことを体験することができたので、これからはその経験をうまく使っていきたいと思う。

あとがき

 あらためて当時自分が書いた記事を書き起こしてみて、I教授の学生へ様々な体験をさせたい、いろんなものを見てほしいという愛情を感じ取ることができました。自分が大人になったからかもしれません。I教授とは数年前に仕事の件でコンタクトを取ったことがあるのですが……その節は大変ご迷惑をおかけいたしました。
 文中で落ち込んだとありますが、当時の私は皆に比べて測量の技術も実測の技量もレベルが低く、体力もなくベッドのノミに悩まされ寝不足になる繊細さ……その事実に直面したためでした。そんな私の様子を見抜いた女性の先輩が私を街へ連れ出してくれてケーキを奢ってくれたのです。そのあと洋服を見に行って、あまりに女性服が派手すぎるので「イスラム女性のあの衣装の下はスパンコールミニスカにピンヒールの可能性があるんだ……」とびっくりしたり、笑っていたら悩みは吹き飛びました。卒業後一度お会いしましたが今頃どう過ごされていますかね。
 レバノンは敬虔なイスラム教徒からキリスト教徒までいます。文中に出てきた現地の大学生はキリスト教徒でした。ですので肌を露出した服装をしていました。男子学生の方は日本から持ってきたそうめんを見て「蟯虫みたいで気持ち悪い」と言っていたのが印象に残っています。女学生の方は発掘現場近くの金持ちの家にトイレを借りに行くとき付いてきてもらいました。道中、いろんなお話をしました。知的な女性でした。
 この後、自衛隊に入ったりイスラエルにも行くことになったり政治にいっちょ噛みしたり、でもやっぱり離れたりする人生を送ることになるのですが、世界が平和になることを願っています。歴史の証拠たる遺跡がこれ以上破壊されませんように。

現地大学生と。私の顔が大きい。

#創作大賞2026  #エッセイ部門

いいなと思ったら応援しよう!