百趣味ライター、かく語りき
自己紹介で「趣味は読書と音楽と旅行です」って言った瞬間、
“何も語ってない”、“何も伝わってない”気持ちになるあの感覚。
一方で、「趣味は100個ありまして」などと言おうものなら、
間違いなく、“盛ってる人”感が出てしまうジレンマ。
——まずい、ヤツら(趣味ポリス)がやって来る……。

趣味の「百姓」を目指す
多趣味ライターとして生きる私にとって、
「趣味」とは仕事であり、生きがいであり、
言ってみれば、人生そのものです。
しかも私の場合、目指しているのはただの多趣味ではありません。
百趣味です。
百趣味とは、文字通り、100の趣味を持つこと。
もともと多趣味なところはあったのですが、
「多趣味を生き方として目指すべき」
と思ったきっかけの1つは、
「農家ではなく百姓を目指せ」という言葉です。
「百姓」の本来の意味は、「百の姓」=「百の名字を持つ」ということ。
つまり、いろいろな仕事ができるという意味です。
昔の農家では、
「田んぼをするなら畑もしろ」
「空いている時間は漁に出ろ」
「冬は縄を編め」
などと言われてきました。
自然相手の農は、天候次第で何がおこるかわかりません。
「百姓」の2文字には、そんな自然のリスクを分散しろという教えが埋め込まれているように思います。
この言葉に出会ったとき、
「これだ!」と思いました。
私が多趣味をアイデンティティだと考えている理由の核心を、
まさにこの「百姓」という言葉が見事に言い表してくれていたのです。
「百趣味」というリスク分散
今は「VUCAの時代」と言われています。
先が読めない。
変化が激しい。
何が起こるかわからない。
そんな時代に、たった一つの肩書きやスキルだけに頼って生きることは、
農民が「米作り一本」に命を賭けるようなものといえるかもしれません。
昔の農民が「百姓」としてリスクを分散したように。
私も、「百姓」ならぬ「百趣味」を目指したいと思います。
趣味の中に「仕事の種」があり、「収入の芽」が潜み、
「心の糧」が育っていく……。
多彩な趣味は、人生のリスクを分散することにつながります。
「百」というのは“たくさん”の象徴ですが、
そのうち本当に「百趣味」になるかもしれないと本気で思いながら、
今日も「百趣味プロジェクト」を遂行中です。
「趣味の数え方」問題
このように、
「百趣味プロジェクト」を宣言してはみたものの。
実は、いつも思い悩んでいることがあります。
それは、趣味を数えるのって、意外と難しいってこと。
私が百趣味を目指しているのは本当なのですが、
何をもって100なのか、判断が悩ましい。
私の趣味は、数えようによっては、
すでに100を超えています。
読書、音楽、アート、旅行、鳥好き、家庭菜園……
あ、「創作」も!
そのすべてに枝分かれがあり、
細かく分ければ、たちまち100を突破するのです。
でも、数え方を変えれば、永遠に100には届きません。
「それは音楽の一部」、「それは旅行に内包される」
etc、etc……
そうやって、趣味の分類はまとめられ、削られ、
時に否定されていく——
分けるべきか、まとめるべきか?
突然ですが、ちょっと想像してみてください。
「趣味はスポーツです」って人、見たことありますか?
ほとんどの場合、「ゴルフです」とか「テニスです」とか、
ちゃんと競技名で語りますよね。
両方やる人なら、「ゴルフとテニス」と言うはずです。
もし趣味を聞かれて「スポーツです」と答える人がいたら、
逆に「え、具体的には?」って聞き返されるでしょう。
広すぎるんです。
一方、「読書」はどうでしょう。
「趣味は読書です」と言えば、ほとんどそれで通じてしまう。
ところが、根っからの活字中毒者、
プロの読書家である私に言わせていただくと。
たとえば、「ミステリ」と「SF」と「時代小説」では、
読み方も、読んでいるときに活動する脳内の回路も、
楽しみ方も、まったく違うんです。
だからといって、趣味を聞かれて、
「ミステリを読むことと、SFを読むことと、時代小説を読むことです」
とか言おうものなら、たちまち、
「水増しすんな!そんなのは「読書」でまとめろ」
と却下されるのは目に見えています(涙)。
スポーツのジャンル分けは許される(むしろ推奨される)のに、
読書のジャンル分けは許されない風潮……。
これは間違いなくあります。
いや、私はなにも、
「読書はジャンルごとに、別の趣味としてカウントすべきだ!」
と主張したいわけじゃないんですよ?
今のは、ほんの一例です。
わかりやすく、「許されないであろう」例を挙げました。
じゃあ、読書をした後に、読書メモを書くのは?
読書コミュニティに本の感想を書き込むのは?
読書を趣味としない人から見ると、
これも「読書の一部」として分類されそうです。
(「掘り出し物を求めて古書市に出かける」ならワンチャン…?)
どこまで細分化が許されるのか。
境界が曖昧すぎるんですよね。
私としては、せめて、さっきのは「小説を読む」でいいから、
「マンガを読む」や「絵本を読む」、「図鑑を読む」なんかは
切り分けを許されてもいいんじゃないかと思っています。
音楽鑑賞と◯◯鑑賞問題
音楽だってそうです。
音楽鑑賞とカラオケ、楽器演奏なら、
別の趣味としてカウントしても良さそうな気がします。
でも、「音楽鑑賞」の中身を細かく見ていくと……
たとえば、J-POPとクラシックとジャズ。
それぞれ違う文法で、違う時間軸で、違う耳を使って聴いてるのに、
「音楽鑑賞」という名のもとに、全部まとめられてしまう。
これ、「音楽鑑賞」で済ませていいのかな?
ぜんぜん伝わらないと思うけどな……。
人によっては、
「鑑賞モノは全部、まとめて1趣味にしろ」
って言ったりするかもしれない。
いや、そんな人いないでしょって思いますか?
でも、趣味を聞かれて、
「映画鑑賞と絵画鑑賞と演劇鑑賞と古典芸能鑑賞と……」
とか言ってる人がいたら、
全部「芸術鑑賞」でまとめなさいよ!って思いませんか?
あ、今の例でも、
落語と歌舞伎と文楽と能と狂言の鑑賞を
「古典芸能鑑賞」にまとめちゃってますね。
もちろん、全部違う趣味です。
このあたりに踏み込んでいくと、結局は、
「その世界にどこまで興味・理解があるか」という話ですし、
一歩間違えると「趣味差別」という大問題に発展しそうです。
分けすぎると水増しと言われる問題
話の方向性は見えてきたと思います(笑)。
でも、私、マジメに悩んでいるんです。
なので、もう少し続けさせてください。
たとえば、動物関係の趣味。
犬が好きで飼っている
猫が好きで猫カフェに行くのが好き
鳥が好きでバードウォッチングによく行く
これは「動物好き」ではなく、それぞれ別の趣味でしょう。
でも、「好き」の対象が「鳥」で、
鳥を飼っている
鳥カフェが好き
バードウォッチングによく行く
それなら、「鳥好き」でまとめろ、と言われちゃいそうです。
(私はこれです)
さらには、楽器演奏。
「ピアノを弾く」と「ギターを弾く」は、
分けて語っても許されそうな気がします。
でも、「エレキ」と「アコギ」を分けようとすると——
脳内で声が聞こえてくるんです。
——「それ、水増しなんじゃないですか?」
出た、趣味ポリス!

私の頭の中に住みついている架空の職務執行官です。
趣味の個数を増やそうとした瞬間、
どこからともなく現れ、耳打ちしてきます。
「“土偶好き”と“現代アート”はどっちも“美術鑑賞”で十分!」
「“推しのプレイリストを作る”は“音楽鑑賞”に内包されるぞ!」
「“レトロ喫茶めぐり”と“レトロプリンを食べる”を分けるな!」
「旅行」という趣味界隈のカオス
私は旅行が好きで、
どこかに行くついでに、次のようなことを楽しんでいます。
ライブや音楽イベントにも行く
美術館や博物館にも行く
水族館に行くのも好き
レトロ喫茶に行きたい
名物グルメは絶対食べる
城が好き、温泉が好き
ご当地の本屋や図書館に寄る
寺社仏閣をまわってお守りを買う
観光案内所でご当地パンフを収集する……
あ、帰ったら、山のように撮った写真をまとめて
旅行記も作りたい!
このように、「旅行」という趣味の中には
個人の興味のある多種多様なものが含まれるはずです。
これら全部ひっくるめて「旅行」?
いやいや、ここには
「芸術趣味」「動物趣味」「歴史趣味」「建築趣味」
「出版文化趣味」「食趣味」「収集趣味」「創作趣味」
などなどが内在してるんですよ!
「旅行」という趣味は、
「たくさんの趣味を一気に楽しめる贅沢なテーマパーク」
みたいなものなんですから!!
……と熱弁をふるったところで、またヤツが現れるのです。

——あ、今度はミニスカポリスですか。
「それも、全部含めて、“旅行”という趣味なのよ」
——え? いくらなんでもストイックすぎません?
趣味の修行僧なんですか?
「釈明は署で聞きますよ」
あー、趣味弁護士はいませんかーーーー⁉️

まとめろ圧と分けたい欲のせめぎあい
趣味を分ければ水増しと言われ、
まとめれば「こだわり」が消えていく。
この苦しさ、伝わりますか?
“趣味の細かなこだわり”ほど、他人には説明しにくく、
カウントしようとすると、急に嘘っぽく見えるという矛盾。
決ッッッして、水増ししたいわけじゃない。
でも、まとめちゃうと、本質がぜんぜん見えなくなってしまう——
……いや。
ここまで考えて、ようやく気づきました。
私は、趣味を水増ししたかったのではありません。
むしろ逆です。
「旅行」や「読書」や「音楽」という大きな箱の中に押し込めていた、
自分の「好き」を、一つずつ取り出したかったのです。
趣味って、誰かに認められるためにやるものじゃないですよね。
「自分が、楽しみを感じている」
それだけで、十分なんです。
私にとっては、ミステリとSFは違うし、
J-POPとクラシックも違う。
プリンを作るのとプリンを食べるのは、脳内分泌物質が違う。
だから、私はあえて分けて数えたいのです。
そして、数えることさえ“楽しみ”の一部にしたいのです——。
でも、私は良識ある大人なので、
実際には、そんな細かく分けたりしません。
趣味は「読書」と「音楽」と「映画」と
あー、「旅行」も好きですねー。
だいたいこんな感じに収まります。
——でも、そんな説明で、
「何」が好きな人なのか、本当に伝わってるんでしょうか?

パトロール中
趣味は、切り分けた瞬間、深くなる
趣味って、実は
“数えること”で再発見できる部分もあると思うんです。
同じ「読書」でも、
「この本のどこが好きなのか」
「どういうときに手に取るのか」で分けてみると、
自分が何を欲していたかが見えてくる。
そう考えると、趣味を切り分けるのは、水増しじゃなくて、
細やかな自己観察の手段なんですね。
分けることで、
自分の「細かなこだわり」や「楽しみ方の違い」が見えてきます。
そもそも、「切り分けて語れるほど好き」って、
それがもう、すでに、すごいこと!
というわけで、私は今日も、“心の中で”趣味を数えます。
それ自体が、もはや新しい趣味になっていたりして——
「逮捕だー!」

結論
私の趣味は、数え方によっては、すでに100を超えているし、
数え方を変えれば、永遠に100を超えることはない。
どこまで分けてよいのか、まとめるべきなのか、
考えだしたら、もう、夜しか寝られません(笑)。
おそらく、「百趣味」っていうのは“数”じゃなくて、
“楽しみ方の解像度”なのだと思います。
趣味の数を数えることは、「趣味を切り分ける」ことにより、
「自分の心が何に反応したか」を丁寧に切り出していくこと。
それは「趣味の深み」を可視化することなのです。
百趣味とは、100個の趣味を持つことではない。
自分の「好き」を、100通りの角度から見つけることなのかもしれません。

たとえ、夜な夜な趣味ポリスが、
「それ、趣味とは呼べないんじゃないですか?」
「その趣味は1つにまとめてください」
などと言ってこようとも!
いつも自分に問い続けたい。
「百趣味(ロマン)の火は燃えているか⁉️」と。
・「明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。」
——マハトマ・ガンジー
・「明日死ぬかのように趣味を楽しめ。
永遠に生きるかのように趣味を増やせ。」
——きのころ
本日は以上です。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
※今回のエッセイは、過去の2作品をリミックスしたものです。
・多趣味ライターは、趣味の「百姓」を目指す
・多趣味ライターは百趣味の夢を追い、趣味ポリスに追われる
たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
ありがとうございました。
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