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【ぬん学】「忍+念=ぬん」~忍術と念術の合体ロボ的な何かの話

こんにちは、きのころです。

FPで、司書で、多趣味。
そんな属性をパズルのように組み合わせながら、
何があっても「生きのころー!」をテーマに、毎日noteを書いています。

本日の記事は、笑芸家(笑いの文学家)初代王天君さんによる、
「〈ぬん学〉って何?」という募集企画への投稿「第二弾」として作成しました。

※ネタ論文ですので、すべて冗談としてお楽しみいただけますと幸いです。



はじめに

先日、私は「ぬん」と呼ばれる謎の概念が、ちょうど「なん」(ナンセンス)と「のん」(ノンフィクション)の中間領域であることを発見し、「ぬん文学」という新たなジャンルを切り開いた。

ところが、である。

ある日、五十音表をうすらぼんやり眺めていた私の目に、
「な」「に」「ぬ」「ね」「の」の5文字が、
「なん」「にん」「ぬん」「ねん」「のん」と姿を変えて飛び込んできたのである。

こうしてみると、「ぬん」は、「なん」と「のん」の中間というより、
「にん」と「ねん」の中間に近い。

これは、「ぬん」とは観測次第で「にん」にも「ねん」にもなりうる存在であることを意味するのではないだろうか。

いや、ひょっとしたら、「にん」と「ねん」を原型をとどめないほど混ぜ混ぜすることによって、「ぬん」という化学反応が発生するのでは?

いわば、「Nin」と「Nen」のフュージョン → 「Nun」爆誕!

それでは「にん」とは何か。
――「忍」である。

「ねん」とは何か。
――「念」である。

つまり、日本人によく知られた、あるいは、知っているようでよく知らない「忍」や「念」という概念の合体ロボ的超進化系「忍念」(ぬん)という文武芸(文芸と武芸をかけ合わせた新しい芸術的武芸、あるいは武芸的芸術)なのだ。

研究とは常に自己修正の連続である。

当エッセイ(あるいはエセ論文)では、前回つらつら述べたことはすべて棚にぶん投げて、新たに「忍念」(ぬん)という存在について探っていく。


序論

人間は古来より、現実と虚構の境界を揺さぶる技法に強い関心を抱いてきた。その代表例が「忍術」と「念術」である。

忍術は身体の隠匿や変化を通じて「目に見える世界を操作する技法」として、念術は精神集中や意識の力によって「目に見えない世界を動かす技法」として発展してきた。

両者は一見かけ離れているが、どちらも「現実と非現実のはざま」において、「人間の限界を超える」という野心的目的において一致している。

したがって両者を接続することは、偶然ではなく必然。
歴史的宿命である。

本稿では、この身体と精神の技法が単に並列するのではなく、「忍+念=ぬん」として融合しうるという仮説を提示する。


本論

1. 「忍」と「念」の語義的基盤

まず「忍」は、文字通り「刃を心に置く」と書かれるように、苦痛をこらえること、あるいは存在を隠すことを意味する。ここから転じて、忍者の技法としての「変化(へんげ)」、「隠形(おんぎょう)」などが展開した。

一方で「念」は、仏教語に由来し「今この一瞬の心をとどめる」ことを意味する。集中・祈念・想起といった行為を通じて、外界に働きかけるイメージが膨らみ、超能力的な「念力」概念へと結実した。

両者はいずれも「人間の限界を越える技法」でありつつ、方法論的に重視するのが身体なのか精神なのかという違いにすぎない。したがって、両者を接続することは歴史的必然であると考えられる。


2. 「忍念(ぬん)」という統合領域

「忍」と「念」が合体するとき、そこには「忍念(ぬん)」と呼ぶべき新しい芸術・武術複合体、すなわち文武芸が立ち上がる。

忍念(ぬん)は、身体的操作(姿を隠す、形を変える)と精神的操作(意識を集中し、外界に影響を与える)を同時に行う武芸であり文芸である。

例を挙げれば、「忍者が念力によって自らの姿を消す」という想像的設定である。

従来の忍術では煙幕や影の利用が必要だったが、念術的要素を取り込むことで「精神が外界に影響を及ぼすことで肉体的存在が消える」という、より観念的な説明が可能となる。

このとき重要なのは、それが科学的に実証されているか否かではなく、「信じてもいいし、笑ってもいい」という二重の読解可能性を持つ点である。

忍念(ぬん)の持つ二重性、すなわち「半フィクション性」にこそ、人類の想像力が新たに立ち上がる余白があるといえよう。


ケーススタディ

ぬん的現象の具体例

1. 忍者の消失現象

忍者が追手に囲まれた際、煙玉を投げて一瞬にして姿を消すシーンは、日本映画や漫画の定番である。物理的には煙に紛れて走り去ったにすぎないのだが、観客は「本当に消えたのでは?」と錯覚する。
この錯覚が成立するのは、忍術(身体的操作)と念術(観客の思い込み)が融合しているからであり、まさに「ぬん」が作動している例である。


2. 超能力ショーのスプーン曲げ現象

1970年代以降、世界各地で超能力者が実演してきたスプーン曲げは、トリックであると同時に真実味を帯びて語られてきた。観客の中には「手品だ」と笑う者もいれば、「本物だ」と信じる者もいた。
この「ぬん的二重性」が、信じても笑ってもよい余白を生み出している。
ここでも忍(隠す技法)と念(念じる力)が暗黙裡に結合している。


3. 日常生活における「誰かに見られている気がする」現象

最後に、日常的なぬん的現象を挙げておこう。
街角でふと「誰かに視線を感じる」と思って振り返るが、誰もいない。
この感覚は、忍による不可視の存在感と、念による精神的投影とが交差した瞬間に立ち上がる。
ここにこそ「ぬん」の現象学があるのだ。


まとめ:ぬん的現象の共通項

以上より、ぬん的現象には以下の共通項が見出される。

  1. 身体と精神の両義性(忍術的操作+念術的効果)

  2. 信じる/笑うの二重可能性(半フィクション性)

  3. 曖昧さを楽しむ余白(恐怖・驚異・笑いが同居)

すなわち、「ぬん」とは、文化的にも認知的にも機能する曖昧性の発現なのである。


結論

本稿では、「忍」と「念」を統合することで「忍念(ぬん)」という新たな文武芸、「合体ロボ的進化形態」が生じることを論じた。

それは、身体と精神を同時に操作する技法であると同時に、虚構と事実の境界をあいまいにする「半フィクション的空間」である。

以上を総合すると、ぬん学とは、図1に示すとおり、忍術と念術の不可逆的融合による「曖昧的生成モデル」として定義できる。

<図1>

結局のところ、「ぬん」とは、ありそうでなさそう、信じてよいのか笑うべきなのか迷う、その曖昧さ自体を楽しむための「宇宙的ゆらぎを内包した存在論的メタシステム」である。

忍術と念術が交差する地点に「ぬん」が立ち現れるとき、人類の想像力は飛躍的に、新たな地平を獲得するのである。


おわりに

(正気を取り戻して)
前回に続き、今回も、ここまで妄想的「ぬん学」の世界にお付き合いくださいまして、ありがとうございました!

え?
前回の記事を読んでいない?

それはまことに由々しき事態です!

「ぬん学」あるいは「ぬん文学」が社会現象になる前に、ご一読いただくことをおすすめします。


<前回のエッセイ、あるいは「エセ論文」>


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