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「風土」にあたる英単語が存在しないのは 「写真と言葉と理科と旅路と」 #026

大学に入って写真を始めた頃、僕は写真家の展覧会場を訪れても挨拶文やステートメントに全く興味がなく、ひたすら写真の審美性だけに浸っていた。写真は雄弁だ。しかしなぜその写真にいたったかを理解するには言葉が欠かせないことに当時は気が回らなかった。

「explain」(作品を説明する)ではなく「account for」(その理由を説く)。「state」(陳述する)までいかずとも、「なぜその写真か」が説いてあると撮り手の存在が作品に立ち現れる。いいステートメントに出会えると、写真は、画像を味わうだけでなく視点も味わえるものだと改めて知る。そして自分もそうあらねばと努める。2025年にソニーイメージングギャラリー銀座で作品展「かぜとつちと」を開催し、このようにつづった。


日本語でいう「風土」にあたる英単語が存在しないらしい。代わりに示されるのはクライメット、インバイロメント・・・。それではどこか腑に落ちない。自然環境にも人間社会にも当てはめられる便利なこの言葉にひそむ綾。緻密なのか曖昧なのか。いや、緻密なものをうまく曖昧にまとめていると解釈できるだろう。日本に住まう人々が抱く自然観を表しているだけかもしれない。
この国は海に囲まれ風雨にさらされることにより、湿潤で肥沃である反面、災害も頻発する。自然をコントロールする志向よりも、コミュニケーションの相手とする方が、理にかなっていたはずだ。自然もヒトも不可分で互いが世界の構成要素として対等であることに始まり、折り合いをつける両者の複雑な関係性が「風土」に織り込まれている。島根ではたたら製鉄と稲作に象徴される営みがそれを物語っていた。環境が人間を育むのか、人間が環境を育むのか、なんて問いは風土という概念が軽く押し返してしまう。
よそ者である私は、島根が織りなす風土の表面を無邪気に駆けまわるだけでなく、綻びに見えるところへくぐり込んだり、その内側で絡め取られたりもした。例えばそう、平面的な紙や布地を顕微鏡でのぞくと実は起伏が激しい立体物であることに気づくような好奇心や冒険心でもって、地域の魅力と課題を記録していった。そして、どこから光が当たるとその綾が浮かび上がるのか思案する。

作品展「かぜとつちと」より

このステートメントに対しておそらくあがる声として「フランス語には『milieu』や『terroir』があるじゃないか」を想像していたし、実際に声をいただいた。調べると「東京大学大学院情報学環紀要情報学研究 №86」に、フランスの地理学者オギュスタン・ベルクと日本の哲学者・和辻哲郎それぞれの「風土」論から考察がまとまっている。

島根・日御碕にて

勝手な要約をすると、和辻の「風土」はそれまで英語で「climatology」と訳され、ベルクが1969年に英訳版で初めて読んだとき、「民族の心理を物理的な風土の特質から引き出す陳腐な決定論」としか読めなかったと後に告白していた。その原因は英語訳だったからで、「climate」という語が人間主体から切り離された客観的な自然環境という意味を強く持つため、和辻の本来の意図が翻訳の時点で失われてしまったようだ。「milieu」はフランス地理学において文化的・社会的環境を含み、単なる「environnement」(物理的環境)とは区別して使われてきた語。人間の主体性を重視する環境可能論の伝統と結びついていた点で、ベルクにとって和辻の「風土」の訳語として最も近い言葉だった。英語が風土がうまく表せないのは、例えば日本語の「寒い」という表現には主格が未分、誰が・何が寒いのかが分離されておらず、英語の「It is cold.」にあるようにitという客体が寒さを持つ、人間と切り離された状態をさす。つまり英語という言語の構造そのものが、人間と環境を分離して表現するようにできている。「風土」のように人間と環境が不可分に現れる現象を、英語の文法構造では原理的に捉えにくい面があるからとこの論文は指摘している。

英語と日本語の成り立ちに違いを見出すことから理解が広がった。
(つづく)

このnote「写真と言葉と理科と旅路と」では、写真の裏側で息づく思考を言葉で残していく。