悪と正義と怒りと穏やかさと
とある職人の言葉を私はよく思い出す
「極めるために不必要なものを削いでいくことと、楽をするために(やらなくてもいいや)、とするのは見かけはとても似ている。
しかしその内実は全く違うのだ」
私は問う
「その違いを他人はどう判断すればいいのですか?」
彼は静かに答える
「自らも極めることだ。そうすれば同じ者がわかるようになる」
私には殆ど勝手に師匠として定めている人が4人いる。
その内の1人の言葉も私を強く貫いている。
それは「本当の正義の心とは穏やかなもの」という言葉。
あまり正面切って語られることはないが歴史において「正義」という言葉は「怒り」と密接に絡み合ってきた。
怒りによって立ち上がり、
怒りによって結びつき、
怒りによって蜂起し、
怒りによって敵を打ち倒し、
そして、怒りによって取って代わられる。
それぞれが「正義」の名の元に行われてきた。
本当の「正義」とは「穏やかな心」、だとするなら、「怒り」は「悪」だったと言えるだろうか。
それは間違ってはいない。
昔々「悪」とは現代のような「悪いこと」、という意味とは異なっていた。
「悪」とは「強い」「激しい」、というニュアンスだった。
そういう意味で言えば確かに「怒り」とは「悪」で、その対極にある「穏やかさ」とは「正義」である。
先人達は激しく、強い「悪」を「悪いこと」と位置づけたのだ。
しかし、ならば「怒り」は人間にとって不必要な、余計なものなのだろうか?
私は疑問に思う。
何故なら「怒り」が人生を繋ぎとめてくれることもあるから。
ポッカリと空いた心の穴を抱えては生きていけないから、怒りで埋めることで何とかその場に立っていられることもある。
私がそうだった。
その渦中にいるときはそれに気がつくことはできなかったが今ならわかる。
思考も、言動も、知識も、技術も、
優しさでさえも、
怒りを土台にして創りあげたものたちであった。
けれど、怒りのように「強く」、「激しく」、そして、「重い」感情を人生の間中持ち続けることは並の人間にはできない。
いつか手放す時がくる。
手放して気がつく。
「私は何もしてこなかった」、と。
全てが怒りから派生したものであったから、怒りを手放してしまえば残ったものは全て空虚であった。
けど、
きっとそれが最初の一歩で、
初めて私はホントウの正義に一歩踏み出したのだと思う。
そう思いたい。
その過程がとても大事に思えて、だから、そこまで生かしてくれた「怒り」もとても大切に思える。
そして見上げる空はとても青いから、、、
そうやって辿りついた「穏やかさ」と、
傷つかないために、感じないように「無」を装うことはとても似ている。
けれどその内実は全く違う。
その違いを他人はどう判断すればいいのだろうか?
あなたも「正義」に一歩踏み出すのだ。
いつか空が青いことを、
それだけで優しく思えるように。
