好きな人の女友達と仲良くなろうとする癖
ねえ、あなたは好きな人の女友達を好きになろうとしたことがありますか。
ないなら、そのまま健やかに生きてください。これはあまりからだにいい話ではない。夜中に冷めた揚げ物を食べるとか既読がついたLINEを何度も開くとか、そういう種類の、やめたほうがいいのにやってしまうことの話です。
私は、好きな人の女友達と仲良くなろうとする癖がある。
これは二十歳のころの話だ。
二十歳の私は大人っぽくなりたかった。
子ども扱いされるのが嫌だった。何も分かっていない顔で笑う女だと思われるのも嫌だった。茶髪のロングにして、少し高いヒールを履いて、大人びた顔を作っていた。
身長も高かったから、男の人たちは私をよく「しっかりしてそう」と言った。
最初のころその言葉は少しうれしかった。幼く見られないことを私は何かの勝利みたいに思っていた。けれどしっかりしてそう、という言葉のあとには、だいたい誰かの甘えが置かれた。夜中の愚痴を黙って聞くことも、少しくらい雑に扱われても笑って流すことも、私の背の高さや低めに作った声の上に、勝手に積まれていった。
私は大人っぽくなりたかっただけなのに、いつのまにか都合のいい姉みたいな輪郭をなぞられていた。
本当は誰かの姉になりたかったことなんて一度もない。
そのころ付き合っていた人に女友達がいた。
名前は希といった。
のぞみ。
呼ぶと口の中に少しだけ空気が残るような名前だった。薄くて、軽くて、私の名前よりずっと遠くまで飛んでいきそうだった。
彼の口からその名前が出た瞬間、腹の底で小さな警報が鳴った。鳴っているどころか避難訓練なしの大災害である。
どこの誰だ。 いつから知り合いだ。 どのくらい仲がいい。 私の知らない彼を、どの程度知っている。 その女の前で、彼はどんな顔をして笑う。
そういう問いが脳内で一斉に立ち上がった。
しかし私はそこで怒らなかった。
怒らない代わりに、笑った。
「へえ、仲いいんだね」
このときの私の声は、なかなか見事だった。軽く、面倒くさくなく、嫉妬などという下等な感情とは無縁の女の声をしていた。
だがだまされてはいけない。
その声の中身は、だいたい泥である。
私はある夜、ほとんど自分から言ってしまった。
「今度、会ってみたいな。希ちゃん」
言った瞬間、口の中が少し乾いた。
会いたかったわけではない。会いたくなかったわけでもない。会わないままでいるほうが怖かった。顔のない女が勝手に大きくなる。彼の言葉の端にぶら下がって、私の知らない場所でどんどん輪郭を持ちはじめる。
それなら見てしまったほうがましだと思った。
私が怖がっているものが、どれくらい本物なのか確かめたかった。
でもそんなことは言えない。
だから私は余裕のある女の顔で言った。
「仲いいなら、私も仲良くなりたいし」
彼は少し驚いたあと、「いいの?」と聞いた。
その聞き方がまた嫌だった。
いいの、と聞かれると、いいよ、と言うしかない。ここで急に嫌だと言えば、さっきまで着ていた理解ある女の服がその場で全部床に落ちる。私はその服をまだ脱げなかった。
「全然いいよ」
そう言った私の声は、ちゃんと明るかった。
はじめて希に会ったのは国道沿いのファミレスだった。
ドリンクバーの氷が落ちる音が店の奥からときどき聞こえた。
ファミレスに履いてくるには少しだけ頑張りすぎたヒールの中で、足の小指が痛かった。
彼がスマホを見て、「もうすぐ来るって」と言った。
私は「そっか」と笑った。
大人っぽい女はここで落ち着かない顔をしない。大人っぽい女は、自分で会いたいと言った女が本当に来るだけで、こんなに呼吸を浅くしたりしない。
入口の自動ドアが開いた。
希は思っていたより普通に入ってきた。
それがいちばん困った。
彼は私の隣に座って、希は向かい側に座った。
希は私と系統が違った。
小柄だったとか、黒髪だったとか、そういう分かりやすい反対語ではない。彼の言葉にすぐ笑えるところも、白い照明の下で自分の輪郭を直そうとしないところも、私が必死に作っていたものとは別の場所にあった。
私は茶髪のロングで、背筋を伸ばして、少し低い声で笑っていた。彼の友達にも感じよく挨拶できて、知らない話にも退屈そうな顔をせず、嫉妬なんてしない女の形を、店に入る前から体に着せていた。
希は、そういう役を引き受ける前の軽さで座っていた。
ドリンクバーで希は迷わずメロンソーダを入れてきた。
二十歳にもなってメロンソーダ、と私は一瞬思った。
でも彼女はそれを少しも恥ずかしそうにしなかった。透明なグラスの中で緑色の泡が小さく潰れていた。私はその夜、ブラックコーヒーを飲める女みたいな顔をして、砂糖を二本入れていた。
その時点で少し負けた気がした。
いや、正確に言うと負ける準備を始めた。
彼がメニューを見ないでポテトを頼むと、希は「またそれ」と笑った。
また。
私はその一言を聞き逃さなかった。
彼が「こいつ昔からポテトばっか食うんだよ」と言うと、希は「そっちもじゃん」と言った。
昔から。
その言葉はストローの袋を裂いたあとの細い紙みたいに指先に残った。
もちろん彼女は何も悪くない。ただ昔から知っているだけだ。ただ私のいない場所で、彼と同じ空気を吸っていただけだ。ただ恋愛になる前の彼を、当たり前みたいに知っているだけだ。でもそれがいちばんずるかった。
私が欲しくてたまらなかったものを、彼女は何でもない顔で持っていた。
途中、彼と希の会話が昔話に寄っていった。
私の知らない高校の話や、放課後に寄っていたコンビニの話が二人の間だけで勝手に温まっていく。私はその横で、ポテトについた塩を指で払っていた。
大人っぽい女は、知らない話でも置いていかれた顔をしない。彼の過去に割り込まず、自分だけ輪の外にいることをちゃんと冗談みたいに処理できる。
「私だけ知らない話だ」
そう言えたらまだ可愛かったのかもしれない。
でも私は言わなかった。
言わない代わりに、紙ナプキンの角を何度も折った。
希が途中で、ふとこちらを見た。
「あ、ごめん。内輪の話ばっかしてた」
私はすぐに笑った。
「全然。聞いてて面白い」
嘘だった。
面白くはなかった。
でも、彼女が悪くないことだけは分かった。
悪くない女はいちばん困る。嫌うための取っ手がない。こちらが勝手に抱えている泥を、相手の服に塗りつける場所がない。
希はメニューをこちらに向けた。
「これ、食べる? たぶん辛くない」
彼女の指先が、チーズの乗った小さなグラタンの写真の横で止まった。
私は「食べる」と言った。
本当はそのころもう味があまり分からなかった。
彼は私の隣で、ドリンクバーから戻ってきた紙コップを置いた。
「こいつ、ブラックコーヒー飲めそうな顔してるのにめっちゃ甘くするんだよ」
彼が笑いながらそう言った。
こいつ。
私はその呼び方に少しだけ安心して、少しだけ雑に扱われた気がした。
希は「へえ、意外」と言った。
私は笑った。
「見た目だけ強そうなんだよね」
その言葉は自分で言ったのに、あとから少し痛かった。
見た目だけ。
大人っぽくなりたかった私が手に入れたものは、だいたいそれだった。強そうで平気そうで、置いていってもあとから一人で帰ってきそうな女。本当は誰かに迎えに来てほしい夜ばかりだった。
私は欲深かった。
彼を独占したかった。選ばれたかった。不安にならなくていいと言ってほしかった。希はただの友達だよって、子どもに言い聞かせるみたいに何度でも言ってほしかった。
でもそんな自分を認めるくらいなら、希のことを好きになるほうがまだ簡単だった。
女の敵は女だなんてそんな雑な言葉に逃げたくなかった。私はむしろ、女の子が好きだった。可愛いとか軽やかとか、私よりずっと自然に人に愛されるものを見ると、憧れと嫉妬が同じ皿に乗って出てきた。
私はそれを、残さず食べた。
店を出る前、彼が「写真撮ろう」と言った。
嫌だった。
今日の私はずっと笑っていた。軽く、明るく、物分かりよく、嫉妬なんか知らない女の顔で笑っていた。その顔をファミレスの白い照明の下で残したくなかった。
でも断る理由もなかった。
彼がスマホを持って、腕を伸ばした。
希は慣れたみたいに彼のほうへ少し寄った。私は一拍遅れて画面の中に顔を入れた。近づきすぎると必死に見えそうで、離れすぎると他人みたいで、結局どちらにもなれない距離で笑った。
画面の中の私は、茶髪のロングで背が高くて、少しだけ首を傾けていた。
大人っぽく見えたと思う。
たぶん。
でも今思うと、ただその場を壊さないように端のほうで笑っている女だった。
希は彼の反対側で笑っていた。
撮られる準備をしていない顔だった。私が鏡の前で練習していたものとは違う、力の抜けた笑い方だった。
彼は真ん中で、少しだけ目を細めていた。
テーブルの上には冷めたポテトと飲み残した甘いコーヒーと、折り目のついた紙ナプキンが写っていた。希のメロンソーダだけが、まだ少し泡を残していた。
その写真を、彼がその場で送ってくれた。
私はそれを保存した。
保存したくなかった。
でも保存した。
店を出ると、国道沿いの空気は少し冷えていた。
駐車場の白い線が、夜の中でやけにはっきり見えた。希は反対側へ歩いていき、彼はコンビニに寄ると言った。私は「じゃあね」と笑ってひとりでバス停のほうへ向かった。
さっきまで笑っていた口角だけが、まだ少し戻りそこねていた。
バス停のガラスに自分の顔が薄く映った。
ファミレスの白い照明が、まだ肌の上に残っているみたいだった。
バッグの中でスマホが震えた。
彼からだった。
「今日はありがと。希も楽しかったって」
希も。
私はその文面をしばらく見ていた。返信欄に「よかった!」と打って、消して、また打った。最後に絵文字をつけた。
泣いている顔ではなく、笑っている顔にした。
この笑顔の絵文字というやつは本当にろくでもない。
人類が発明した小さな嘘の中でも、かなり上位に入ると思う。あの黄色い丸い顔はこちらが内臓を握りつぶしているときにも、平気な顔で歯を見せる。
家に帰ってから、私は希のインスタを見た。
プロフィール写真の希はファミレスで見たときより少しだけ大人びていた。投稿には、犬と誕生日ケーキと、彼が押したいいねがあった。
私とは系統が違う。
そう思った瞬間、少しだけ楽になった。
そして、そのぶんだけ深く沈んだ。
違うなら比べなくていいはずだった。
それなのに私は、希の投稿をひとつずつ見ていた。
カフェで犬を抱いている写真。海の前で、髪が少しだけ風に流れている写真。
別に特別かわいい写真ではなかった。
たぶん、そこが嫌だった。
希の写真はなんとなく撮られて、なんとなく載せられているように見えた。
私は画面を拡大した。
髪の乱れとか口元の歪みとか、何かひとつくらい見つけたかった。見つけて、安心したかった。
何もなかったわけじゃない。
ただ、それを見つけても、私は別に勝てなかった。
部屋は冷えていた。
私は希の投稿にいいねを押した。
いいね。
なんて白々しい言葉だろう。
私は本当は、彼女を怖がっている。
彼の中に私の知らない時間があることが怖い。私が見たことのない顔を、彼女が先に見ているかもしれないことが悔しい。
私より先に彼を知っていたというだけで、彼女には何か正規ルートの入場券があり、私は転売で買った高額チケットを握りしめているような気分になる。
だがそんなことは口が裂けても言えない。
言えば、みっともないからだ。
私はみっともない女であることより、みっともない女だと見抜かれることのほうを恐れていた。
私は希を好きになりたかった。
希を好きになれば、彼女を敵にしなくて済む。敵にしなければ、自分が醜い女にならずに済む。彼女の魅力を認めれば、私の嫉妬も少しは上等なものに見える。
彼女を褒めるたび、自分の中の嫌なものが少しだけ上品になる気がした。
だから私は言った。
「希ちゃん、いい子だね」
そう言える自分でいるとき、私はまだ崩れずに済んだ。まだ選ばれる可能性があるような気がした。まだ彼の生活の邪魔をしない女でいられる気がした。
けれど、その「邪魔をしない女」とは何だったのだろう。
好きな人の生活に入り込みたい。自分の場所がほしい。誰にも見せない顔を見たい。自分だけが呼べる名前で呼びたい。そういう欲望を全部折りたたんでバッグの底に押し込めることを、大人になることだと思っていた。
二十歳の私は、大人っぽくなりたかった。
嫉妬しない女になりたかった。彼の女友達にも笑って挨拶できる女になりたかった。自分の不安くらい、自分で畳んでバッグにしまえる女になりたかった。
でもあのころの私は大人っぽかったわけじゃない。
ただ、痛いって言わないことを大人になることだと思っていた。
それから何度か、希と二人で会った。
最初は彼もいた。次は彼が少し遅れて来た。その後は、最初から二人だった。
昼のカフェで希はミルクティーを頼んだ。私はコーヒーを頼んだ。苦いものを平気で飲む女に見られたかったのだと思う。カップの縁に口紅がつくのが嫌で、毎回同じ場所から飲んだ。
希は、よく笑う子だった。
彼の話だけではなかった。バイト先の嫌な先輩の話、実家の犬の話、話の途中でストローの袋を細く結ぶ癖があった。結び終わるとそれを指でつぶして、小さな白いゴミにした。
私はそれを見ながら、彼の女友達という名前でしか見ていなかったものに生活があるのだと思った。
そうなると、もう簡単には憎めなかった。
憎めないから余計に困った。
彼とは、そのあと別れた。
別れた日のことはあまり覚えていない。
どこで話したのか、最後に何を言われたのか。たぶん泣いて眠れなかったのだと思う。たぶん、何度もスマホを見たのだと思う。
でも不思議なことに、そこはもう薄い。
ただ、あのファミレスの写真だけはしばらく消せなかった。
三人で写っている写真だった。
彼の顔を見るためではなかった。むしろ彼の顔は見れば見るほど知らない人みたいになっていった。
私が見ていたのは、写真の端に収まっている二十歳の自分だった。
茶髪のロングで背が高くて、少し低い位置に肩を落として、ちゃんと笑っている女。
その反対側で希も笑っていた。
あのころ私は、彼の隣にいるつもりだった。
でも写真の中では、希と私のほうが同じものを挟んで立っているように見えた。
別れてしばらくして、希からストーリーに反応が来た。
私が夜中に載せたコンビニのアイスの写真だった。
「それおいしいよね」
それだけだった。
彼のことは聞かれなかった。
大丈夫、とも元気出して、とも言われなかった。
ただ、アイスがおいしいという話だけが画面の上に置かれていた。
私は少し考えてから返事をした。
「おいしい。二個買えばよかった」
希から、笑っている絵文字が返ってきた。
それで終わるはずだった。
でも終わらなかった。
次は私が希のストーリーに反応した。犬の写真だった。かわいい、と送った。希は、でしょ、と返した。
そのくらいの薄い糸が、なぜか切れなかった。
それから十年が経った。
元彼の顔は、もうほとんど思い出せない。
あれだけ彼の一言で眠れなくなったのに。あれだけ返信を待って、画面の明かりで夜を細切れにしていたのに。今では彼がどんな声で私の名前を呼んでいたのかも曖昧だ。
でも、希のことは覚えている。
はじめて会った日の、白すぎる照明。希のメロンソーダがやけに子どもっぽく見えて、なのに少しも馬鹿にできなかったこと。送られてきた写真を、消したかったのにすぐ保存したこと。
そしてもっとおかしなことに、私は今も希と友達でいる。
誕生日に短いメッセージを送り合う。ストーリーに反応する。たまに会えば近況を話す。彼の名前は、もうほとんど出ない。
この前会ったとき、私は黒髪のボブで低いヒールを履いていた。
高いヒールで足の小指を痛くしていた二十歳の私とは、少し違う人間になった気がする。たぶん、少しだけ。
希は相変わらず、ストローの袋を細く結んでいた。 結び終わるとそれを指でつぶして、小さな白いゴミにした。
元彼の顔は忘れた。
でも、希の名前はまだスマホの中で光る。
希から通知が来ると、親指だけが一瞬、二十歳に戻る。
返事を考えている間に画面が一度暗くなる。
黒くなった画面に、今の私の顔が映る。
短くなった黒い髪と、あのころより少しだけ力の抜けた目。
大人っぽくなりたかった女は、もうここにはいない。 そう思いたいのに、希の名前が光るたび、どこかでまだファミレスの白い照明がつく。
私はすぐには返事を打たない。
画面の中の私が、ちゃんと今の顔に戻るまで。
