劇場(note創作大賞2024オールカテゴリ部門応募作品)
(以下、作品概要)
タイトル:劇場
スタイル:短編小説
あらすじ:人生をかけた大切な約束の日に十年来の親友に映画館に拉致られてしまった男性。焦る男性だったが、目の前の親友の奇妙な様子に段々と疑問を持ち始める。ここはどこなのか。なぜ親友は自分をここに連れてきたのか。そもそも、自分はどうして急いでいたんだっけ―――――
(以上、作品概要。以下、作品本編)
1:
「なあ、そろそろここから出してくれよ」
ささやくつもりだった声は、場所のせいか思ったよりも大きく響いた。カタカタと回る映写機のかすかな音の隙間に声の余韻が消えていく。
白くひかるスクリーン。床に落ちたポップコーン。色褪せたビロード張りの椅子はどこまで見渡しても空っぽだ。古い劇場には、ふたりの青年以外誰もいない。
青年は眉間にしわを寄せ、隣の男…十年来の友人である彼をにらみつけた。友人はそれを気にしているのかいないのか、何も答えずにポップコーンをほおばっている。スクリーンに反射した色が友人の白い肌とTシャツに散って鮮やかに染まる。青年はスクリーンのほうをちらりと伺った。気になる、けれど今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「あのさ」
さっきよりももっと小さな声で、青年は再び友人へ話しかけた。「俺、ちょっと急ぎの用があるんだ。ほんとうに悪いんだけど、もう出してくれねえかな。また今度呼んでよ」男にしては長い髪の向こうの、少し不機嫌そうな目と視線が合う。差し出された何かを反射的に受け取ると、それはポップコーンだった。
「いやそういうのじゃなくて…」あ、これ食べて黙ってろってことかよ。青年はむっとしてキャラメルのかかったポップコーンを口に放り込んだ。甘くておいしい。でも俺は塩味のほうが好き。
「ていうかさ、ここはどこなんだよ。急に拉致られて死を覚悟したんだぞ、こちとら」
「…」
「…なんか言えよな。…いやポップコーンはもういいって…もう。」
友人は頑なに何も答えなかった。渡されたカップの中でポップコーンの影が揺らいでいる。なぜか、昔どこかで同じ風景を見た気がした。
「…」
青年は座りなおしてスクリーンに目をやった。今朝、ここに連れてこられてから五本目。どれも同じような自主製作映画だった。よほど適当に放っておかれていたのか、映像はノイズ交じりだ。内容も大して面白くない。けれど青年にはそれを嗤うことが出来なかった。
二人はしばらく黙って画面を見つめていた。スクリーンでは自分たちに似た二人の青年が列車に乗っていた。窓の外では街の明かりが星のように瞬いている。映像の古さを差し引いてもまだ古風な装いの二人は、視線を交わさずに窓の外を見て何かを話している。
友人が青年のひじ掛けからポップコーンカップを取り返して、一つ口に運ぶ。視線はじっとスクリーンから離れない。青年はその横顔に向かってもう一度声をかけた。
「…何で俺をここに連れてきたの?わざわざお家の運転手さんまで引っ張り出しちゃってさあ、すっげー怖かったんだぜ」
朝早く、まだ薄暗い道で急に車に引きずり込まれた数時間前のことを思い出し、青年は小さく身震いした。それこそ映画の中で拉致されるシーンは何度か見たことがあるが、実際に体験するとこんなにも恐ろしいものだとは。そうして車に乗せられ、気づくとこの劇場の中にいた、というわけだった。隣にいた友人の顔を見て、こいつのいつもの大がかりないたずらの一種であることは察したが、しかし何故なのかが分からない。これを計画したであろう当の本人はさっきから不気味なほどだんまりで、笑いをこらえるような様子さえないのだ。
「…なあ」
無視か。はぁーっとひとつ大きなため息をついて青年はスクリーンに向き直った。
その映画はどうやら『銀河鉄道の夜』を下敷きにした作品のようだった。撮ったサークル内で無理に人を寄せ集めたせいだろうか、ジョバンニ役は全くいじめられっ子とは思えない貫禄のある大柄の男だった。その巨人ジョバンニが汽車の窓を開け、外へ身を乗り出す。カメラ切り替え。本当に走っているように風を吹き付けている。いけない、扇風機の音が入ってしまっているじゃないか。ここを少し消しておくだけで仕上がりがだいぶ良くなるのに。そんな青年の心配も知らず、ジョバンニは不思議そうに汽車の上部を見上げる。
『この汽車、石炭をたいていないね。ほら御覧、煙が出ていない。』
ジョバンニが指さした先をカムパネルラも見つめる。『アルコールか電気だろう。』カムパネルラは独り言のようにつぶやいた。二人は頭を引っ込めて車内へ戻る。再びカメラ切り替え、二人の全身が収まるカットからジョバンニのカメラに切り替え。さっきから車内でのカメラの向きがずっと同じなのは窓側しかセットを作っていないからなのだろう。
『アルコールラムプか、成る程。そういえば、昔カムパネルラの家でアルコールラムプで走る汽車で遊んだね。ほら、あのレールをつなげてその上を回すやつさ。かんがえてみればこの汽車はどこか君の持っていたあの汽車に似ているね。ほら、あの三角標なんかそっくりじゃないか。』
そういってジョバンニが指さした先を青く光る三角標が流れていく。三角標の光に似た燐光がちらちらと窓の外で揺れる。カメラ再び切り替え。カムパネルラの顔がアップになる。かすかにこわばった顔でカムパネルラがジョバンニのいる方を見つめている。自分の仕掛けたとびきりのいたずらがばれてしまいそうな、一生懸命に言い訳を考えているような顔で。青年はふとその顔に既視感を覚えて隣を見た。友人は急に振り向いた青年にいぶかしげに視線をやって、またすぐにスクリーンに目を戻した。
「…なあ、もしかしてお前、俺になんか言いたいことある?なんかさっきからやたらとメッセージ性感じるんだけど。…おい。」
青年は友人の肩をつかんで気持ち強めに揺さぶった。友人は心底めんどくさいといった顔で人差し指を立て、口をぱくぱくと動かす。じょ、う、え、い、ちゅ、う、は、お、し、ず、か、に。なんて図々しい野郎だ。まるでこちらが全面的に悪いみたいな態度。腹立つ。
青年はおろしたてのスーツの袖口に覗く腕時計を見た。タイムリミットは刻々と迫っている。待ち合わせには余裕をもって到着する、という社会人基本中の基本を考えればデッドラインは残り数分もない。自然と足が貧乏ゆすりを始める。さっさと席を立てばいいのかもしれないが、それにはどうにもこの友人の態度が気にかかる。しかし、これからの人生を考えれば今日は絶対に遅れるわけにはいかない。――しかし、自分は何のためにそんなに急いでいたのだろう?
「な、頼むからそろそろ種明かししてくれ。何のためにこんな大掛かりなことやったんだ?なんか俺お前に悪いことでもした?誰か誕生日だったか?」
「…」
「…わかった、もういい。帰るよ。また今度今回の意図については教えてくれ。」
「おい待てよ、帰るな。」
青年が荷物をまとめて立ち上がったのに驚いたのか、友人が初めて声を上げた。この劇場についてからずっと黙っていたからか、それとも四年生になってからめっきりサークルに顔を出すことも減ったからか…青年はその声に奇妙な懐かしさを感じた。実際あんまりにも喋らない友人を少し怖く感じ始めていたところだったのだ。
安心した一方で、また苛立ちの気持ちが湧いてきた。何だよ、説明もしないくせに他人の時間は拘束して、一体何様のつもりなんだ。つかまれた手首を乱暴に振り払って、友人の驚いたような顔をにらみつける。
「いい加減にしろよ、いつまでも学生気分しやがって!…お前はそれでいいかもしれないけどな、俺はそうはいかないんだ。今日遅れたら人生終わりなんだよ!お前俺の人生責任取れんのか!?」
頭の芯がかっと沸騰する。。なんでもいいからこいつを傷つけてやりたい。怒りに任せ、殴りかかるように大声を浴びせた。友人は目をまるく見開いて青年を見ている。しかしすぐにその目つきは尖ったものに変わり、彼はふんと鼻を鳴らして言い返した。
「上映中のマナーもなってないやつに時間厳守を説かれたくはないね。せいぜい一回遅れた程度でどうにかなる人生は考え直した方がいいんじゃないか?」
「ああ考え直すさ、でもそれはここを出て時間に間に合ってからだ!大体いつもいつもお前はさあ…!」
青年は友人の襟をつかんで引っ張り上げた。その襟の先を見て、青年はまた苦虫を噛み潰したように口をゆがめる。しわだらけの、着倒されたTシャツ。ああ、こいつはこういうやつなんだ。いつでも白いTシャツにジーンズを履いて、それで全く困らないタイプの人種。何もかもが自分とは違う。挫折を知らない天才、生まれながらの帝王。こいつはきっと一生俺のようなリクルートスーツなんて着ることはない。それが果てしなく恐ろしくて、苛立たしかった。
「…」
しばらく睨み合って、青年は突き飛ばすように手を離した。これ以上考えていると泣いてしまいそうだった。友人はよろけて席に座り込み、むっとした顔で青年を見た。
青年は荷物を乱雑に肩にかけて歩き始めた。それを不満げに見送る視線を感じながら、振り返らずに吐き捨てる。
「もう付き合ってられない。お前とはいい友達だよ、だけどもう隣にはいられないんだ。お前は天才だから自分の映画を撮る。俺には才能がなかったから他人の広告を撮る…さよならだ。今度は時間の余裕があるときに呼べよ、もちろん俺のな」
青年は大股で階段を上り、重たい扉の前に立った。――ふと。ずっと昔に同じ扉を見た気がして、青年は手を止める。そのまま一度振り返って、友人のほうを見る。友人はスクリーンではなくこちらを見ていた。
映画はクライマックスに差し掛かっている。ザネリが灯篭を押そうとして川へ落っこちる。それを見たカムパネルラはすぐさま水に飛び込んだ。彼の目に迷いはなかった。夜空が映って銀河そのものになったような水面が揺れる。カメラが水の中へと沈んでいく。
『ねえ、ジョバンニ、僕自分がやったことに後悔はしなかったんだよ。むしろその逆さ。心の底から満足したんだ。僕はあの天上に光る蠍のように誰かのために身を投げることができた。僕、何も後悔はなかった』カメラが沈むカムパネルラに追いつく。彼はうつろになった瞳で、すっかり遠くなった水面を見上げている。カメラ切り替え。カムパネルラの指の先、揺らめく水面に星々が輝いている。『けれどね、僕少しだけさみしく思ったんだ。最後に君と会えなかったから。だから神様にお願いしたんだ。時計屋に飾ってあったみたいな黒曜石で出来た地図を持ってさ、あの星々の中を、君と一緒に旅を出来たらどんなに良いだろうかって。』カムパネルラの体が再びカメラを追い越す。最後に映った表情は穏やかな微笑だった。『それにしても君の持っていた切符は不思議だったね。君はどこへ行くのかな…それを僕、見てみたかったな…』星の光も届かない暗い水底へ、カムパネルラの体は沈んでいく。フェイドトゥブラックから画面切り替え。ジョバンニが無邪気に笑う。
『カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ…』
その約束が叶えられないことをカムパネルラは知っている。もう共にはいられないことを心からさみしく思う。
青年の友人は何も言わずにこちらを見ている。その表情から目を離せない。そのひどい胸騒ぎとは裏腹に体は勝手に扉を押し開ける。隙間から差し込んだ光がスクリーンの映像を、ノイズ交じりの音声を、劇場のすべてをかき消す。ドアの向こうにある景色を見て青年は思い出した。ああ、どうして忘れていたんだろうか、だから俺は…
2:
「このテープをお前が見ているとき、俺はたぶん死んでいると思う」
「とはいっても、自殺を考えているとか不治の病とかいうわけじゃない。ただそういう体でビデオメッセージを残してみただけだ。たまに気まぐれに未来の自分への手紙とか書いてみたりするだろう?そんなもんだと思ってくれればいい。…でも、これを見ているってことはきっと俺は死んだんだろうな。その時にお前に届けてもらうように家の奴に頼んでおいたから。何年先なのか知らないけど、友人に先立つっていうのはさみしいもんだな」
「…あらためて。まずは四年生への進級おめでとう。お前と一緒に過ごした映画ばっかりの青春は俺の一生の宝物だ。サークルに来られなくなんのは残念だけど、お前ならどこに行っても立派にやるって信じてるよ。研究とか就活とかがんばれよ。もちろん、その先の道のりもがんばれ」
「お前ともずいぶん長い付き合いになったよな。こうやって話をしていると、意外と昔のことって覚えてるもんだなって思う。ガキんころに俺んちのホームシアターに招待したらさ、お前すっげえびっくりしてたよな…『ホームシアターっていうのは家に劇場があるってことじゃない』ってさ。あの時のお前のマジな顔、思い出すだけで笑える。いや…俺も俺でびっくりしちゃってさ、てっきりホームシアターっていうのはどこもああいう感じだと思ってたから…俺って世間知らずのボンボンなんだなあって改めて思い知らされたよ。結局あそこで映画見たのって中学んときが最後か?もったいねえよなあ、せっかくあったのに…。社会人になったら忙しいと思うけどさ、またあそこで映画見ようぜ。…あー、っつってもこれを見てるときにはもう手遅れなのか。難しいな、今んとこはカットしとこう」
「あとさー、中二くらいに初めて撮った映画覚えてる?『八月』のやつ。あれ何か青春映画賞みたいなん取ったけど、何で取ったんかわかんないくらいお粗末なやつだったよな。絶対父さんの名前見て審査員が忖度したんだろうな。やだやだ、腐敗腐敗。てかさ、あれで武志やってたミッチー、こないだテレビのインタビュー受けてたんだけど。何か今注目のコント芸人やってるらしいよ。こういうときって俺たちが育てましたって言っていいのかな?ミッチーのルーツは俺たちです!ってさ…いいわけねえか。あいつほんと面白かったよなー。自動ドア系のセンサーに全部無視されんのも面白かったし、一回コンビニのドアに顔面挟まってたのガチ面白かったわ。いや…。ちょっと待ってめっちゃツボった、わりい…」
「あと、これは再々々上映くらいの話になるんだけど、高2の春合宿置いてったのマジごめん。いやだってお前花粉症がしんどいみたいな話してたじゃん…行かない方がいいんじゃねえかなと思って。山だったし。帰りの駅に着いたときに鼻ズビズビのお前が泣きそうな顔で立ってたのガチ申し訳なかったわ。許してくりゃれ、この通り。アイスおごるから」
「高校んときっつったら、高1の夏にお前珍しく自分で映画撮ったよな。…あれ今でもよく見返すんだ。あの映画は良かった。そりゃもちろん俺の撮った奴のほうが出来としちゃ立派だぜ、でも見返したくなるのはお前の映画だけだ」
「あとは…そうだ、高3の時に撮った映画結局まだ見せてないわ。いやさ、撮ったはいいんだけど編集めんどくなっちゃって。このメッセージ見てるころには完成して見終わってるといいんだけど、ぜってえそんなことないだろうな。完全にやる気ねえもん。だからさ、もしよかったらお前が編集してまとめといて。パソコンに全部入ってるから。パスワードとかフォルダ名は同封してあっただろ?家の奴にもお前に渡すように言っておいたし。ま、俺が撮ったんだから内容については間違いなし、お前が編集してくれりゃオスカーだって夢じゃねえかもよ?お前、やたら卑下したがるけど編集技術とか機材の扱いに関しちゃ相当ご立派なもんだと思うよ。笑うやつがいたなら俺の名前を出せよ、一発で黙らせてやるよ。なんてな。」
「……」
「…お前さ、この先どうやって生きていくんだ?映画はもう撮らないのか?全然カメラもAdobeも触んねえような職業に就くのか?お前はそれでも生きていけるのかよ?あんなに映画が好きだったのに、憑りつかれたみたいに朝も晩も映画のことばっかりだったのに。全部忘れて、何もかもなかったことにして、それでお前本当に自分が自分だって言えるのか?」
「…わかってる、お前はたぶんこれを聞いて、余計なお世話だって思ってる。『俺は平凡だからね、それくらいがお似合いだ。』って。どうだ、今の似てたろ?まあいいや、そんなのどうだっていいんだ…そうだ、俺は別に与太話をするためにこのメッセージを撮ったわけじゃない。…言わなきゃならないことがあるんだよ。俺が死んだ後にしか伝えられないようなことがさ…」
「…なあ、お前、自分の映画を撮れよ」
「『自分には才能がないから』っていつも編集とか裏方の仕事ばっかりやりたがってたけどさ。才能なんかなくたって撮ればいいんだよ。」
「…俺が死んでもお前はその先を生きていく。それだけで十分資格はある。持って生まれたものが無いならたくさん手に入れればいい。お前がこのビデオを見てる時間も、講義受けてる時間も、寝てる時間も食ってる時間もクソしてる時間も全部お前のものにして、お前は自分の映画を撮れ。俺は必ず、それを見に行くから。」
―――――――――――――――――――――――――
俺は人混みの中を走っている。さっきからずっと息が苦しい。映画作りは体力仕事だとは言ったってこれは訳が違う。中高ずっと持久走はビリから数えた方が早かったことを思い出す。喉から血の味がする。熱い肺はもう破れそうだ。第一スーツに革靴で走るって何なんだよ。靴擦れ待ったなしだ。もういい年してこんなのカッコ悪すぎる。でも、俺はずっと走っている。
「すみません!通してください!」
ギリギリの息で俺は声を張り上げる。やっとたどり着いた。時間に余裕をもって到着するなんてのは当たり前にしなくちゃならないことなのに。クリエイター職に就けば時間も勤務形態も自由だなんて思ってたやつはどこのどいつだ?
目の前にわずかに隙間ができる。もはやなりふり構っていられない。日本社会における伝家の宝刀、「どうもすみません」をここぞとばかりに振りかざしてその隙間を押し通る。満員電車とはしばらく無縁だったが、あまりにも視界がかつての通勤風景に似ていて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。本当に俺はあの場所までたどり着けたんだろうか?それは単なる白昼夢で、俺は今でも満員電車に揺られているんじゃないだろうか?不安になってスーツの内ポケットに手を突っ込む。何度も繰り返し確かめてすっかり手に慣れた感触がある。今時珍しく葉書で送られてくる、この舞台への招待状。緑の紙にエキゾチックな模様がプレスされた、確かに俺が掴み取った夢。離したらもう二度と手にできなくなりそうで、そっと指先で押さえつける。俺はここまで来たよ。まるで隣にいるみたいなテイであいつに語り掛けた。本当はお前と一緒に来たかったけれど。まあ春合宿置いてったんだからおあいこだよな。なんて。あまりに白々しい思考に、自嘲の笑みが喉の奥で鳴る。なんで平気なふりなんかしているんだろう。全く大丈夫でもなんでもなくて、考えるだけで涙が出そうで、だからあんな映画を撮ったのに。
受賞が決まってからというもの色んなインタビューに答えた。対面の時もあったし電話の時もあったし書面の時もあったけど、どんな形式であれ、みな判で押したようにこの質問をした。「この映画はご自身の思い出から作られたのですか?」そりゃ、ちょっと調べれば俺たちの過去なんてすぐに出てくる。その上であのストーリーならば誰だってそう思うだろう。けれど、俺は頑なにそれを認めなかった。今日だってそのつもりだ。絶対にお前の名前をスピーチでは出してやらない。まるきり平凡で陳腐な、俺らしい5分間にお偉いさん共を付き合わせてやる。
やっとの思いで人混みを抜け、舞台袖に入った時にはもう上映が終わるところだった。スタッフロールの最後に俺の名前が流れていき、一瞬の静寂の後に劇場の明かりが戻る。目がくらむほどの光が舞台を照らし、地鳴りのような拍手が俺を待っている。
「監督!何してたんですか!しばらく演者さんに繋いでもらうので出る準備お願いします!」
「ごめん…ありがと…」
見慣れた顔のアシスタントが呆れたように手招きをしている。息を整えつつ袖から覗くと、思っていたよりも遥かに眩しい光が目を刺した。全てが輝いた、嘘みたいな場所。客席では誰でも名前を知っているような有名人たちがスタンディングオベーションをしている。こんなところに今から俺が。何とか落ち着き始めていた心臓がまた暴れ始める。震える手が無意識に内ポケットへ向かっていた。指先に触れた、招待状とは違うもう1枚の紙の感覚。大丈夫だ。世界中の奴が俺の映画を嗤っても、愛しても、俺にはこの紙がある。映画を撮る理由がある。相変わらず足もとは覚束無く、声は裏返ってしまいそうだったけれど、俺はそのままで舞台に上がった。一層拍手が大きくなる。信じられないくらい全部が夢に見たそのままで目眩がしそうだ。下手くそな笑顔を浮かべて会釈をしながら、俺は舞台の真ん中に立った。
「えー、今日は皆さんお集まりいただいて……」
用意していた言葉をリピートしながら顔を上げたその時だった。
「あ────」
息が止まった。きらびやかに照らされた劇場。床も見えないほどにたくさんの人々。はるか遠くまで埋め尽くされたその真ん中、たった2席だけが空いていた。まるで誰かがさっきまで座っていたみたいに。あるいは今も座っているみたいに。
「あれ?監督?どうかされました?」
「大丈夫すか?俺が代わりにスピーチしましょうか?」
助演俳優の言葉に和やかな笑いが広がって、さざ波のように人々が揺れる。気を利かせたのであろうそのジョークに苦笑いで返しながらも、俺はその空席から目が離せなかった。何故、なぜ。それと同時に、ああそうか、そうだったか、と何もかも全てが腑に落ちたようにも感じた。そうだ。お前がこんなビッグイベントに来ないわけがない。それならば、俺の言うべきことは……
俺は震える息を吸い込む。書いてきた原稿は今全部脳内で破り捨てた。もうあんなのはいらない。言うべきことは決まっている。
「……今日は、」
映写機のランプが消えて、劇場が暗闇に包まれる。数秒の後に灯りがつくと、スクリーンの前には少年が立っていた。「どうも、どうも」おどけた様子でお辞儀をする少年に、たった1人の観客が笑いながら拍手を送る。ひとつきりのそれが万雷の喝采であるように、また満員御礼の千秋楽であるようにして、少年は顔を上げて誇らしげに笑った。
「今日はどうも、俺の映画を見に来てくれて、ありがとうございました」
