Economic Beautyという罠
「美」って何?
——「美しい」という言葉であなたの連想するものは何ですか?
宝石、貴金属、麗人、衣服、景色、言葉、動物、絵画、工芸品、システム、音楽、戦略、数式、ドブネズミ、老い……、あなたはどんなものを思い浮かべたでしょうか。
この中にないものも色々あるでしょうし、中には「醜い」と感じる物もあるかもしれません。こんな感じで「美しい」と感じる"中心"は人によって異なります。ざっくり言えば「美」は「その人が良しとする価値観」の一種ですからね。
しかし、「今、自分の周り」に限定すると「美」は共通しやすく絶対的に感じやすいもの。ですので一度感性を柔らかくして、より自由に美を感じられるためにも、ちょっと常識を疑ってみませんか? 面白いものが見えてくるかもしれませんよ。
「美」は移り変わる
「美」とされるものは、時代によって驚くほど変化します。ある時代では豊満な身体が理想とされ、別の時代では痩身が理想に。日焼けは労働者の象徴として避けられた時代もあれば、健康的で洗練された印象として歓迎された時代も。他にも、調べてみると今の価値観からすると「え?」となるような装身具や身体的特徴が珍重されていた時代や場所だらけなのです。バリエーションがあるという事は、それらを探れば「美」の共通点や傾向が見えてくるはずです。
豊満→美の時代
先ほども例に出しましたが、豊満な身体が「美」の時代は長く、日本で言えば縄文時代の縄文のヴィーナスや、ギリシャ神話の女神も下腹ポッコリです。逆に、"モデル体型"など痩身が「美」とされるのは現代日本を含むいわゆる先進国がほとんど。この二つの時代や場所の違いで最も大きいのは食料供給でしょう。極端に言えば餓死が身近か否かです。
人類史の大半は栄養不足が身近な時代で、豊かな肉付きは単なる体型ではありませんでした。それは「十分な食」の証明であり、病気や飢餓への耐性の象徴であり、そして資源にアクセスできるという地位の象徴でした。つまり、豊満さは視覚化された"安心"や"豊かさ"だったわけです。
均整→美の時代
しかし産業革命が進むと、食糧事情は大きく変わります。化学肥料や燃料の利用で食糧生産も流通も劇的に安定的かつ大規模化。結果として、「飽食」の時代となりました。そんな場所や時代は人類史上稀で、生命としてのヒトにとってある意味で異常事態です。低所得層でも食欲を容易に満たせる環境が整うにつれ、「美」の事情は変わっていきます。以前は「食える時に食えるだけ食い溜める」が生命戦略として正解でした。しかし、簡単かつ継続的に食欲が満たせる状況でのこの戦略は、太りすぎ、糖尿病、高脂血症等のデメリットを招きます。すると豊満さはマイナスイメージが強まっていき、"堕落"や"不摂生"の象徴へ。その反動で「美」は規律的で均整を保った身体へと移っていきました。
富としての「食」は量から質、そして珍しさへと評価軸が移り、肥満・不摂生の原因になりそうな食は「ジャンク」「罪」のイメージがつく。欲に従うか抗うかというせめぎ合いの中「意識高い系」なんて言葉もできました。
結果として、「美」は「栄養状態に基づく豊かさ」から、細さ、ストイックさ、無駄のなさ等、「欲求に抗う意思・行動力の結晶」へと変化していったのです。
流行→美の時代
20世紀の後半以降はさらに情報革命が発生。TVメディアを中心に強い求心力を持った「美」が広域に送信されます。例えばある芸能人への憧れが、以前より具体的に形を以て提供されるわけです。こうなってくると、美は次第に生命的な基盤から遠ざかっていき、情報環境(情報メディアや、その影響を受けた周囲の価値観)と結びつきが強くなっていきます。何を懐かしく感じるかで年代がばれますが、真知子巻き、●●族、聖子ちゃんカット、アムラー・シノラーや、あるスポーツ選手を中心とした「ブーム」などもその一種。目標となる人や在り方に統一感がある時代でした。目標の在り方や属性を取り入れる事で、その「美」を自分に同化していくわけですね。そして、そこに価値観を置く人は「そこにいかに近づけるか」で競うわけです。「ロックな生き方」とかもそれです。2000年以降生まれの人にも通じますかね?
こうしてみると「美」は自然発生する不変の感性ではなく、①「環境の影響を強く受ける概念」という事が分かります。また、その時代・場所で②「よりアクセスが難しく、取得・維持コストが高く、評価が高いもの」が「美」の中心におかれる。という所でしょうか。
現代先進国の特殊さと「美」
数値→美の時代
流行→美の時代もさらに進むと、TVのチャンネルは増え、インターネットが行き渡り、SNSは日常化。情報メディアは複雑化していきます。それに伴い、非常に多様な"「美」の基準"が花開いていきました。良くも悪くも、流行→正解とできた時代は、流行を追えば凡そ社会的落伍は避けられていました。それが価値観すら数多から選べる時代となってしまったわけです。この時代、価値観を自力で組み立てるのが苦手な多くの人にとって「何が正解かかわからない」という困った状況です。下手すると、落伍者扱いを受けるかもしれません。
ただ、世の中には「数字」というわかりやすい指標がある。数字そのものは公平公正かつ無慈悲。そして価値観の迷い人にとってはある意味救世主です。情報過多の時代、「これを目指そう」という目標が固まるのを、乱立する価値観が「本当に?」と邪魔してきます。そんな中、なんとなくみんなが理想としている方向が「痩身」っぽいのは認識に残る。そして「痩せる」が美を目指す方向性として重用され、その指標に「体重」「BMI」「体脂肪率」等の数字の低さが優劣の基準に収まりました。元々「痩」の字は「病だれ」ですし、実際の見た目は体重が低い程一般受けするわけでもないんですけどね。
こうして「数字に依った自己演出能力」の証明が「美」と接続し、現代日本ではかなり基盤となる心情や思考に影響しているわけですね。それが今回の主題「Economic beauty」へとつながるのです。
価値観は作れる
「可愛いは作れる」みたいなものです。さて、ここで「人の欲望は金になる」といえば、勘の良い方は何を言いたいかお気づきかもしれません。
欲求と価値
貨幣取引は物々交換の延長。基本的にお互いが相手の物を「どのくらい欲しいか」を元に妥協点を見つけ、取引が行われます。そして、状況次第で「欲しさ」は変わります。極端な例を挙げましょう。
①「自宅に美味しい湧き水が出る人」は、1Lの水を買う意味が特にない。
②「砂漠での脱水症状で瀕死の人」にとっては、1Lの水と危機を脱した後の寿命に近い価値がある。
これは全く同じ1Lの水でも、同一人物でも成立します。状況の違いだけで価値が0円にも数十億円にもなるわけですね。つまり、水そのものに価値があるのではなく、状況が生み出す「欲しさ」が価値となっている。じゃあ、提供するものを「欲しく」してあげれば、有利に交渉できますよね?
価値は「状況」が生み出すもの。 その典型例が、信長が利用した“美濃の茶碗”と、20世紀~のパワーストーンブームです。 どちらも「価値の再定義」によって市場が生まれたケースです。
信長が利用した「陶器」
鎌倉・室町時代辺りまで、焼き物は中国の磁器が一強でした。まだ国内で磁器は作れないながら、日本でも磁器を模倣した陶器を価値あるものとして作っていた時代です。そんな中、時は安土桃山いわゆる乱世。戦から避難してきた優秀な陶工が美濃辺りに集まります。ただ技術集団を抱えて名産としただけなら普通です。
しかし、「美濃の茶碗」というブランドを立て、政治利用できるほど様々な武将や権力者に「領地や金に値する」と価値を信じさせた。それが信長の戦略か、千利休の差し金か、はたまた別の人物の献策か。そのあたり無知なのですが、なんにせよえげつない。なにせ「自分の所で評価軸をいじれるもの」を手にしてるわけですから。しかも、今まで「道具」の範疇だったものを「憧れ」「権力欲」「自己顕示欲」と接続させ、価値をインフレさせたのです。磁器とは異なり、無作為や自然の作り出す偶然の「景色」を評価軸とすることで、欠点と認識されていた所に価値を結び付ける。そうして従来と別枠の価値基準となるようにしたのも戦略でしょう。あの時代に計算づくでやったなら、天才か狂人ですよ。
恐らくは元々「信長が認めた」の象徴で、地方会社の社内ポイント的なものだったのが、株式会社信長が全国区になるにつれて影響力が増したのだと推測しているんですけれどね。しまいには城やら国やらと同等の価値があると言われるものも。その価値観が現代にも引き継がれているのも凄い所です。
2010年代に仮想通貨の様式を作った人もこんな感じかもしれませんね。
パワーストーンブームも……
価値をつけられていなかったものが珍重されるようになったもう一つの例が「天然石」。宝石は20世紀後半に入るまで「純度の高さ」「大きさ」が価値基準として幅を利かせていました。小さくて他の物が混ざり込んでいる方が鉱物としては多いですから、これもある意味「不自然さ」という珍しさが価値になっていたわけですね。
そんな中、工業・産業時代の反作用のように生まれたヒッピー文化。彼らは社会的に是とされた価値観の逆を行こうとしたのでしょう。「自然さ」を求め、南米の古代文明と接続していわゆるパワーストーンブームになりました。カットされた規格モノだけでなく、クラスタの形や内包物がある事に個性を見出す。「自然」かつ「唯一」という珍しさを価値にしたわけですね。こうしてモノとしては昔もあっただろう天然石は顧みられ、意味づけられ、価値づけられ、宝石とは別軸の「良きもの」としての一定の地位を得ていきました。
念のためですが、私は陶器も天然石も大好きです。「価値ないものに値段付けて荒稼ぎする奴の餌になって騙されてやんの、バーカバーカ」みたいな冷笑をする気はありません。それだと私は笑われる側ですし。こういった価値の遍歴を知る事も、ものの楽しみ方の一つではないでしょうか。自分にとっての価値を見直すきっかけにもなりますしね。
「正解/不正解」の価値観と商売の効率(美と経済)
さて、また少し観点を変えてみましょう。この「価値観」を利用して「効率よく稼ぐ」にはどうしたらよいか? 答えは先ほどの通り「大衆を動かしやすい価値観を普及する事」です。現代ですと昔より容易に広域メディアによる価値観供給が可能ですからね。そして消費者全般を対象に「よりアクセスが難しく、取得・維持コストが高い何か」を「高い評価」とセットにしてやる。
「流れに逆らう事」を「美」、「流れに任せる事」を「美の喪失→醜」と設定する。自然にある流れと言えば死やその周辺、老いに始まり、病、怪我、不調など。そして、その逆である生や若さ、健康、快調などを殊更良いものとして強調するわけです。そうすると、生命的快さに社会的優良認識が上乗せされます。
そして、人間は今持っているものを失うことを意識させられると怖くなるもの。身近な誰かが死んで初めて自分の寿命を意識したり、ケガや病気による日常の変質を経験して安全や健康を意識するようになったり。そういう経験は、必ずしも身近である必要も、現実である必要もありません。つまり、想像さえさせられれば、「喪失」の恐怖を物語として体験してもらえば「欲求」の土壌ができます。すると、生命的不快に「そんな喪失をもたらすようなことしてるってバカなの?」みたいな社会的劣悪認識が上乗せできます。
ここに、快適優良と不快劣悪の巨大な落差が生まれるわけですね。そして「あれから逃れたい!助かりたい!」に応える商品を配置しておくのです。「喪失」への恐れが強まるほど、"救い"の商品の需要は増します。強い感情は判断力を失わせますから。「あなた地獄に落ちるわよ」「でもこうすれば大丈夫」とか、「滅びが来る」「でも入信すれば大丈夫」とか、免罪符とか。いやはや古典的というべきか、王道というべきか。
この構造が理解できると、それが身近にたくさんあることが分かると思います。例えば、健康食品や美容品、保険、金融商品などのCMは特に多いのではないでしょうか。「その日焼け、そのまま放っておくとシミやしわに……」「でもスキンケアは面倒」「そんなあなたに!」みたいな、ね? 尚、こういう方法が悪いとは言いません。訴求方法として優秀だから使われ続けているだけで、支払った対価に対して得られた商品に納得できるなら良いのです。
危惧すべき価値観
問題なのは売り方そのものではありません。その扱い方が情報耐性の弱い子供たちの心にまで影を落とす事です。飽食の時代において痩身の人をもてはやし、そうでない人の扱いを少し雑にする。それをさも当たり前のように。そうすると禁欲的美意識が大衆の意識に根付き、大きな流れをつくる発信になります。そしてその中で育った子供はそのまま成長し、親になるのです。
そういう価値観の根付いた人たちが大きな割合を占める社会では、家族・友達の視線や態度にも意図せずそれが含まれます。自然、コミュニティ内ヒエラルキーにも影響しますから、余計に「体重数値の低さ」が集団内の生存戦略として成立してしまう場所ができます。成長期の子供は太って身長が伸びてを繰り返すことなどよくある事ですが、健康範囲内なのに親が、兄弟姉妹が、友達が「太った」とからかったり、過剰に気にしたり、態度に出たり。そうして心の傷を負ったり、そういう事態を見て己がそうなることを恐れる人が増えます。
そういう恐怖体験が原動力となることで、「痩せるためなら何でもやる」みたいな人が現れる。そうなると、食料はそこにあり、経済的に問題も無いのに餓死者が出たりするわけですね。食が死ぬより怖かった、という事でしょう。
高カロリーな食などに対し「罪悪感」という言葉が当たり前に使われるのを聞きますが、これはもはや文化背景化しているのでしょう。条件反射的に、社会そして自分の体に対する背信行為のように感じるほどに。しかし人間は禁止されたり背徳感を感じるものにはついつい手を出したくなるもの。食欲に背徳が乗ればさぞ快感でしょう。グルメ番組が高級品ばかりでなく、B級グルメや爆食いコスパ系を特集するのは、肥満対策商品にとって後押しになるのでしょうね。
しかし、唆されてやった「罪」は罪悪感となってやってくる。その分運動するなどができればよいのですが、大体の人は習慣にない事なんてできません。そもそも運動習慣があれば罪と感じにくいですしね。となれば、その苦しさを除いてくれる「楽して痩せる商品」には高値を付けても売れるわけです。「0カロリー」「脂肪の吸収を抑える」「糖質カット」「脂肪の燃焼を助ける」など免罪符のバリエーションも豊か。研究も商品開発も盛んです。売れますからね。
しかし、それでも不安の大きい人は、効果の怪しいヤバいクスリや、「脂肪便がどばどば」みたいな明らかに嘘だとわかるWeb広告等に引っかかってしまう事も。リテラシーどうなってるんだと思う人もいるでしょうけれど、当人にとって強く存在価値に関わるものであれば、平時なら即破棄する程度のものでも縋るほど判断力は低下します。怖い事に、知能的には十分高い人でもです。
Economic Beautyの構造
ここまで見てきたように、その時代その場所の「美」は何が忌避され、何を価値としていたかを反映するものでした。飢餓の時代には「蓄えられる身体」、規律の時代には「管理された身体」。そして現代では「流布された価値観に最適化された身体」が美になっていると言えるでしょう。
しかし、人間は理想に向かって機械的に動けるようにはできてない。欲求・快楽に流されるのもまた自然です。そして現代社会は、高カロリー食品、刺激的な娯楽、短期的快楽等を大量に供給する一方で、メディアは「制御された身体・精神」を理想像として発信し続ける。「消費を促す環境」と「消費を制御できる人間を美とする価値観」が同時に存在しているわけです。
それらが圧力となり、
①快楽へ流されて消費する
②罪悪感を抱く・醜さから逃げたい
③罪悪感・醜さキャンセル商品を消費する
④「こうすれば大丈夫」という自分や周囲への弁明完了
⑤次の快楽享受のハードルが下がる
そしてまた①へ、という個人内のループが加速していきます。
サイクルが回る程、資産は市場に流れます。
こうした個々人のダイエットと暴飲暴食、禁欲と解放、自己肯定と自己否定等、対極の落差は束ねられ、市場経済の駆動力として使われます。よくできていますね、ホント。
先ほどのループは一人称視点ですが、同じことを仕掛け人視点で見ると社会としてのループが見えてきます。
①広域メディアにより「禁欲的美」の価値観、および誘惑が流布される。
②視聴者の集団に「禁欲的美」が社会的に良いものとして認識され、
誘惑と禁欲の落差が内面化。
③「禁欲的美」と自分の現実とのズレが発生。
④自分でズレを修正できない罪悪感と、それに対する応答が発生。
・快楽と罪悪感にブーストされた不摂生
・運動用品や健康商材、痩身商材など
・痩せて"見える"服
・自分への言い訳
・我慢によるストレスの転化(買物、ギャンブル、攻撃等への依存)
⑤成功(を自認する)者がメディアで「禁欲的美」を再発信する。
(以下ループ)
このループの中に、誘惑・抑圧・開放の各部分に自分たちの売りたい商材を組み入れれば、ある種のマッチポンプの完成。そして価値観も自動的に再生産されます。
「美」や「正しさ」の圧力が強いほど、「こうしなければ」という意識のアクセルは踏み込まれ、その強さに応じて「嫌だきつい」という無意識のブレーキも踏み込まれる。アクセルとブレーキを同時にベタ踏みしたら当然故障しますし、それは心だと苦痛として現れます。もしその苦痛から解放される瞬間があったなら、必ずまたそれを味わいたくなる。ある商品によってそれがもたらされたなら、当然それを「欲しい」と思う気持ちは砂漠での水のようになるでしょう。まさに渇望を生み出すシステム。こうして現代の禁欲的美意識は、欲望の管理と流通を含めた経済圏を形成するのです。
これを誰かが仕込んだのか、それとも自然に収束したのかはわかりませんが、商売人は機に乗じてこそ。今日までそれは強化され続け、経済的利益に対して「美」が最適化されてきた。これこそ、私がEconomic Beautyと呼ぶものです。いやはや、なんと見事に「誘惑・抑圧・解放がセットで市場化」されていることでしょう。ある種の畏怖と感動を覚えます。仮に設計者がいるなら悪魔的な天才でしょう。そこはかとなく、まどマギのキュウベェが言う希望と絶望の相転移エネルギーを思い出したのは私だけでしょうか?
Economic Beautyに人生を喰われないために
さてさて、大衆の無意識に根をはるこのEconomic Beauty。なかなかに厄介な代物でございます。さりとて世の中との関わりはそうそう断てるものでも無い。では、一体こやつとどう向き合っていけばよいのでしょうか?
Economic Beautyは日常に組み込まれたループですから、それが自分の中で暴走すれば取り込まれます。裏を返せば、ループから抜け出せなくなる前提を崩してやれば良いわけですね。その方法を書いていきましょう。
囚われている価値観の供給を減らす
前述の通り、まず大前提として「美」は周囲の価値観によって形成されるものです。つまり、ビルダーの多いマッチョだらけのジムでは筋肉の量が評価対象として強くなり、美白界隈では如何に白さを保つかが評価対象になる。コミュニティ内に強い「正解」がある場所1か所だけに所属していれば、その評価軸だけが正義となるわけですね。そういった絶対的評価軸のある場所では「違う=悪い」になり、ヒエラルキーが強化され、そこでの優劣や傲慢や嫉妬に絡めとろうとする人間も増えます。カルト教団の中の教祖への貢献度とかも似たような感じですね。
ですから「正解」を謳う人やメディアからは距離をとる。これがEconomic Beautyから距離をとる第一歩でしょう。「不細工に見える●●TOP10」「●●な人はやっている事」みたいな「これが正解 / 悪」みたいな価値観は、接触を避けるだけで気が楽になったりします。真面目な人は自分に負荷かけすぎちゃいますので。
恐らくデジタルデトックスというのものは単に目や脳を休めるという効果もありますが、こういう毒になるほど過剰供給される価値観をシャットアウトする効果もあるのでしょう。もちろん、ネットに限らずTV等でも本でも同じことです。
尚、その価値観を離脱しようとするとき、「あなたがそれに囚われている事」で安心を得ている人が、邪魔してくる事があります。ですから仮にうまくできなくても自分を責める必要はありません。そうしたいと思ったことで、すでに変化は始まっています。離れるという気持ちが心に根付いていれば、心という緻密な生存システムが裏で色々試行錯誤してくれているでしょう。
他の価値観を摂取する
また、異なる美の価値観を持つ場所や人との精神的接触を増やすことができれば、価値観の画一化は抑えられます。単純化された正解不正解ではなく、「自分はこれが好き」「あなたはそれが好き」とそれぞれ違う事を受け容れる土壌がある場所では、勝ち負けを作る必要が無い。そうして、色々な評価の在り方を自分の中に取り入れる事で「自分にとっての美」がより鮮明になり、芯が強くなるわけですね。流行は認めつつ、横に置いて置ける強さとでも言いましょうか。環境によってそれが育っていくわけですね。
そういうものを得るには、最初は知らない環境に飛び込む勇気が必要で、そうするために必要なものは人によって違います。なので軽々しく「こうすれば良い」とは言いにくいのですが、人の価値観を覗き見るだけならSNS等で「おすすめ以外」を覗いてみるのも、きっかけの一つとしてはありかもしれませんね。
ただ、自分の求める傾向に沿った情報と接触しやすくなる検索・おすすめアルゴリズムはもはや標準装備ですから、全部切るのはなかなか難しい所。そういう意味では、美術館や博物館、紙の本がある書店や図書館等はアルゴリズムの外側に触れるに適した場所でしょう。アルゴリズムも普段使いには便利なんですけどね。
美しいと思った気持ちを記録する
日々できる小さなことも書いておきましょうか。他者の関係ない「好き」「美しい」「面白い」など、気持ちが動いたものを記録してみると良いかもしれません。ただ記録するだけでも良いですし、「その瞬間、どこに惹かれたんだろう?」みたいな疑問や「こういうことかな?」と思う事を書いてみても良いでしょう。自分の「好き」や「美しい」と感じるヒントがそこに現れます。それが分かってくるにつれ、世界にも、自分の中にも「美」を感じられるセンサーが育っていきます。
思い込みって怖いもの
お洒落や「美」は我慢と言いますけど、あれも"半分は"噓です。確かに我慢が必要なものも存在します。「自分の美しいと思ったものを突き通す」難しさや、そのために越えなければならないハードルがあるならその通り。
しかし、それだけが「美」ではない。岩に歴史はあっても我慢はしていませんし、木々や猫、他の生物は生きる事即ちその姿であり、それは美のための我慢ではありません。それは人も同じ。自分自身と向き合い、試行錯誤している人の人生は、それ自体が美しいと、私は思います。
最初に述べた通り、「美」は意外とバリエーションがあり、自由です。しかし、みんながそれが良いと言っていると、良いような"気がしてくる"のが人間です。そういう先入観や思い込みを外す訓練をすると、「美しいものに触れた瞬間の感覚・感情」や「自分が何を美しいと感じるのか」が鮮明に見えてきます。まだあなたは震えるほどの「"自分にとって"の美」を知らないかもしれない。それすなわち、これからそれが見つかる可能性があるという事でもあります。それは身近に、そして自分の中にも見出せるものかもしれません。
ほら、あなたの「美」はもうそこに……
