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「個性」を再定義するテクノロジー

ご縁があり、4月末に開催された、SusHi Tech TOKYO 2026にお邪魔してきた。

AIの利用の加速が進む中で、「人間の真価はどこに見出せるのか?」
そんな疑問の答えを探し求めようと、ビックサイトに向かった。

好奇心を刺激されながらも、ひとつの解を見出した。

今回はそんな思考と感性の足跡をここに留めようと思う。

(かなり主観的な内容です。。こんなこと考えている人もいるんだなぁ程度に捉えてください)
↑これ伏線になってます笑

テクノロジーの進化は五感を伝える

映像。音声。
今ではSNSを媒体として、世界中にありとあらゆる動画が共有されている。
地球の裏側のことだろうと、リアルタイムで、そして過去のことまでも共有することができる。
デバイスのメモリに収められた「人々の記憶」は瞬く間に世界中で拡散されている。

ここ150年ほどで、私たちは視覚や聴覚を容易に「時空」を超えて(未来のことは分からないが・・)共有することができるようになった。

そして、今回のSusHi Techで驚いたのは、嗅覚や身体的な感覚までもを共有するテクノロジーが開発されているということだ。

例えば、嗅覚。
離れた場所の匂いのデータを細分化、数値化して、別の場所でそのデータを再現する物質があれば、その匂いを発することが可能らしい。

また、触覚とまではいかないが、身体的な感覚(力の入れ加減)も共有可能らしい。
陶芸職人が作品を制作している時の手の力の入れ方をデータ化し、それを機械を使って、別の人の手に伝えることで、職人がどのタイミングでどのくらいの力加減で作品を制作しているのかを伝えられるというのだ。
(この技術は、継承が危ぶまれている陶芸家の技術を後世に伝えるために開発されたものらしい。大学生が作ったものらしく。。すごい!!)

科学的な知見を使って、人々の感覚を数値化し、ユビキタスに再現可能になり始めているという現状に、正直驚きを隠せなかった。

というのも、身体的な感覚とは、個人の感覚に完全に依存するものであり、
それは共有が難しいという私の固定概念を打ち砕いたからだ。

本来的に感覚とは、もっと曖昧で、個人的なものではなかったのだろうか?
その身体感覚は「再現可能なデータ」なのか?

五感の共有がもたらすもの。

継承が危ぶまれている技術が、後世に受け継がれるようになったり、離れた匂いを再現することで、よりリアルな体験ができるようになったりと、五感を共有するテクノロジーは私たちの「営み」をより豊かにするものになるであろう。

しかし、私は正直当惑したこともあった。
五感が共有されるようになった未来では、そこに人々の「個性」を「その人らしさ」を、どこに認めるのだろうか?

ここで少しAI技術の発展についても考えてみたい。

知識が均質化される時代

AIの技術の発展は近年目覚ましいものがある。
ホワイトカラーの雇用喪失の警鐘は専門家によって鳴らされ続けており、特にデータ処理や文章生成などの、「数字」や「文字」を使った仕事は容易に代替可能な時代になった。

また、検索エンジンにAIを搭載することにより、誰でも容易に知識や情報を手に入れやすくなった。
よく物知りな人のことを「歩く百科事典」と称することがあるが、今では、誰しもが百科事典になり得るのだ。

専門語彙が豊富で難しい知識や情報も、AIによって、簡単に平易な言葉に要約することができる。

そして、「知識の活用」についても、素人の人が容易にアクセスしやすくなった。
個人の専門的な知見によって生かされた「知識の活用事例」は一度情報の波(インターネット上の情報)に投げてしまえば、瞬時にAIによって取り込まれ、誰しもが「知ることができる」情報に変わっていく。

人々が情報を「共有」するほど、「誰もがアクセス可能な知識」が増えながら、「知っていることの希少性」は失われていくのではないか。

(しかし、AIを活用するにはその情報を引き出すための思考力が必要であることには当面変わりなさそうだ)

体験もいずれ開放されたものになる?

テクノロジーの発展によって、知識だけでなく、体験も均質化される時代になるのではなかろうか?

思い出の味、景色、音、香り、感触。
人々の「記憶と共に眠っている感覚」は、細分化して数値化することにより、「再現可能な情報」へと変化しつつあるのではないか。

かつて、1人で浸ったその感覚を、他人と共有することにより、そこには一体感という、「人の熱がこもった感覚」が生まれるであろう。

しかし、それは、「自分だけが持っている体験」から、「あまねく開放された経験」となる瞬間だ。

その人を構成する経験の一部(全部?)がデータとなり、再現可能な情報となった時、そこに「体験価値」をどのように見出すべきなのだろうか?

熟練の職人はどうして尊敬されるのか?

個人の体験がいずれ、開放されるのだとしたら、技術もいずれ開放されたものになるのか?

職人の技術の継承を助ける技術は、確かに文化継承の観点では大きな貢献をもたらすだろう。

しかし、そこに継承された技術に、「職人が一生かけて身につけた技術」としての重みや情熱はどのくらい受け継がれるのだろうか?

何万回と土に触れ、「至高」を目指したその軌跡は、データには「アウトプット」でしか反映されない。
共有された感覚は、残酷なまでに無機質なデータだ。

創意工夫の中で、最高級の傑作を生み出すために、その一生分の時間を惜しみなく投下した、「職人魂」とも言えるそれに、人々が触れた時、その温度を感じ取り、魅了され、尊敬の眼差しを送るのではないだろうか?

均質化されたものに「何」を思うか。

「生産よりも消費に価値が出る時代。偏屈な嗜好の消費がその人らしさになる」
ブース内で開かれた対談で、そんな興味深い発言を聞いた。
私はこの言葉に妙に納得感があった。

AIテクノロジーが発達する中で、消費が追いつかない生産が予想される中で、「偏屈な」嗜好性を持った消費に価値が生まれるだろうと。

偏屈な嗜好性がどのようにして生まれるかを考えていたら、私の中の違和感は幾分和らいだ気がしたのだ。

確かに、テクノロジーの発展によって、生産はますます加速するだろう。

そして、もはや体験という今まで「その人らしさ」の構成要素が、再現可能な均質化されたデータとしてアウトプットされる時代だ。

しかし、それを「インプットする時に伴う感覚」は、数値化できるほど簡易的なものではなかろう。

それは、1人の人間として、その人が生きてきた軌跡が反映される瞬間だ。
生まれた環境、生きてきた環境、それにより、その感覚は人の数だけ分岐していく。

人々はそれを言葉にして、時に作品にして、そして、その感覚を世間に反映させていく。
しかし、その言葉や作品、が表現できる範囲は極めて限定的だ。
それは、「言葉にできない感覚」という表現がある事実を見つめれば、容易に想像でき得るだろう。
(ことAIは、その限定的な「言葉」による作業が非常に得意なのだが・・)

自由度が高い「作品」という表現方法ですら、連続性のある時間の中で、切り取られた瞬間的なものだ。

その感覚やそこに込められた意味を完全に再現することはできない。

人の感覚・感情は、何千時間もの連続した時間の中で、その人の中に積み上げられたものから、構成されていく。

無意識のうちに見るべき情報や、見た情報を通すフィルターは個人によって選択されていき、それは再現可能なデータではなく、その人の記憶とそこから生まれた感覚によって存在できるものだろう。

それを「個性」というのではないか。

情報の海に溺れ、均質化される現代人

敢えて、皮肉な小見出しをつけてみた。

ショート動画を見てたら、ついつい時間を浪費してしまった。
そんな話を聞くようになった。

ショート動画の閲覧は、まさに情報の海に身を投じる行為であろう。
スワイプする度、新しい情報(刺激)に触れることができる。
それは、私たちの思考や、「繊細な感覚」置き去りにして、情報が押し寄せてくると言い換えることもできるであろう。

SNSには、「トレンド」が溢れかえっている。
動画や写真の撮り方、暮らし方、何もかもがトレンドの波に侵食されていく。

それを共有することは、先ほど述べたような「一体感という人間的な温度」を宿す行為であろう。

しかし、そこに「個人の人としての」温度はあるのだろうか?
誰しもが、そしてテクノロジーですら、おそらく再現不可能であろう、自分自身の軌跡が反映された「感覚的なもの」がそこには存在するのだろうか?

だから、形にしよう。自分の感覚を。哲学を。

だからこそ、私はこの「偏屈で主観的な記事」を書いてみた。

もし五感が全て共有可能になって、「体験」という行為がコモディティ化して陳腐なものになっても。。

それを踏まえた先にある「個人の感覚」は、テクノロジーによって曖昧になる「個性の境界線」を自分だけの思想や価値観、感覚が定義してくれると思っているからだ。

今日、見て、聞いて、触って、味わって、嗅いだ、その感覚から、
どんなことを思うだろうか。どんな感情が浮かぶだろうか。

そして、その感情・感覚は「私という1人の人間」のどの部分から来たものだろうか?

そんなところに目を向けて、何かの形にする行為が、たとえ非合理的であったとしても(いや、非合理的であるからこそ)

テクノロジーが発展した社会の、「最先端な」でも、人としての原点に立ち返った、生き方かもしれない。

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