無いことを愛すること(豊かさについて・三)
お手紙ありがとうございます。エリック・ロメールの『緑の光線』、私もみました。いい映画ですよね。出羽大橋からグリーンフラッシュ現象がみえるかどうかはわかりませんが、運が良ければ日本海側でもみえることがあるようです。
『緑の光線』のような、自分にとって大切な何か──それがたとえちいさな、他人からみたらしょうもないものだとしても──を抱きしめてよすがとして生きていく、そんな映画がすきです。アリーチェ・ロルヴァケルの『墓泥棒と失われた女神』とか、黒沢清の『アカルイミライ』とかもそうだとおもっています。なにかその目的が達成されずとも、そこに到達しようともがきつづけるプロセス、それこそが人生である、とHNOKも言ってました。だから私も、ちいさなよすがを抱きしめて生きていこうとおもうのです。
ごめんなさい。あなたとここで論争するつもりはないので、 あなたの提示した、語人が浅田彰を乗り超えるプロジェクトであるということに反論することはしません。また、味覚・嗅覚=下位感覚、視覚・聴覚=上位感覚は初めて知りました。とても勉強になります。以下はあくまでも感想です。
語人は最近ショート動画の類に取り組んでいるようである。ショート動画の戦略とは、同じシリーズを延々と続けることではなく、いろいろなネタを次々に出して視聴者の反応を確かめることだ。当たらなかった企画は早めに切り捨て、ヒットの種を探すのが肝要らしい。ショート動画とは、スキゾ・キッズ的な戦略が功を奏す形式なのである。対して、劇場における芸とは、同じ文脈を積み重ねたり、約束を裏切ったりする、パラノイア型の戦略が活きる場である。たしかに語人がしている、劇場でネタをしながらショート動画を回すというのはNさんの言うように、パラノ/スキゾの中間をいく、『逃走論』を超克する試みなのかもしれない。
話は変わるが、RYKEYがSATORUと街歩きロケをする動画のなかで、マクドナルドでダブルチーズバーガー単品のチーズ抜きを頼んでいた。隣にいたSATORUも、私を含めた視聴者もそれを見た時は困惑するばかりであっただろう。しかしながら、ここにはある種の本質が見え隠れしてはいまいか、と私は思う。
また、「IO(KANDYTOWN)の人生に欠かせない10のアイテム」という動画の中で、IOはマクドナルドのてりやきマックバーガーを挙げ、「マヨネーズ、レタス抜き。サイドはフレンチフライ。コーラ。これ決まり。で、調子良かったらナゲット。あと、バーベキューソース」と自分のスタイルを語っている。
RYKEYはチーズバーガーの核であるチーズを抜き、IOはてりやきバーガーの無駄な部分を削ぎ落とす。私が思うのは、この二人のラッパーのマクドナルド観は「引き算」であるということだ。バーガーキングはオールヘビー無料、ワッパーセット、キングミールなど「足し算」のバーガーチェーンであるのに対して、マクドナルドの本質は「引き算」である。RYKEYとIOは、知ってか知らずか、それを理解していると私は思うのだ。
私がマクドナルドを食べていつも思うのは、ただただまずいということだった。しかしそれは然るべきところに然るべき味があり、最低限それしかないということなのではないか。いつかの国語の教科書にあった「余白の美学」という文章か。あるいは深夜4時、DJがドラムとベースだけのシンプルな四つ打ちをかける客のまばらなフロアか。私がマクドナルドをまずいと感じているのは豊か=富んでいるという発想に依存しているからかもしれない。
こうして考えれば、チーズ牛丼というのは味の暴力であり、余白であるべきところをチーズで埋めているのではないか。単に富むということが豊かさではないとも考えられるだろう。てか、私はマクドナルドに対しては「無いことがまずい」と、チーズ牛丼に対しては「有ることがまずい」と思ってきたのか。
過剰なもの、富むものを愛することは簡単だ。無いことを愛すること、それが真の豊かさなのかもしれない。よすが系映画における豊かさも、こちらだろう。
