六号車で睨まれた(脳のキャッシュ・クリアについて2)
『火の華』(2025年、監督:小島央大)を観た(ここで感想などは書かないことにするので、映画について私と話したい人がいるのであれば、DMをして、羽根木公園に来てください。エメマン奢ります)。主人公がドラムスティックのようにハンマーを回す同僚を見て、南スーダンでの戦場での記憶がよみがえり、次の瞬間には無意識にその同僚を絞めているシーンがある。私もゆっくりと道を歩いているとき、両手を前に出してふらふらこちらに向かってくるジジイや、人影(のように見えるもの)に全身が総毛立って構えをとってしまうことがある。身体に染み付いた組み手争いの記憶が目を醒ますのだ。さいわいなことに、これまでにそれで無意識に人を殴ったり絞めあげたりしたことはないのだが、生け垣からはみだしたいびつな形に伸びた花に対して、蟷螂のように構えてしまった時は自分でも笑ってしまった。
ある時、MAXとき348号に乗車して帰省した妹は「六号車で(私に)睨まれた」と言った(「六号車でおめ、睨んだろ?」か、「ママ〜、六号車で路進(私の名前)がら睨まっだんけんど」だったか)。その車両には私は乗っておらず、夜行バスで帰省したのだった。当然、私は睨んでなどいないし、六号車になど乗ってもいない。六号車の何者かが妹の、私における〈組み手争いの記憶〉を呼び醒ましたのは間違いないが、これはやはり妹の生来の気質によるものなのだろうか。妹は大学時代、所属していたお遊戯サークルである「落伍者の会」において、「推断人」という異名をつけられたという。それほど、妹という人間の脳内は偏見に充ち充ちているのだろう。本当に睨まれたのかどうかはさておき、「睨まれる - 睨む」関係において、「睨まれたと思う」ということは「睨む」ことと同義なのではないか。私は25年生きてきて、誰かに「睨まれた」と思ったことがない。こう考えれば当然、睨んだこともないというわけだ。
「睨む=睨まれる」だとすれば、聖トモヤヌス帝の告げ口にEさんが怒ったのも無理もないことだ。私はいつか、どこかに寄稿した文章で、Eさんの怒りは不可解だと書いた覚えがあるが、この『火の華』の主人公と私の〈組み手争いの記憶〉と「推断人」の三点から考えれば納得できる。要は、おまえがメンチ切っとったから私がメンチ切っとると思った、んではないか。
もしくは、メンチを切っていてほしい、という願望がそのまま現実化したのか。妹の「六号車で睨まれた」というのも、新幹線という孤独で速い乗り物に、血縁の者がいてほしい、という願望が現実となったのでは。睨むということは「いてほしい」と望むことでもあるのかもしれない。Eさんもさみしさが「睨まれ」に変わり、ああなっちゃったのか。アマノジャクというか、淋しがり屋さんなのね……。
自分を曝け出して何かを書いている──書いた文をネットに載せて、「電脳倶利迦羅紋紋」と言うくらいだからジャパニーズ・ヤクザが刺青をいれるくらいの気合いか──彼にとって、書くこととは人命を賭した闘いなのかもしれない。そんな彼にどこぞのクソガキのカスの雑魚(私)が、noteを読んでいる、とセイント・トモ゠ヤスがニヤケ面で言っている。Eさんの憤怒は如何程のものであったのか計り知れない。一説には、そのとき近所の飼い犬が一斉に吠えだし、鶏が空を飛び、太陽神が復活したという。めでたい。
汗幽鬼は私に対し、Eさんに土下座せよ、とつねづね言うが、私にはそのような気持ちはない。セイント・トモ゠ヤスが菓子折り(切腹最中15個入り)を持って誠心誠意謝りにいくべきだと思う。
つーか、私からすればこのできごとも脳の容量を圧迫するキャッシュに過ぎない。というわけで、キャッシュ・クリアすることにしたい。がんばるぞ!
P.S. あらゆる人間関係が希薄化した現代の、特に都市部においては、何もしない他者よりも傷つけてくる何者かの方がいいんでしょうか?
