(短編小説)「我々はあの星明りのもと一つになると聞いている」
その晩、店はどこもかしこもとびきりの、鈴なりの笑顔ではちきれそうだった。
客席のぐるりを囲む壁から天井から、これでもかという豪華な装飾のちりばめられた金きらきんに炯々(けいけい)たる室内。客たちのニコニコの充足した表情と、ワイワイにさんざめくおしゃべり、王宮の楽興もかくやという品あり管弦BGM、食事やワインから立ちのぼって辺りにあまねく漂うこの上なくまいうーげな香り。
それらのブチアゲな優美に包まれて、スタッフたちも普段よりいっそうきびきびと、よけいにくるくると立ち働いた。それだけで、自分たちがなんだかいっぺんに良いものに、いっぺんに美しいものに赫奕(かくやく)と昇ってキャリアアップしてしまえるような気がするのだった。
そうだ。そうした人間の営みの最良のものが集うこうした殷賑(いんしん)なる場所では、美しくなれないものなどきっと何ひとつとして存在しない。より善くなれないものなど何ひとつとして存在しないのだ。もし存在すると思うような人間がいるのならいますぐここに連れてくるがよかろう。そいつはさぞかし気持ちのうす汚れた、よこしまな、霊長類最低野郎のツラをぶら下げてバカまるだしのパンイチの装いでやって来るにちがいない。
「ここで、今宵の世にも素敵な紳士淑女からなるお客さまがたに、当店のきまぐれシェフよりガツンとひとことご挨拶申し上げます」
うんと高さのある帽子をかぶり、すこぶる恰幅の良いシェフは、いかにもこの場に似つかわしい福々しい笑みを浮かべてホールの中央へと進みでた。司会からマイクを受けて話し始めてそうそう、耳をつんざくような出しゃばりさんな音が鳴り響く。「えー、皆様こんばん…キャイーン!」
カッとなったシェフはマイクを思うさま床に叩きつけて、グワシといっぱつ闘魂を注入した。その一瞬、クワッと鬼のようになった顔はたちまち単なる見まちがえかのようにクルリンパとスーパー店頭のサンタクロースのような和顔施(わがんせ)なものに戻された。そんなたしなみも忘れない、テレビでもすっかりおなじみの、お茶の間の人気ものなのだ。
「えー、ちみたちこんばん…いや失礼。皆様こんばんは。これからお召し上がりいただくメインディッシュは、わたしの渾身の一皿でございます。なにしろアナゴの握りという食材はフランス料理にとってはさしずめ鬼門ともいうべき手ごわい食材でございまして、どう手をくわえましても煮詰めのタレと酢飯の酸とアナゴのブスなヘビづらがバターの邪魔をしてまいります。そこで、わたしは試行錯誤のすえ、これを黙らっしゃいとばかりパイに包んで閉じ込めてご覧に入れました。パイのなかではアナゴの握りに黒トリュフとフォアグラをかさねて窒息させ、そこに飛車と角、対局相手の香車をちょろまかしてアクセントを加え、じっくりと時間いっぱい長考いたしてございます。これによりタテ、ヨコ、ナナメの味の拡がりが、皆様の舌という名の将棋盤いっばいに溶け出しまして客席からおもわず『いよっ、後手3、4歩(ふ)!』『参りました!』のうなり声があがるという寸法です。皆様のおてもとにある、切り札のスペードのジャックとナイフを使ってお召し上がりください」
満場のテーブルからしぜん拍手と喝采がわき起こる。精いっぱいおめかししてノースリーブの殿方いちころパーティードレスに身をつつんだミサキの目もきらきらと潤いを帯びて光りはじめる。
とうぜんだ。美味しい食事の感激にくわえて、そこに人間の不屈の努力というこの夏一番の汗と涙の感動の物語が折り重なってくるのだから。
「…人の営みって、尊いのね。んもう!これだもん、人間って嫌いになりきれないじゃない?朝の通勤電車ではあんなにも『つぎまた押してきたらそんときゃテメエやったんぞ!』だなんて、メンチの応酬をついついごめんあそばせながら過ごしてしまうっていうのにね」
「あははは。美味しい料理を食べたらすぐにこれだ。まあったく宏池会系IMFJの君らしいよ。繊細で感動屋さんなんだから。ただし、君のばあいのIMFJのMとJはミニモニジャンケンぴょんのMとJ。IはさしずめインジャンぴょいのI、といったところかな」
隣に座るミサキのフィアンセ、コウキのお送りするいつものペダンチックで気の利いたおしゃべりだ。
「なにそれ、ひどーい!んもう!コウキったら、しらないっ!」
「おこるなよー。めんごめんご。でも、君の言うとおり、ほんとうにこちらの料理はなんとも素晴らしいものだよ。まさしくほとんど神の領域だね。そして、この領域に到達せんがための人の努力ほど尊いものが他にあるだろうか。そこには、そうしていくら力を尽くそうとも神の御業(みわざ)には決して及ばないという人間の悲しみがある。逃れられない悲しみ、約束された悲しみ、おてんばに疾走する悲しみが。その悲しみがスパイスとなって、料理はこんなにも美味しくなるのだと俺は思う。俺たちは多かれ少なかれ日々、そんな悲しみを食べることで命をつないでいるのだ。ご覧、俺たちはお母さんや給食のおばさんのつくる悲しみを食べてこんなにすくすく育って大きくなったんだよ」
コウキは話しながら自らの言葉の意味が身体のなかに響き渡って、おもわず数発ジーンとくるやつをボディにもらった。窓の外に見える夜が藍をさらにくわえてまったき夜にちかづき、人々の五感の冴えわたる躍動を促し祝福するかのようだった。その厳かな夜の色に励まされ、勇気づけられ、コウキはつづけた。
「そうした人生の悲しみミックススパイスを、哀しみガラムマサラをともに同じ気持ちで味わうことのできるような人と、俺は幸いにもこうして巡り合うことができた。そう、まずはありがとう。まずは、ここブラジルの裏のお勝手口からこんばんは。そんなかけがえのない人の隣で、人としての宿命的な悲しみをこの胸いっぱいに吸い込み、むせ返りながら、喜びの涙にくれて、俺はどこまでもこの星の自転を加速させ、公転から約束された高利回りの光栄につぐ光栄のいさり火を我が天上に我がみささぎにほの明るくいかにもわんぱく放題に押しいただいて人生という名の相撲道を邁進してゆきたい。ミサキ、いやさ俺のミサキ、いやさ俺の悲しみの王妃ミサキ、いやさ俺の愛するミユキ…結婚しよう」
ミサキは聞いていなかった。
円卓で隣合わせになった白髪の紳士と、ビジービーバー関数だがグッドスタイン定理だかフェザータッチ愛撫だかについて熱心に話し合っている。
ちえーっ。聞いてねえでやんの、とコウキは思った。でも、まあいいか。さっきは肝心な大サビのところで季語をトチっちまったし、そもそも今夜はそうでなくったってみんながこんなに偉大な料理を出されて気もそぞろな晩だ。こんやの主役はおれじゃないおれじゃない。だって、そうだろう?こんやの主役はだれがなんと言おうと、人類の叡知と敬虔、そうさ、こいつであらかた決まりなんだからな。
店はさらなる人々の笑顔と歓声で建物の内側から目いっぱいに飾りたてられ、暗い銀河系の宇宙空間の遥か彼方にまで、灯台の投げる勇敢なる航海者への目印のような強くたのもしい光を届けていた。
コウキがタクシーから降りると、そこは周囲を高層ビルに取り巻かれながら、昭和の面影の残るたそがれた街がそっくりまるごと冷凍保存されたような、とびきりのほのぼの街区だった。
「うわあい。こいつはスゲーや」
なにしろ大手鉄道会社の子会社を事業主体に大規模再開発された駅直結のサステナブルシティの中核商業施設に隣接したレジデンシャル・ツインタワーからもトランジット可能な多角的イベントスペースを包摂する形で設けられたクワイエット・ラグジュアリーエリアの連なる一角の最重要部分を占めるかつてのトラディショナル・デラックスパーク構想の直系の後継施設たる未来型スーパーカップ・バニラから見て父方の六親等の「はとこ」に当たるというような位置づけとしての名をほしいままにしている、そんな言わずと知れたヒップでポップなシャレオツ街区なのだ。
バブル崩壊いぜんの古き良き街並み。その趣きをそのままに、この区画にあるすべての民家を一軒一軒のきなみ飲食店にしてしまうという大胆きわまる都市計画のたまものがこれだった。題して「他人(ひと)の家の晩飯食堂」プロジェクト。
どうして人々の底なしの助平根性は、他人の家の食卓をのぞきたくて、なおかつそこでご相伴にあずかりたくて仕方がない。それは幾多のおしゃべりなテレビ番組がこれまで雄弁に物語ってきた統計的事実だった。ある番組は巨大なしゃもじを持った落語家に家々の晩飯を突撃させ、ある番組は毎回芸能人を旅先へと赴かせそこで出会った人の家の昼飯を見せてくれろと平に拝み倒させる。
なにしろ私たちはお隣のお宅の飯が、他人の家の飯が気になって気になって仕方がない気だてときている。そんな社会化された動物の強迫神経が日々産み出してゆく、熱狂的にさかまくひりひりとした願望。
つまり、この街区に来たものは、いいかげんに目星をつけた人家をふらっと訪ねることによって、あたかも食事どきに他人の家に無遠慮にあがりこんだかのような背徳感を手にする。あたかも他人の家の献立を覗き見ているかのような出歯亀根性の充足を覚える。あたかもおいそれと他人の家の飯にありつけたかのようなめくるめくお得感を味わうというわけだ。そうして客はみな、この背徳とお得と出歯亀の感情のないまぜで飯をいつもよりうんとよけいに食うだろう。満腹中枢がジャックポットを呼び込み、あの頃の高校の部活動帰りの空腹感が呼び覚まされ、笑いが止まらないほどうんとたらふく食うだろう。これが流行らないわけがなかった。
コウキは会場受付で入場料と引き換えに大きなしゃもじを手渡され、パスポートとしてのそいつを抱えて芳しき昭和の黄昏れた街を歩き出した。夕陽を浴びて長い影を伸ばしている街路樹の一列に伸びる両脇の家々からは、夕餉のいい匂いが一面にたなびいていた。コウキは金網にしがみつくように、家々の裏手からそれぞれの換気口にむかってごきげんにすっかり濡れた鼻先を伸ばした。
くんくんくん…。味噌汁に、カレーに、こっちはサバかなんか焼いてるぞ。こちらはやけにスパイシーだけど今晩はちょっぴり冒険して中東あたりのエスニックとおいでなすったかい?さあて、ど・れ・に・し・よ・う・か・な、と。ア・イ・シ・テ・ル、と。
カズヒロジたち、あいつらはもうさきに着いて、とっくに晩飯ツアーの旅程を始めてるんだろうな。でもせっかくのこの舞台装置のなかにあってスマホをつかうのも不興ってやつだ。ここはひとつぶらぶらとあなた任せに歩いてゆき、何軒かヒトの家の飯をハシゴしてゆく途中でばったり出っくわしてやるのが乙ってやつだな。
コウキはそぞろに歩きながら、くんくんと鼻を鳴らしてどこの家に飛び込んだものか、その迷いじたいを楽しんだ。そのうち、どうしてもここの家に飛び入って飯を食いたいという選りすぐりの一軒が現れるだろう。そうは思っているものの、実際にはなかなかどうして決め手に欠けて、なかなかそんな家が見つけられずにいた。
「いいぞ、いいぞ、庭も綺麗でおしゃれなお宅だ。ここにしようか…うーん、クサヤかあ。この家のいっぱしアールデコ風の外観でクサヤを焼くっていうハレンチな神経が、ちょっとナイかもなあ…」
「やっぱりカレーがいいかな。よし、次にカレーが匂ったらそこの家にしよう。おっ、うまいぐあいにカレーだぞ。たしかにカレーだ…うーん、でも大型犬を飼ってるお宅なのか。ゴールデンレトリバーをお世話する手がじっくりコトコト煮込んだカレーってな、ちょっとナイかもなあ…」
「古い家だなあ。うわっ、玄関の傘立て?この水瓶みたいのきもちわりぃなあ。しかもここなぜか鶏小屋みてえな臭いするぞ。この家で卵焼きやオムレツましてや手羽先なんか出されようもんなら、すかさずこのコケコッコウな鶏小屋臭が鼻をよぎっちまう、これはさすがにナイかもなあ…」
そうこうしているうちに、コウキはふと気づいてしまった。
そうだ、おれってば、知らない人の握ったおにぎり、ムリだったのだっけ。うんうん。そうさ。だって、あれってどうにもこうにも生理的にキモチがわるい。知らないひとが知らない手のひらから滲みださせたなんかの分泌液でもってぎゅうっと固めた、いうなればもう死人に鞭打ったような米粒のよせ集めだろう?
いまにも沈みそうに限界まで傾いた陽が最後の絞り出すような代謝色の光を投げていた。街路にたたずむ樹木や電信柱や軒並からの枝垂れる花々が、そのきれぎれの光を浴びておのおのの輪郭を少しずつ変えてゆくかのようだった。そんな「逢魔が時」とも言える奇妙な感慨にとらわれていたコウキは、たちまち本来の自分の気持ちに従順になった。素直に、思いきって「なりたい自分」になった。これまでの周りの人から押し付けられた人当たりの良いお調子ものの「愛されコウキ」ではない、本当の、素っ裸の、フルチンのコウキに。
けっ。やめたやめたい。こんなのおれはごめんだね。他人のいえの晩めしなんていやあなこった。たまに知らないババアの髪の毛なんかが紛れ込んでるおしんこなんざ食わされた日にゃあ、それこそ深刻なトラウマになっちまう。オエーッ、オエエエッ、ゲボーッ、とくらあ。まっぴらごめん、えんがっちょだよーだ!
「ふふふ。ついに気づいたようだな、コウキ」
コウキの後ろから男の声がした。
「だ、だれだ⁈」
振り向くと、いやに大きなサングラスをかけダークスーツに身を包んだ互いにそっくりな男が二人一組で夕陽を背負っていた。残照に相対して伸びてゆくイチョウ並木の初まりの一本、そのすぐそばに長い影をつくって双子のように彼らは立っていた。
「ついにそのことに気づいたようだな、コウキ。おまえのこれまでの人生とは、いわばそのことを知るための長く孤独な、曲がりくねった雨に濡れそぼる午前3時の涙にくれた哀愁の国道二号線だったのだ」と一人が言った。
「そのとおり」ともう一人が言った。
コウキは驚きのあまり声も出なかった。
男たちがつづけた。
「きみたちはさまざまな、それぞれ固有の課題としての『問い』を抱いてこの世へとやってくる。『人はなぜ【無限】を志向してしまうのか』『人はなぜ二項を立ててものを思弁せざるをえないのか』『人はなぜ表現のさいに隠喩を避けてはとおれないのか』なかんずく、神の問題、死の問題、命の重さという問題、真善美といった観念の問題」と一人が言った。
「そのとおり」ともう一人が言った。
「人は己に託された、そうしたたった一つの根源的な『問い』をたずさえて、その答を探しながらこの世での日々を送るのだ。本人が自覚していようと自覚していまいと関係なくね」と一人が言った。
「そのとおり」ともう一人が言った。
「そうして、その己の託された『問い』に首尾よく答を出せたものから順番に、資格を手にし、去ることを許され、この地上をようやく引き払ってゆく。これが、きみたちの言う『寿命』というものの正体だ。先ほどの神の問題や死の問題、そうしたいかにも難解な『問い』を割り当てられたものはその答を出すまでに八十年、九十年、はたまた百年といった長い歳月を要することもあるだろう。反対に、簡単な『問い』を授かったものは幼くしてその解答にたどり着いてしまうことさえあるだろう。あるいは、それは不公平なのかもしれない。だが、それが宿命というものなのだからこればかりは仕方がない」
「そのとおり」ともう一人は言わなかった。その代わり空をちらっと見て、何かを待ちわびるかのように落ち着かなげに腕時計を確認した。
「コウキ、こうして早々に答にたどり着いた、きわめて勘の良いきみにはもうおわかりだろう?この世でその答を求めるべく、きみに託された『問い』とはなんだったのか?言うまでもなく、それは『自分は他人の家のメシが食べられるのか否か?』これだった。そして、おめでとう!いま、きみは立派にそのきみの『問い』への答を導き出したのだ。『さあ答をどうぞ!』『たべられない!他人のいえのメシなど食えたものか!』コングラッチュレイション!いやあ、おめでとう。たしかに多少ともツイてる問題ではあった。少なからずラッキー問題だったとは言える。それでもじつに鮮やかな解答のお手ぎわだったよ」
そう一人が言うと、もう一人が「そのとおり」と言って、もういちど腕時計を見てから空をみあげた。
空はしだいにごうごうと鳴りだし、頭上を覆うおおきな雲が手際よくつぎつぎとちぎれ、まるで何かにそこを譲るかのように大きく場所を空けた。ぽっかりと口を開けた残照に染まらずいまだ青の残る空の隙間から、いまにもその何かがやって来ようとしていた。
コウキは呆然として立っていた。
これが、この世でおれに託された「問い」だって⁈ばかな。いや、でもそう言われてみればたしかに思い当たる節があるぞ。おれはいままでずっと他人の家の飯が好きだとばかり思いこんでた。それこそ、異常なまでに!
幼少の頃、見ず知らずの他人の家にお勝手口から手当たりしだい上がりこんでは片っぱしから飯をねだって問題児扱いされた記憶。高校の三年間、クラスメイトの弁当と自分の母親の作ってくれた弁当とを交換するよう強引に全員と交渉をかわし、話をとりつけ、クラス全員ぶんの家の弁当を食べるまで決して飽くことのなかった記憶。いつか、他人の家の飯を日替わりで食べられるという付録のついた『週刊 知らねえ家のメシ』そんなデアゴスティーニ的なオバケ雑誌を創刊するといった甘ずっぱい夢、それを力いっぱい卒業文集の寄せがきに書き殴ったあの記憶。酩酊すると、その夢ばかりを相手がほとんど逆上するまでしつこく繰り返してきた二次会三次会でのあの記憶。記憶、記憶、記憶…。
あれらの衝動は、それは、おれのこの「問い」への答を導くための糸口となる衝動だったのだ。
いまやコウキは確信した。
やがて、夕陽を浴びたイチョウ並木の向こうから、営業車のような趣きのワゴンRが静かにこちらへ走り寄ってきた。
「さあ、時間だコウキ。この世界にさよならを告げろ」と一人が言った。
「そのとおり」ともう一人が言った。それからまた睨むように恨みがましく空を見あげた。
ワゴンRが止まり、タクシーのように助手席と後部座席のドアーが平行してひとりでに開いた。
「おれは…コイツで、どこかへ行くのかい?」とコウキは尋ねた。
「そうだ。きみはこれでこの世とはおさらばなのだ。…ミサキに、愛していると言ってやれ」と一人が言った。
「そのとおり」ともう一人が言った。
コウキはためらった。だが思いきってそのじゃまっけな羞恥の感情を克服すると、恋人へのやむにやまれぬ昂った気持ちを住宅街のなか、あの簡潔な殺し文句である平仮名四文字にして叫んだ。
「○○○○ーっ!」
それを聞いて皆がおもわず顔を赤らめた。うつむきながらそれでも不覚にもうるるときた。いつだって、若者のひたむきな恋のバイブレーションやサーキュレーションにおじさんたちは手もなく感動してしまうものだ。それが青ければ青いだけ、夜更けのハイボールが余計にすすんでしまうことを諸君にはどうすることもできまい。
「さあ乗れ。そこなワゴンRに。おっと、高慢ちきで太子党なテクノクラートくんには似合わない、そのクソダサイしゃもじだけはそこへ置いてきな」一人が優しく言った。
「そのとおり」ともう一人がぶっきらぼうに言った。
コウキを乗せてワゴンRはゆっくりと走り出した。入れ違いにすぐ後ろから夜がやってきていた。車が走り去ると辺りはすぐに真っ暗となった。こうして、コウキはこの地上からこのときをかぎりに巣立っていった。
轟音をあげて、プロペラの回転もたくましい一台の黒塗りのヘリがいましも飛び立とうとしていた。
戦後優に八十年、いまだ米軍に恣(ほしいまま)にされている屈辱的な六本木の飛行場を眼下に見据えコケにするように、その高層タワー最上階のヘリポートはその敷地一帯をまさに天上的なきらめく光で圧倒的に飾り立てていた。屋外にしつらえられた晴雨兼用デラックス・ソファーに深々と身を沈め、よく冷えたウルトラソウル・クリュッグのグラスと上物の非合法ベルーガ・キャビアを優雅に口にするミサキをポータブル・クリスタル・キング・シャンデリアが都会のアダルトな夜のなかに浮かび上がらせていた。
フィアンセのコウキはもういない。こんなに悲しいことってあるかしら。でも、彼女はそんなコウキの残していったドデカな夢を、この世に残された自身が託されたのだと思うことにした。コウキから手渡された夢のバトン。いまはまだデブの子が周回遅れで走る、劣勢な赤組のバトン。でもゴムのあご紐のピンと張ったこの紅白帽に涙は似合わない。さあ出発だ!
すべての照明が落ちた。ミサキは中身の残るシャンパングラスを六本木の夜に向かって献盃のように投げ捨てると、ひときわ明るくミサキを見守るような一等星に向かって呼びかけた。
コウキ、あんた聞いちょる?ウチ、コウキのためにば、どさんこうまかっちゃん他人ば家のメシの数々、こん世界中からかき集めてきてぎんちゃり、いや、きっとごんちゃるぜにね!
準備万端のミサキのもとへ新任の有能な秘書がやってきた。
「ミサキ様、ご準備が整いました」
「さあ行くよ、カズヒロジ!」
「しかし、ほんとうにそんな乗り込みかたでよろしいので?」
「当ったり前じゃない。だって、わたしとコウキの船出だよ。いっちばんわたしたちらしいやり方で、進水式といきたいじゃない!」
ヘリは命令どおりミサキを残して舞い上がり、六本木の上空を旋回した。そこから縄梯子が下ろされると、長い髪を風にあおられながらミサキはそれに夜目にもほの白い華奢な両手両足をかけた。ヘリは縄梯子ごとミサキをぶら下げたままゆるやかな傾斜をつくって上昇した。ミサキの遙か足下で、人々の暮らしを隈取る個々の光は、たちまち一面に長く連なった砂子のような面立ちに変わっていった。
「いいじゃない。いいじゃないの。グッバイ・マイラブ。ボン・ボヤージュ!」
ヘリはミサキをなびかせて前へ前へと飛んだ。ほら、あそこをごらん。ミサキの若く美しいスマートな身体がぐんぐん風を切って斜めに傾いでゆく。ミサキの着用した卸したての鮮やかな多色づかいのワンピースと風に持っていかれたおてんばなスカーフも手伝って、あたかもそれは万国旗か、機体から投げられた船出のお別れの紙テープにも見えようじゃないか。
了
